121.《ネタバレ》 ちゃんとした形があった物を2,3太刀入れてバッサリと切ったような作品。
ゲームを買って来てケースを開けたら説明書がB4の紙切れ1枚だけでプレイしながら覚えていくしかないような作品。
しかし、そのような見せ方がとても気持ちが良かったです。
余計な情報が無い分、返ってカフェの爆破テロからトゥモロー号に辿り着くまでの濃密な内容だけに集中出来ました。
ダビデ像、ゲルニカ、バターシーの豚、階段の下の倒れた乳母車(なんでこの時代に…)等の象徴的芸術作品の見せ方や音楽の使い方で作品自体はそれ程重厚ではないものだと認識出来ます。
『子供の生まれない世界』も映画のテーマではなく要素の1つとして見た方が良いかもしれません。
話の内容、映像の迫力、映像のギミック、個性的な登場人物等によってシーンごとに見せ所が目まぐるしく変わる為に見ている側を飽きさせない演出は見事です。
子供が出来なくなる為に種の存続が出来なくなり希望を失った人々が刹那的に生き退廃的な社会になるというロジックで作中のような世界になるという可能性は選択肢の1つとして有ると思います。
そう考えると世界の秩序を保っているのは警察でも軍隊でも思想家のイデオロギーでもなく、子供達ではないのかと言う事が出来るかもしれません。
ファロンがキーと子供を探して廃墟ビルの3階まで上がる途中には泣き叫ぶ住人や活動家と軍隊の激しい攻防の混沌とした中を進んでいくのに対して、保護した2人と降りて行く時には立場が違い殺し合っていたそれぞれの人達の間に争いが無くなり秩序が生まれ、しかも彼等は勿論の事ファロンとキーも理由を完全に理解し切っていないこの情況は人としての本能のなせる業(わざ)として説得力を感じさせてくれる映像になっていました。
しかし、ルークやシドのように自分達の思想や私欲の為に利用しようとするのも人間の業(ごう)として確実に存在するものとしてバランス良く描かれているのには好感が持てます。
作品は単純に逆境の中を母子が「トゥモロー号」まで辿り着いた事を描いているのであって彼等がヒューマンプロジェクトに救いを求めたことが正しかったのかは見ている側も彼等自身も判断出来ません。
いきなりブラックアウトして終わってしまうラストカットを見てもそこに手放しで受け入れられる希望を映し出していない事は明らかです。
しかし、邦題の「トゥモロー・ワールド」は明らかに船の名前とリンクさせて『明日』という言葉を強調させており勝手に希望を抱かせるようなミスリードをさせています。
配給会社の担当者が自分の勝手な解釈で、しかもセンスの欠片も無いような邦題をつける事は、素人の私が勝手に読まれているかどうかも分からない映画評をしているのとは重みが違う行為なので止めて貰いたいと思いました。