13.“パターソン”とは、バス運転手の朴訥な主人公の名前であり、彼が住む街の名前。
この映画は、“彼”と“彼が住む街”の「7日間」を極めてシンプルに映し撮っただけの映画、のように見える。
何か“特別なコト”が巻き起こるわけではない。慎ましく、平凡に生活する男と妻と愛犬の日常が、淡々と綴られる。
でもね、と、この映画を観ていた多くの人々はふと立ち止まり、思うだろう。
「“特別なコト”とは何だろうかと」
大災害に遭遇してサバイバルを余儀なくされるコト?殺人事件に巻き込まれて無実の罪で追われるコト?宇宙人襲来に脅えるコト?大恋愛をして人生を変えてしまうくらいに感情を爆発させるコト?
数々の映画的娯楽の中で表現されてきたそれらのコトは、無論“特別なコト”に他ならないだろうけれど、果たしてそういうことだけが「特別」なのだろうか。
裕福でもなく、貧困でもない普通の小市民が、何気ない日常生活を決まったルーティーンで繰り広げるということ。
決まった時間に起床し、たまに寝過ごし、妻にキスをし、シリアルを食べて出勤し、同僚の愚痴を聞き、決まったバスルートを運行し、帰宅し、妻の料理を食べ、愛犬を散歩させつつ馴染みのバーに立ち寄って、一日を終える。
そんな当たり前のことが、「特別」であるということを、この静かな映画は雄弁に伝えてくるし、今この世界の私たちは、事程左様に深く感じ入る。
そして、そんな普遍的な「生活」の中で、忘れてはならないことは何か?
それは「表現」をするということだ。
「表現」とは、何もこの映画の主人公やその妻のように、「詩」を創作したり、「アート」や「料理」や「音楽」に没頭したりするような“クリエイティブ”な活動に限ったことではないだろう。
「愛してる」「美味しい」「ありがとう」「大丈夫?」「お前なんか嫌いだ」……生活の中の様々な事象に対して、ちゃんと自分の感情を相手に伝えるということ。
それが、もっとも大切な「表現」だと思えるし、そういうことを積み重ねていくからこそ、代り映えなく見える「生活」そのものが、何にも代えがたいものになり得るのだろうと思う。
半ば強制的に自らの「生活」に対して向き合わざるを得ないこのご時世。
ささやかな生活の中のささやかな喜びや多幸感を感じ、それを表現するコト。
このさざ波のような映画には、今この世界にもっとも必要なコトが満ち溢れている。