11.銀河の果てにゴミ屑のように捨てられたアウトローたちが、三度宇宙の危機を救うため“最後”の戦いに挑む。
2014年の“Vol.1”公開時は、スーパーヒーロー不在のこの寄せ集めチームが、MCUの中でこんなにも愛すべき存在になるとは思いもよらなかった。
だが、この愛すべき馬鹿者たちは、シリーズを重ねるほどにその愛着を深め、70~80年代のヒットチューンをガンガンに響かせながら、ノリと歪な絆でその存在感を唯一無二のものにしてきた。
そんな彼らの文字通り銀河を股に掛けた冒険も、ついに今作で終着を迎えた。
もっとシリーズ化を続けてほしいのはやまやまだし、それが可能な世界観ではあるのだけれど、もはや致し方あるまい。
この映画世界の紛れもない“創造者”であるジェームズ・ガンが、MCUからDCへ去ってしまうのだから。
何のしがらみもない無責任な映画ファンの一人としては、MCUで「ガーディアンズ~」の続編を作り続けて、DCで「スーサイド・スクワッド」の続編を作り続けてもいいじゃん!と思ってしまうが、そういうわけにもいかんだろう。
ここは、ジェームズ・ガンをクリエイティブのトップに招き入れたDCコミックスの英断を褒めるしかない。
“創造者”による最後の作品だけあって、本作には、ジェームズ・ガン本人の人生観が如実に表れていた。
過去の失敗により、一度は業界から「追放」を余儀なくされ、新進気鋭の絶頂から叩き落された。
まさにそれは、母親の死の直後に宇宙の荒くれ者たちに攫われたピーター・クイルしかり、非道な改造を施されたロケットやネビュラしかり、家族を虐殺されたガモーラやドラックスらしかり、彼らが絶望の淵で、必死に“生”にしがみついた様に重なってくる。
“クソガーディアンズ”の面々と同様に、ジェームズ・ガンもまたどん底から仲間たち(=世界中の映画ファン)から引き上げられ、「再戦」の機会を得られたという事実が、本作の展開を更に胸熱なものにしていることは間違いない。
そして、その経緯を彷彿とさせる台詞を、ガン監督のカムバックを真っ先に先導したデイヴ・バウティスタ演じるドラックスが発することが益々感慨深い。
敵キャラのアダム・ウォーロックに向けた「やり直せばいい」という台詞は、バウティスタがガン監督に向けた思いそのままだったろうし、圧倒的強者ではあるが幼く愚かしいアダムのキャラクター造形そのものが、ガン監督による自己投影だったに違いない。
シリーズ全編通して、ブラックジョーク満載の悪ノリを交えつつ、サイケで破天荒な本作の世界観やキャラクターたちが、世界中の映画ファンに愛されたのは、その根幹に普遍的であまりに真っ当な人間のドラマが存在し、グルートの枝葉のように優しく、力強く張り巡らされていたからだろう。
ジェームズ・ガンが離れる以上、シリーズの続編はもう製作されるべきではない。
でも、映画自体は生まれなくとも、“クソガーディアンズ”の冒険はこれからも、宇宙の果てのどこかで続いていく。
それを想像するだけで、僕たちはずっと楽しい。