1.10代から50代までの各世代ごとに繰り広げられる、いずれも恋愛や結婚生活をめぐる5つの物語。とにかく、各世代ごとの女優はすべて超がつくべっぴんさん揃いだし、男優だってイヤんなるくらい男前ばかりです。そんな彼らが、別にトーキョーやニューヨーク、パリであってもまったく違和感がないような、まるでアーウィン・ショーの短編集みたく「都会的センス」のなか、ささやかな人生の機微を、その喜怒哀楽を、さらりと演じていく。…な~んだ、ひと頃の日本の「トレンディ・ドラマ(死語)」みたいなものじゃん。だって? うん、まあその通り。確かにこれは、「現代的」な、あまりに「現代的」な映画なんだから。
ただこれまでの中国映画が、どんなにこの現代の世相を描こうとも結局「国家」や「歴史」という“大きな〈物語〉”を語っているののに対して、この作品はあくまで現代(いま)を生きる「小市民」という“小さな〈現実〉”をスケッチしていく。それは、あらゆる意味でこれまでの中国映画のイメージを覆すものじゃないか。つまり、ただ「現代的センス」だけで何ひとつ〈メッセージ〉を発しないというだけで、これは中国映画として逆説的な「ラディカルさ」を獲得しているんじゃあるまいか。徹底して非ー政治的だからこそ、逆説的に極めて「政治的」なフィルムと言うか…
第1話の、同級生の少女の「声」に恋をした高校生のせつない初恋物語から、偶然出会った男女のすれ違う愛のゆくえを、ふたりのナレーションだけで綴ったマルグリット・デュラス(!)風の第5話まで、そこにはパーソナルな「個人」の内面だけが語られている。もはや「国家」も「歴史」も介入できない、「私だけの物語」を語ろうとするのだ。それも、ビックリするほど洗練されたタッチ(と美男美女のキャスト)で。
だから、10歳の男の子が流す涙のせつなさも、まもなく老境を迎えようとする婦人の慎ましやかな幸福も、彼ら彼女らのあくまで「個人的」なドラマであるからこそ、それらはヴィヴィッドにぼくたちの胸を打つ。「これは“ぼく”の物語だ」「あれは“わたし”自身よ」と、見る者ひとりひとりがそこに自分自身のドラマを見いだすのだ。
そう、これはささやかだけれど、人生そのもののように美しい映画だ。