5.「普通」に生きることの難しさと、それを同調圧力で押し付けられるこの世界の愚かしさ。
そんな普遍的な社会のいびつさの中で、“フツー”じゃない二人が繰り広げる全く噛み合わない会話劇が絶妙なラブコメだった。
ストーリー的に練り込まれた工夫や発見があるわけではないけれど、ベタなコント劇のような展開の中で、「人間」としての在り方そのものが不器用な二人が、ドタバタと滑稽な恋模様を交錯させる。
ただその不器用な恋模様と人間模様は、彼らと同じように“フツー”に生きることが下手くそな人間にとっては、事程左様に突き刺さり、終始笑いっぱなしだった。
かく言う自分も、決して人間的に器用ではなく、上手ではない生き方をしているとしばしば感じる。
他人と同調することや、強要されることを嫌い、そのことで周囲を不快にし、自分自身も抱え込まなくてもいいフラストレーションを溜めている。
もっと割り切って、「普通」に合わせて、「常識」に従順に生きられたなら、もっと楽になるのかもしれない。
でも、自分自身誤解してはならないのは、そういう生き方をしているのは、他の誰でもない自分であり、誰のせいでもないということ。
「普通」に生きることがどんなに滑稽で、愚かしく思えたとしても、それがこの世界で生きていく上で求められる常識であるならば、それは理解しなければならないし、それに反して我を通すのならば、それなりの「覚悟」を持たなければならない。
そういうことを、この映画の二人の主人公も充分に理解していて、だからこそ「普通」になってみようと彼らなりの努力をしてみるし、その上で、自分たちはどういうふうに生きていこうかと、道筋を見出していく。
果たして、普通でもなく、まともでもない彼らは、望んでいた何か、憧れていた何かを失ってしまうけれど、ものすごく狭小だったその視界は、確実に広がっている。
昔のアニメ映画の台詞にもあったように、普通じゃない生き方、人と違う生き方は、それなりにしんどい。
でも、そんな“自分”を無かったものにして、誤魔化して、妥協して生きていくことも同じようにしんどい。
どちらの“しんどさ”を選ぶことも自由だし、避けられないことならば、せめて自分自身だけは自分に対して「納得」して生きていきたい。
そんなふうに、鑑賞者の「視界」も広げてくれる映画だった。
主演は、清原果耶+成田凌。奇しくも今年見通した朝ドラ「おかえりモネ」+「おちょやん」コンビ。
成田凌は、良い意味でアニメのキャラクターのようなまるで実在感のない存在感が独特で良い。
そして、清原果耶。めくるめく季節のように切り替わる表情と感情表現は、女優として唯一無二のものを感じる。
この若き女優の天性は、まだまだ計り知れない。