155.《ネタバレ》 およそ25年ぶりに再観。と言っても内容は全く覚えておらず、当時から知っていた本作の高い評価に半ば引きずられたように「面白かった」「いいものを観た」という感想のみが残った。
いつか再び観たいと思いながら長い時間が経ってしまった。観た当時はまだ大学生で、社会に背を向けて生きる、極めて未熟な人間だった。あの頃と今で、いだく感想は変わるのだろうか、少しは深みのあるものになるのだろうか。そう思いながらじっくりと観た。
武家屋敷を訪ね、生活の苦しさから庭先を借りて切腹したいと申し出る浪人が多数現れた天下泰平の徳川将軍時代、江戸時代。こういった浪人たちは、その覚悟に感心した武家に召し抱えられること、あるいはそこまででなくとも、彼らにわずらわしさを感じた武士から金を与えられて帰されることを狙っていた。要するに一種のたかりをしていたのだった。そんな折、津雲半四郎と名乗る、やや齢を重ねた浪人が井伊家の江戸屋敷を訪ねてきた。庭先で切腹をしたいと言う半四郎に、井伊家の家老である斎藤勘解由は、先日、同じ用件で訪ねてきた千々岩求女という若い浪人の話を始めるのだった…。
ゆっくりしたカメラワークと、やや引き気味の優美なアングルによって、冒頭シーンから緊張感がみなぎる。それは、井伊家の屋敷の広さと豪華さ、そこに流れる厳粛な空気も見事に伝えてくれる。
仲代達矢の堂々とした迫力。三國連太郎の気弱で神経質、時には虚勢も感じられる言動。丹波哲郎の意地の悪さと強さ、若干感じられる狂気。出番は少ないが、小林昭二や井川比佐志なども含めた豪華キャストのもたらす存在感と重厚な演技。彼らの「静」からにじみ出る雰囲気も、画面に緊張感と迫力を生み出す。
持っていた竹光で切腹せざるを得なくなった求女。なかなか腹が切れないその切腹シーンは求女側から見れば哀れそのものだが、勘解由たち井伊家の武士側から、あるいは我々映画を観ている側から見ると、厳粛さの中に残酷さ、そして何とも言えない美学のようなものさえ感じられ、片時も目が離せない。まるで一種のショーを見るがごときシーンに仕上がっており、二重構造で作品を見せられているような、奇妙な気持ちにさせられる。
本作の上映は1962年。戦後からはそれなりの時間が経っているが、今よりも死が身近にあった時代だったのでは、そうも考えた。
岩下志麻も素晴らしい。登場当初の存在感は薄めだったが、求女との結婚後のお歯黒(!)、そして求女の亡骸と対面した時のわずかな戸惑いと激しい涕泣。僕も目頭が熱くなってしまった。
困窮した浪人はひたすらみじめだ。金を失い、物を失い、家族を失った半四郎を見ていると、もしも僕自身が経済的弱者になったらどうなるだろうと考えてしまい、胸が痛む。
剣劇シーンの静かな迫力も印象に残る。特に切り合う前のポーズが美しい。ただ、刀と刀を合わせるシーンは堂々としておらず、むしろ若干の怯えのようなものが見えたが、これはリアル感を狙ったのだろうか。
浪人の困窮を告発した半四郎は勘解由に一矢報いるが、最後は大立ち回りの末、惨めに死んでいくのであった。
脚本はさすがだ。それぞれの登場人物の言動が簡潔に、武士のイメージ通りに描かれていて、心情の吐露が多くないのに、各々の心のありようがうっすらと伝わってくるのだ。この「うっすらと」が人間らしさを表現しているように思える。武家屋敷内に横溢する大人の世界独特の嫌らしさも、脚本の力が見せてくれているのだろう。
ところで、観終えた今は、25年前と比べると作品との向かい方も観方も、人生を重ねただけ深くなったと思う。大げさな言い方を承知で言えば、生きているうちに観て良かった。同時に、この作品は年配者にも観てほしいと思った。もしも時代劇を○○○○のような予定調和的作品ばかりだと思っているとしたら勿体無い。それはそれで悪くないかもしれないが、かつてはこんな時代劇もあったのだと知ってほしい。
最後に一言。冒頭1分ほど観た時点で声が若干聞き取りにくく、難しい言葉があったので、字幕再生に切り換えて全編を観た。「照覧」「赤備え」「骨柄」など、その後も聞き慣れない言葉が頻出、字面を見たことでそれなりに意味がとらえられたはずだ。字幕が表示できるディスクで観て良かったと心から思った。