135.《ネタバレ》 衝撃的なラストと並ぶ、本作における見所(?)の一つである婦女暴行的シーンが多発するのだ。
度々、被害に遭うのはニコール・キッドマン扮する主人公。
これが単なる乱暴なシーンではなく、なかなかに後味の悪さを持つものだった。
中盤、ひょんなことから彼女は犯罪人扱いされ、鎖につながれ体の自由を奪われてしまう。
彼女が軟禁されている部屋に夜な夜な現れる若い女に飢えた汚い中年の男たち。
閉鎖的な村空間の中で、不快極まりない夜這いの数々が披露される。
しかし、この下品なシーンの数々、本作の訴えたいところが見事に集約された場面だったように思う。
表面では善人面していても、境遇が一変したり立場が変化したりすると、人間の奥底に眠っていたエゴや残忍さが姿を現す。
どんな人にも例外なく。
平和で同じ繰り返しの毎日では決して生まれることのないであろう愚行の数々。
観ている者に、「観ているあなた方、この境遇なら同じことをしませんか?」と直球で訴えてくるのだ。
誰だって余裕がある時は他人思いのいい人でいられるだろうし、そういたいと願うと思う。
自分勝手なことをして相手を傷つけてしまえば、後悔するのも自分であろうし。
しかしそれは平穏な環境の中で過ごしていられるからこそ成立する思い上がりであって、人は苦境に立たされた時、わが身を思うがゆえに他人を傷つけても仕方ないという判断を下してしまうのだ。
そんな誰しもが認めたくない人間の奥底に眠る残忍なまでのエゴを、本作は嫌というくらいに見せ付けてくれる。
それを具体的な映画という形で表現しきったラース・フォン・トリアーという監督に敬意を表したい。
本作を勧めようとは思わないが、「一度、自分の弱さを徹底的に洗い出してみたい!」と思う方がいたら是非オススメ。
ま、そんな物好きな方はいないだろうけど。
それと、本作で登場する婦女暴行シーンの数々について一言。
それは控えめな描写ながら、そのエロティシズムは絶大であった。
少なくとも私は興奮してしまったね。
ま、男である以上、興奮しないといったら嘘になるでしょう。
それこそ、男の本性を隠すためのエゴだと思います。