9.《ネタバレ》 エンターテイメントとしてのシンプルなエキサイティングさで言うならば、本作の娯楽性は、この2〜3年でトップクラスだ。
クライマックスで映し出される“異様”なビジュアルの通り、まさに破綻し混濁したストーリーテリングを、あらゆる側面から申し分ないボリュームで描き出している。
その上で、最終的にはきっちりとこの世界観に合致したテーマ性と哲学性、さらには普遍的な感動を浮かび上がらせみせたちょっと奇跡的な映画だったとすら思える。
当初のDCコミックのユニバースとして製作されていた“DCエクステンデッド・ユニバース”は、紆余曲折、すったもんだを経た上で結果的に頓挫する格好となってしまったようだ。
なんだかんだ言って「ジャスティス・リーグ」は、劇場公開版も、ザック・スナイダー版もスーパーヒーロー映画として「アベンジャーズ」にも勝るとも劣らないエンターテイメント性を備えていたと思うし、その前後に製作された「ワンダー・ウーマン」、「アクアマン」の単体作品は傑作だったと断言できる。
ベン・アフレックが演じたバットマンも、ヘンリー・カヴィルが演じたスーパーマンも、そしてもちろん本作でエズラ・ミラーが演じたフラッシュも、一癖も二癖もあるとても魅力的なスーパーヒーロー像を体現していただけに、もう事実上“ジャスティス・リーグ”として再結成されないことはとても残念に思う。
がしかし、それと同時に、その決して纏まりきらず、我の強い圧倒的「個性」こそが、DCコミックのスーパーヒーローたちの真髄だったのではないかと思える。
そして、その個性と個性がぶつかり合うことで起き得る混濁や化学変化や消滅(すなわちインカージョン)こそが、本作「ザ・フラッシュ」が描き出した世界観にメタ的に繋がっているように思えた。
この世界は常に無数の現実と、それらに連なる無数の可能性連続の中で、フェナキストスコープ(回転式アニメ)のように存在していて、誕生と消滅を繰り返し続けているということを、本作は、極めてダイレクトな映像表現と、超高速ヒーローのひたすらの疾走によって映し出している。
最愛の母が死んでしまった少年がスーパーヒーローとなり、“ジャスティス・リーグ”の一員として世界を救うユニバースもあれば、同時進行の別次元では、母の死は免れたけれどスーパーマンもバットマンも現れず、異星人に地球が征服されてしまうユニバースも確実に存在するということ。
それがすなわち“マルチバース”ということに他ならないが、本作はそれを更にメタ的に踏み込み、この世界に“実現した映画”と、この世界で“実現しなかった映画”を大胆に絡み合わせて、あまりにもユニークに我々に見せてくれている。
そういう、無数の運命の無限の可能性と同時に、一つの運命の不可逆性にも気づき、対面した主人公の“決断”が、非常に悲痛であり、故にスーパーヒーローに相応しいエモーショナルを生み出している。
全編通して娯楽大作らしい大スペクタクルを映し出しながらも、その主人公の最後の葛藤を描き出すシークエンスは、とてもありふれた“ある場所”で描き出されていることも、本作のテーマの本質に相応しい演出であり、素晴らしかったと思う。
ズッコケ演出のオープニングクレジットから始まる、貫かれたコメディ演出にも、優れたバランス感覚と「娯楽映画」そのものに対する意地を感じた。
マイケル・キートンの大活躍を観ながら、「そういえば“あの人”も一瞬バットマンだったよなー」という全映画ファンの思惑に呼応するラストカットも実に小気味いい。
“トマト缶”の位置を変えた影響が、ハリウッド屈指の映画人同士の立ち位置をあべこべにしてしまったのかしら?とメタ的空想を巡らせると、益々面白い。