3.《ネタバレ》 誰かがいつ撃たれてもおかしくない、そんな凄まじいまでの緊張感が保たれている。この緊張感を保ち続けた技量には感服する。視覚的な構図など、非常にセンスを感じさせるので、そういった視点からも相当楽しめた。工夫されて撮影されており、撮影者はただものではない。
本作に描かれているジェシー・ジェームズ自体は意外と大した男ではないのかもしれない。常に疑心暗鬼に襲われ、仲間を疑い、仲間を背後から撃ち殺す。そんなどうしようもない男だ。決して「伝説」になるような立派な男ではない。
「現実」とは異なり、「伝説」は一人歩きして大きく膨らんでいくものだ。ボブは、その「伝説」に魅了されていた一人の男だ。しかし、アイドルはしょせん偶像である。
憧れていた男が実は全然大したことがないと分かったら、どうするだろうかという点が劇的ではないが、きちんと描かれていたと思う。
尊敬に値しなければ、自らがその「伝説」に終止符を打ち、自らが「伝説」を継承しようと考えたのではないか。または、愛情が深い余りに、「伝説」が虚構だとバレる前に「伝説」のままで幕を閉じさせたかったのかもしれない。
影が光を憧れるという構図としては、少々「リプリー」にも通じるところがある。
しかし、「現実」というものは冷たいものだ。
自らもその虚構の「伝説」に憧れたように、人々もその「伝説」に憧れている。
ボブは賞賛されるべき立派な“英雄”ではなく、「伝説の英雄」を殺した“裏切り者”“卑怯者”扱いされるのが、実にアイロニカルで面白いと感じさせた。
ジェシー・ジェームズも仲間を背後から撃ち殺していたが、彼は英雄であり、同じようなことをしたボブは裏切り者と蔑まされるのである。
面白いと感じたのは、ジェシー・ジェームズの最後の行動だ。
疑心暗鬼の塊だった彼が最後にソファーに銃を置いたのは、最後に仲間を信じてみたくなったからではないか。裏切られると思う自分の心が嫌になり、仲間を信じる気持ちに賭けてみたくなったように感じられた。
ジェシー・ジェームズがこのように「裏切り」に絶えず怯えていたとするのならば、ボブもまた「裏切り者」というレッテルを貼られるのを恐れていたのではないか。
だからこそ、観客のヤジに過敏に反応したのだろう。
「伝説」と「現実」、「理想」と「現実」、このギャップの溝にジェシー・ジェームズもボブも嵌まりこんだような気がする。