95.《ネタバレ》 このジェリー・シャッツバーグ監督の「スケアクロウ」は、1960年代後半から1970年代前半にかけての、いわゆる"アメリカン・ニューシネマ"のひとつの頂点を示す秀作です。
旅をする人間は、アメリカ映画の永遠の登場人物で、この旅する人間を描く事は、アメリカ映画の"永遠のテーマ"でもあり、"ロード・ムービー"と呼ばれていますが、アメリカン・ニューシネマの抬頭以降、このテーマは、何度も繰り返して取り上げられ、純化して来たと言えます。
そして、"孤独な人間同士の結びつき、現代人の抱え込んでいる疎外感"などを描いて、アメリカという国の素顔をのぞかせようとする映画が、続々と製作されていた時代の正しく、この映画は、その思想のひとつの到達点を示す作品になったと思います。
監督のジェリー・シャッツバーグは、スチール・カメラマン出身なだけあって、斬新でスタイリッシュな映像表現を見せてくれます。
まず、映画の冒頭のシーンが見事です。
タンブル・ウイードと言われる枯草の輪が、南カリフォルニアの砂嵐に転んでいきます。
そこに、6年ぶりに出獄したばかりのマックス(ジーン・ハックマン)と、船から下りたばかりのライオン(アル・パチーノ)が偶然に出会い、マッチ一本をきっかけに意気投合します。
この二人の出会いのシーンの演出の素晴らしさで、我々、観る者は、一瞬にして、この"スケアクロウ"という映画的世界へ引き込まれてしまいます。
喧嘩早い粗野な大男のマックスと、人を笑わせる陽気な小男ライオンの、正に弥次喜多道中とでも言うべき旅が始まります。
性格の全く違う二人の男が、友情を抱きながら、カリフォルニアからデトロイトまで旅を続ける事になりますが、ジーン・ハックマンとアル・パチーノというメソッド演技の神髄を知り尽くした二人の名優が、まるで演技競争のようにして、ある意味、人生に敗れた、しがなさ、ダメさを、時にユーモラスに、時に切なく演じて、本物の演技のうまさ、凄さというものを我々、観る者に強烈なインパクトを与えてくれます。
アメリカ大陸を東に横切って、マックスの妹の住むデンバーと、ライオンが5年ぶりに会おうとする妻子の住むデトロイトへ、その間、約3,000km。
そして、最後は、二人で洗車屋を開く予定のピッッバーグへ。
シネ・モビルによる野外でのオール・ロケーション撮影は、敗残者と老人たちの蠢く街々の底辺と、広漠とした大陸の広がりを、ただひたすら淡々と映していきます。
途中の酒場でのドンチャン騒ぎの末に、ぶちこまれる豚小屋ならぬ、刑務農場、これもアメリカの知られざる隠れた一面を見せつけられます。
この映画でのアメリカ大陸横断には、かつての「イージー・ライダー」のような若々しい直線的な気負いというものがありません。
ダメになったアメリカ、しかし、"男同士の無垢な友情が絶望を突き抜けた希望"というものを育み、オプティミズムの明るい光を照射して来ます。
しかし、この映画のラスト近くで、暴力のみに頼るマックスに、笑いで生きる事の意味を教えたライオンが、妻子に裏切られたショックで錯乱しますが、マックスの力強い愛情によって救われます。
そこには、力のみで生きて来た大国アメリカの反省と、それを乗り越えて来た開拓者の自信といったものを考えてしまいます。
"スケアクロウ"とは、案山子の事ですが、「風采の上がらない、みすぼらしい奴」という意味もあり、「そう見られて、馬鹿にされるから、かえっていいんだ」という気負いを捨てた姿を言っているのと共に、「案山子を見てカラスは脅かされるのではなくて、カラスは実は笑っているのだ」、そして笑って馬鹿にして、『だからあいつの畑を襲うのはよそう』と、畑にやって来ないのだという、裏返しの見方が重なっているような気がします。
このように、ジェリー・シャッツバーグ監督の現代を視る眼は、複雑だと思います。
脅しが、本当は笑われているのだと力の空虚な誇示を批判しながらも、やはり、みすぼらしいながら、案山子のタフさを言おうとしているようにも思えます。
この映画を観終えて思う事は、アメリカでは開拓者の時代の昔から、男たちが、東から西へ、北から南へと歩いて行ったわけですが、この映画に描かれた人間たちも良いにつけ、悪しきにつけ、そういう人たちの一種で、当時の荒廃したアメリカも、やはり依然として、開拓者としての友情を求めてやまない社会であり、そして本質的に、男の世界である事をこの映画は描こうとしているんだなと改めて感じました。