1.無垢な暴走の果てに“BABY”が辿り着いた場所は、天国か地獄か。
この映画は、純真故に「犯罪」という名の道なき道を走らざるを得なかった男の「贖罪」の物語である。
主人公は少年のような風貌の若き“getaway driver(逃し屋)”。
子供の頃の事故により始終耳鳴りが鳴り止まない彼は、音楽でそれを掻き消した時のみ天才ドライバーに変貌する。
彼の聴く音楽が全編に渡って映画世界を彩り、すべての音という音が音楽に支配される。
エンジン音も、銃声も、怒号ですらも、彼が聴く音楽に合わせて“ビート”を刻む。
ビートに彩られた痛快なアクションの連続によって、当然ながら観客は最高の高揚感に包まれる。
エドガー・ライト監督による問答無用にエキサイティングで、ハイテンションな映画を堪能している、ように確かに感じる。
監督の過去作、「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホット・ファズ」のように、彼の“映画愛”によって、エキサイティングなコメディが益々加速して、多幸感溢れるエンターテイメントへ昇華されるのだろう。と、高を括っていた。
しかし、そうではなかった。先に記した通り、「贖罪」というテーマを孕んだこの映画は、幸福なストーリーラインを許さず、主人公をじわじわと確実に「地獄」へと引き込んでいく。
それは、今作の最大の見どころであったはずの主人公によるドライビングシーンの変遷からも明らかだ。
主人公“BABY”による天才的ドライビング技術のハイライトは、実は冒頭の一番最初のシーンに集約されてしまっている。
その後の逃走シーンは常に何かしらの“障害”が発生し、彼の“見せ場”とそれに伴う“高揚感”はどんどん削ぎ落とされていく。
ついには車からもはじき出されて自らの足で無様に逃走する始末。
ハイセンスな娯楽性に彩られていたように見えた映画世界が、凄惨な暴力と血によって塗り固められていく。
そうして、通り名の通りに“BABY”だった主人公は、ようやく自分自身が辿ってきた道程の「罪」に気付き、対峙する。
ついに、逃げ道も、後戻りも出来ないことを理解し、“耳鳴り”を塞いできた音楽を止める。
そう、幼き頃に「傷」を負った彼にとって、音楽を聴くということこそが、“getaway driver”としての生き方そのものだったのだ。
想定していた映画世界とは随分と異なり、想像以上にエドガー・ライトという監督のこれまで見せてこなかったタイプの「野心」に溢れた作品だったと思う。
ただし、やはりこの監督ならではの“映画愛”は溢れかえっている。主人公も、ヒロインも、悪役も脇役も端役ですら、気がつけばみんな愛おしく感じる。
SONYの映画なのに、iPodを愛用し使い倒すその心意気や良し!