8.《ネタバレ》 東野圭吾の原作を読んだのは、2年前になる。ハードカバーの単行本は、ページが2段組み構成の500ページを越える長い長い小説だった。
純粋なミステリーというよりは、二人の男女の過酷な運命と、隠された真相に彩られた、壮大な「悲劇」だった。
数年前に放映されたテレビドラマは、まったく観ていなかったが、再び映像化するのならば、「映画」として、潔く過剰なまでに色濃く創り上げて欲しいと思っていた。
少し地味目なキャストと、新鋭の監督の起用に対して、いささか不安はあった。
しかし、導入部を観た時点で、不安は期待に転じた。
殺人事件を発見し逃げ惑う子供たちの“ぶさいくさ”、その表情をタイトルバックにする潔さ。
刑事や容疑者たちのどこかうらぶれた表情を画面いっぱいに映し出し、殺人事件そのものよりも、事件が起きた環境とその人間模様の異様さを表す演出には、期待した“色濃さ”があった。
地味目なキャスティングも、この物語の本質である“人間の不確かさ”を表現するための必要な手段だったのだろうと思った。
とても満足感を伴う映画だったと思うのだが、最後の最後、物語の締め方には不満が残る。
主人公の二人、雪穂と亮司の隠し続けられてきた心と心の“つながり”を、もっとしっかり描くべきだったと思う。
最後の最後まで亮司との関わりを否定し貫き通す雪穂の「決意」は、絶対に描くべき要素だが、映画ではそれのみが描かれるため、最終的に雪穂が亮司を“切り捨てた”という印象が強く残ってしまった。
亮司が最後に船越英一郎演じる笹垣と対峙し、自らの積み重ねた行為に対して”悔恨”を垣間見せる様も描くべきではなかった。
そして、最後の最後に船越に語らせすぎた。(サスペンスの帝王の“顔”を覗かせてしまった……)
20年に及ぶ悲劇の中で、彼らが繰り広げた罪と罰、そこには常軌を逸した「覚悟」と
揺るぎない「愛」があったはずだ。
原作の空気感を踏襲した上質な切り口をみせてくれた映画だっただけに、もっとも肝となるべきその「覚悟」と「愛」が描き切れなかったことは、残念。