1.《ネタバレ》 楊徳昌は、4時間にも及んだ前作『牯嶺街少年殺人事件』に匹敵するほど複雑に相関する登場人物を、このたかだか127分の中に無造作に配置し、配置された彼らはのべつまくなし饒舌にまくしたて、そのややこしく入り組んだ人間関係に言及する。説明描写の一切を放棄したまま、彼らの夥しい会話=情報だけがひたすらぎっしりと詰め込まれていく様は圧巻だ。だが、膨大な台詞を膨大な字幕で追いかけなければならない我々外国人にとっては、もはやお手上げである。『牯嶺街』でその名を世界に轟かせながら、続く本作がカンヌに出品されつつ無冠に終わったのは無理もない。(台詞を極端なまでに排した蔡明亮の『愛情萬歳』が、同年のベネチアでグランプリを獲得したのは皮肉な話だ。)この映画を初見で完全に理解することは、ほぼ不可能だからだ。だが二度観なければ理解できないとすれば、その映画ははたして映画失格だろうか?おそらく映画祭の審査員にとってはそうだ。多くの一般の観客にとってもそうだろう。しかし私にとっては違う。過剰にして饒舌なこの映画には、けれど恐ろしいほどに一切の無駄がないのだ。その映画的ボルテージは傑作『牯嶺街』にすら引けをとらない。そしてそれを今度は他愛のないラブコメの枠組みでやってのけたのだから、やはり楊徳昌は恐るべき天才だ。孔子の論語の引用から物語りはじめる小賢しく皮肉屋の楊徳昌だが、本作において彼が最後の最後に見据えるのは、物質社会に翻弄され困惑する儒者の末裔=現代人が、それでもひたすらに誠実であろうとするその有り様だ。打算や虚栄が前提の世界だからこそ八方美人と揶揄されるチチ。親友モーリーとの友情にも亀裂が入り、「用もないのに来られたら目障りだわ」となじるこの友人に対して彼女が出す答え。「会いたかったの。あなたもでしょ?」それは途轍もなくシンプルで美しい、ありのままの感情だ。そしてラストシーン。去りゆく相手をそれでも想って一度閉じたエレベーターを開くこと、あるいは去りゆく相手をそれでも想ってエレベーターの前に舞い戻ること。扉が開き、そうして目の前に現れるのは、あまたのラブコメにおける御都合主義的ハッピーエンドとは決定的に違う、必然の邂逅だ。楊徳昌は言う、これこそが真実なのだと。心のままに向かいあった「もう片方」を、彼らは心のままに、力いっぱい抱きしめる。いつかではなく、そう、今すぐに。