13.「私には差別意識なんてものは無いのよ」
と、キルスティン・ダンスト演じる白人女性管理職のミッチェルが、それが自分の本心だということを疑わずに言う。
それに対して、黒人女性としてNASA初の管理職を目指すオクタヴィア・スペンサー演じるドロシーはこう冷静に返す。
「分かっているわ あなたがそう思い込んでいることを」
愕然とするミッチェルのみならず、僕自身を含め、観客の多くがドキッとした台詞だったろう。
世界のあらゆる「差別」における最大の問題点は、あからさまなレイシストをどう排除していくかということではない。
「私は差別なんてしていない」と平然と生活をしている我々大衆の根底にある無意識の差別意識を、どう根絶できるかということだ。
「差別なんてしてない」と信じている人間に、実は存在する差別意識を認識させること程難しいことはない。
たとえそれの存在に気付いていたとしても、「知らないふり」をしていた方が、ずっと楽だし、正義を気取れるからだ。
自分自身の中に巣食う差別意識に対面し、それを認めることは、実は最も勇気が必要なことなのかもしれない。
社会に蔓延る人種差別を描いた映画を多々観てきたけれど、「“差別”が何故愚かなことなのか」という普遍的な問いに対する、分かっているようで分かっていないその「答え」を、これ程まで明確に、そして娯楽性豊かに示した映画を他に知らない。
この映画が示すその明確な答えは、あまりに潔く、的確だ。
即ちそれは、「差別」の存在が人類の進化においてあまりにも“非効率”であり、その歩みを留める致命的な“エラー”になり得るからだ。
本当に優秀な人材が、当たり前のように根付く差別意識とそれに伴う愚かな仕組みのせいで、ただ「トイレに行く」だけのために、無意味に駆け回らなければならない。
人類全体の新たな「1歩」のために、1秒、1ミリ、1グラムを追求するべく職に就く人間が、愚かな非効率を強いられることの罪深さをこの映画は圧倒的な雄弁さで物語る。
言わずもがな、キャストの演技はみな素晴らしい。
特に主要キャラクターとなる3人の黒人女性を演じた女優たちの魅力的な存在感は圧巻。原題「Hidden Figures」が表す通り、歴史の中に隠れた人達の輝かしい功績を燦然と体現している。
同年のアカデミー賞を勝ち獲ったのは、今作と同じく、社会的マイノリティの葛藤を叙情的に描いた「ムーンライト」だったわけだが、今作の映画としての非の打ち所の無さは同作を遥かに凌駕する。
世界中の誰が観ても、心から楽しめ、提示される問題の根深さを理解することが出来るこの映画の価値は極めて高い。
クラシックな車と同じく、古い「時代」とそれに伴う間違った「価値観」は時に立ち往生する。
悲しくて悔しくて、先行きままならないことも多々ある。
でも、ならば車の底に潜り込んで直せばいい、正せばいい。
彼女たちが示した勇気とプライド。そのあまりにも尊い価値に涙と多幸感が溢れ出る。