★7.とにかく見づらい、これに尽きると思います。 それぞれの人物像も場面転換もストーリーのつながりも分かりづらいに終始一貫している。
ダンサー・イン・ザ・ダークの前半部分が若干好きではないのですが(テンポなど) まさにその前半部分を支離滅裂にして最後まで見せられてるような作品。
ダンサー・イン・ザ・ダークからの監督の作品は好きなので おそらくダンサー以前と以降とで、うまく説明はできないが何か大きな差があるのだろうか。
最後に 見終わってから解説サイトなどを見ているが この映画はまずそういったネタバレ解説サイトを見てから見たほうが理解もできるし楽しめると思います。 【非映画人】さん [DVD(字幕)] 3点(2018-08-18 17:59:35) |
6.この監督は、ほんと人間の心を裸にするのが上手いですねー。 【Yoshi】さん [ビデオ(字幕)] 6点(2008-03-04 23:45:57) |
5.《ネタバレ》 トリアーは、人は皆平等に愚かなのだと考えているのかもしれない。その愚かさをひたすら隠し続けなければいけないのがこの世の常。隠す術を知らない者たち(障害者)のように全てをさらけ出して生きてゆけたら、ある意味幸せなのかもしれない。ストレスは消え、虚勢をはる必要もなく、もしかしたら戦争だって起こらないかもしれない。だからといって愚かさをさらけ出しなさいと言っているわけではない。それは現実的ではないから。ここに登場する人たちがそれを証明する。愚かさを隠す人がいる以上、その中でさらけ出すには相当な勇気がいることを。障害者に見る純粋性に近づこうとする者たち。一人の女が純粋なハートを手に入れたかもしれないラスト、この世はそれを許さない。 【R&A】さん [ビデオ(字幕)] 6点(2006-12-21 16:10:24) |
4.《ネタバレ》 まずしっかりと見失ってならない事は、彼らのやっていることは人道的に社会的に良くないことであるということ。これだけメモって置けばすごく楽しめる映画である。やってみると分かると思うが、障害者のフリをすることはとても楽しい。松尾スズキなんかはそれを演劇にして儲けているくらいだ。しかもそれでタダでご飯が食べられたり、周りが同情してくれるのであればすばらしいことではないか。しかし彼らは苦悩する。健常者からの偏見に屈辱を感じ、ついに分裂する。(維持できている方がおかしいよっていうツッコミだがそれをごまかすのがあの独特の撮影法であろう)。偏見を持っていたのは彼らであったのだろう。偶像崇拝ともいえる。内なる愚かさにすがってても、他人から認められていないと人間はダメになっちゃうわけです。一番かわいそうなのは主人公の女性カレンだ。子を失い、失意の中で内なる愚かさに救済を求めた彼女は、イディオッツ分裂の危機に実家に戻った。しかし迎えられなかった。イディオットを振舞ってもだれも抱いてくれない。そろそろラースフォントリアーの後味の苦さにもおいしさを覚えてきました。相変わらずラースフォントリアーの映像は運動会のお父さんハンディカム状態であるが、今回はとくに徹底している。僕は強烈にリアリティを感じてしまう。ダンサーインザダークもう一度観直して見ようかと考えている。 |
3.ウェルカムドールハウスという映画で、「特別な人間というのは馬鹿のことだ」というセリフがあったが、内なる愚かさを表象してしまう彼らはまさにそれだ。特別な人間になることに快感を得ていただけなのかもしれない。この結果は当然。見るに耐えない白痴の演技。まるで精神的つわりを味わった。よくぞこんな映画を撮ったと誉めてるのか貶しているのか自分でも分からない。 【ぷりんぐるしゅ】さん 2点(2004-05-22 21:28:52) |
2.イディオットを進んだ人間・未来人などという理想を掲げたとしても、多くの人たちにとってやはり現実逃避は現実逃避でしかない。 しかし本当に悲しい現実を背負った人には、イディオットという逃避もアリなんではないか。 やはりトリアーは誰も描けないものを描いて人間の深い本質をえぐっていく。 |
1.《ネタバレ》 「イディオット(Idiot)」は「愚か者」とか、「ばか者」、「白痴」の意。さて、映画の中のイディオッツ・グループは「正常」であるにもかかわらず、社会に上手く適応できず、社会から排除されてしまいました。「精神異常な人は社会で守らなければならない。」という社会的規範を逆手に取って、彼らは精神異常の振りをして無銭飲食を繰り返し、働かずに生きています。僕は正常な人間であるイディオッツ・グループの人たちが自分を精神異常に装うことで、「自分は精神異常のふりをしているんだ。だから自分は正常なんだ。」と社会に適応できなかったという現実から目を背けようとしているように思いました。また、イディオッツ・グループは食事中にヨダレを垂らしたり、とんでも無い行動を取っているのに、一般の人は平静を装って対応します。そんな一般の人の「私は精神異常の人を差別をしませんよ」という偽善をイディオッツ・グループは裏でバカにしたりもします。そういう彼らの姿勢は、「正常」であるはずの自分たちがどうして社会から排除されてしまったのに、「異常」と判断されている「精神異常」の人たちがどうして社会から守られるのか、という「社会」、「現実」に対する皮肉なのだと思います。人間社会の不合理を鋭くえぐり、何が「正常」で何が「異常」なのか、人間とは何かという疑問を観客にぶつけた後、フォン・トリアー監督は答えを示さないまま、中途半端に映画を完結させてしまいます。何を感じ、何を思ったのか、監督に試されているような映画です。 |