6.何年か前に「ピアノ協奏曲の誕生」(著・小岩信治)という本を読んで(図書館で借りたもんで今、手元に無いのですが)、妙に納得した記憶があります。ショパンのピアノ協奏曲に対して何となく感じていた違和感というか距離感というか。高校生くらいの頃は好んで聴いていたはずなのに、そして嫌いになった訳でも飽きた訳でもないのに、だんだん、CDへ手を伸ばそうという気が起こらなくなってきて。
特に第1番は、先に書かれた第2番に対してさらに長大化して40分前後に及ぶ大曲、若書きとは言え、さすがはピアノの詩人・ショパン!となりそうなところ、なんですが。
何かが妙。大曲であってピアニズムも充実、なのに、それに見合うスケール感が無い? ということなのかどうなのか、自分でもよくわからなかったんですが。ちなみに、ほぼ同時期生まれのメンデルスゾーン、リストのピアノ協奏曲は緊縮化に向かっており、シューマンも30分ほどの、いわば「普通サイズ」(1810年前後生まれの有名作曲家って、多いんです)。後のブラームスとか、ブゾーニとか(全5楽章、合唱付)とかは、別次元のオハナシ。
要は、ショパンのピアノ協奏曲は、ワルシャワ時代に書かれたものであるが故に、ヨーロッパの最先端の音楽からはちょっと遅れた、古い形態のもの、ということなんだそうな。確かに、オーケストラは序奏、伴奏、間奏に徹している面があって、なるほど、入れ物は古典派チックなのに、そこに斬新なショパンのピアノが入れられているせいで、何やらこの曲がバリバリのロマン派音楽であるような思い込みが私にあって、だんだん距離感を感じるようになったらしい。・・・というくらい、ショパンの独自性、先進性が高かった、ということで。
何の話だっけ。すみません、この映画にピアノ協奏曲は出てこないのに。
ショパンの少年時代から始まって、パリでの社交界デビュー、リストやサンドとの出会い、その死までが描かれます。なので一見、伝記映画の体裁ですが、脚色も多々あり(大半、と言った方がよいかも)。パリではカルクブレンナーなるちょっとイヤな人物とも少し接点を持ち、映画ではえらく扱いの悪い描かれ方ですが、どちらかというと少なくとも一時期は、ショパンの方がカルクブレンナーを称賛しており、彼への弟子入りも考えていたのを周囲が止めた、という話だったはず(上述のピアノ協奏曲第1番をショパンはカルクブレンナーに献呈している)。もうちょっとこの二人の関係を掘り下げたら映画に幅が出て良かったかも、、、などと思うのは、この映画の中心がショパンだと思うからであって、むしろこれは、ショパンとその師・エルスナーの友情の物語、見ようによってはエルスナーの方が主人公とも言えます。カルクブレンナーには憎まれ役をお願いする必要あり。ちなみにショパン少年の才能を見抜き音楽理論の指導をした実際のエルスナーは、ワルシャワ音楽院の院長であって、こんなしがない田舎教師としてショパンのパリ生活に付き合った訳でもないし、そもそもショパンの目的地が最初からパリだった訳でもなし。ってなことはどうでもよくって、この映画における「エルスナー先生」の、何とも言えぬ味わい深さ。これが、映画を支えています。
ショパンを演じたコーネル・ワイルド、劇中で流れる音楽を本当に自分で演奏している訳ではないでしょうし、指のクローズアップは代役でしょうが、明らかに本人が指の動きを見せるシーンも少なからずあり、雰囲気を壊すことはありません(音符と指の動きとが合致しないシーンもありますが、この辺りは迫力重視、といったところでしょうか)。
この映画の残念なところは、スタジオ撮影の多用があまりいい方向に向かっていない点でしょうか。はるばるマヨルカ島へやってきたとて、どうも映像的に変わりばえがせず、いささか面白味に欠けます。地中海らしい光景や空気感もなく、ただ行ってただ帰ったみたいな。
ショパンの病気についても作品中ではもう一つうまく描かれず、演奏中の汗や喀血(?)でそれが示されるとは言え、やたら顔色いいし。さすがに最後の死の床では顔色悪いですけども。なんか、唐突な印象。ついでに、祖国への想いも劇中で描かれはするけれど、やや表面的か。
という訳で、やっぱりこれ、主人公はエルスナーだと思う。ショパンは、脇役。
編曲・原曲を含め、劇中でショパンの音楽が再三取り入れられて、歌は無くともこれは一種のミュージカル。その点では飽きさせない作品となっています。