38.「猿の惑星」シリーズ最終作。未来人の猿夫婦の一粒種“シーザー”が、前作「征服」で猿の王として立ち上がった後の世界の顛末を描いている。
前作を観た時から薄々感じていたことではあったが、この映画シリーズの世界観にはどこかで見覚えのある印象を覚えた。
映画史に残る大傑作である「猿の惑星」の大ヒットを受けて派生したシリーズであり、続編各作品に対する評価はどれもあまり高くはない。
でも、個人的には、確固たるSFの概念を貫いた優れた映画シリーズとして展開していると思えてならなかった。
その要因が、どこかで触れたことのある既視感の存在に他ならないと思う。
それは、手塚治虫の「火の鳥」である。
生きとし生けるものの「生命」そのもののエネルギーを礎にして描かれる物語「火の鳥」は、“漫画の神様”手塚治虫のライフワークであり、崇高なる大傑作である。
その物語の根底に存在する「精神」と、時空を超えて繰り返される生命体の「業」を、この「猿の惑星」という映画シリーズにも感じたのだ。
「生きたい」という総ての生命に共通する意識。そこから生まれるあらゆる種族の営みの強さと儚さ。
掲げた“理想”に反して繰り返される愚かな歴史は、総ての生命体にとっての永遠のテーマだと思う。
人間の愚かさに辟易して「征服」を始めた猿たち。しかし、繁栄することにより皮肉にも人間社会と同じ道程を繰り返しそうになることの葛藤。
このシリーズ最終作の中では、そういった“人間”・“猿”というカテゴライズを超越した哲学性をメッセージ性豊かに伝えてくる。
「未来」は、並行して並ぶ何本もの道路の先にあるものだとこの映画では表現される。
地球が破壊された未来から送られてきた主人公は、「未来を変えたい」と映画の最後で志す。
果たして彼が歩んでいく「未来」は、第一作目でチャールトン・ヘストンが不時着した“惑星”に直結してしまうのか、それともそうならないのか。
いろいろな思惑を観る者に与える秀でたシリーズ最終作だったと思う。