24.《ネタバレ》 母親、教師、ミナト目線のパートで描かれているけれど、私はこの作品は、「大人の部」と「子供の部」の2部構成とみた。
正直、「大人の部」は、子供たちの心理を理解するための添え物という認識で視聴した。
冒頭で、足元のみで登場する少年は、虫笛を鳴らしている以上、星川、怪物の登場だ。
「怪物」と呼べる人物は、私には彼ただ一人を指しているように思える。
その他大勢のキャラたちは、どこにでもいる大人あるある、子供あるあるで、別段特異には見えない。
でも星川は違う。
おそらく彼の母は、アル中の夫と性同一性障害の息子が手にあまり、離婚して、家にいない、
父は、児童手当欲しさに息子を引き取り、息子の障害を許せず「怪物」と呼び、体罰で女の心を治療する気でいる。
当人は、浴槽で体を冷やさねば痛みを抑えられないほどの暴力を父から受け、
学校では、同級生たちから性がらみのいじめを受け、
好意を寄せているミナトからは、「皆のいる場所で声をかけるな」と言われ、
当てものクイズに使うイラストカードに「怪物」を描いたり、陰でしか一緒に遊べないミナトと「怪物だーれだ♪」と歌うなど、
人格否定のあだ名を、ふだんから気軽に遊びとして取り入れている。
これらの状況下で、小学5年生の「男の子」が、なぜニコニコと愛らしく笑っていられるのか。
星川の父がいうには、息子の頭の中には、豚の脳が入っている。
だから、植物の名前を覚えるような女々しい趣味があったり、男らしい言動ができないのだというのだろう。
自宅で人格を否定され、暴力を受け続けていれば、何ぴとたりともふつうの精神状態ではいられない。
映画の前半では、麦野家の屋内が雑多なもので溢れかえり雑然としていて、それが心の整理がつかないミナトの心を象徴しているように見え、
みずから生を断ちそうな不安定なミナトにハラハラさせられるが、
それ以上に深刻な家庭事情を抱えているのは、実は、星川の方。
その彼の唯一の口癖は、「生まれ変わる」。
星川は、性同一性障害という個性を持たず、心と性が一致した人間として人生をやりなおしたかったのか?
ラストで、横倒しになった車両の下側の窓から出て、狭い坑道を腹ばいになって進み、
明るい表の世界に出た彼らは、母体の産道をくぐりぬけて文字通り「生まれ変わる」疑似体験をした。
ミナトとの会話で星川は、生まれ「変わることなく」元のままで「良かった」と言う。
性の別なく、ミナトを好きでいられる従来の自分を受け入れている自然な様子に、ただ感動した。
2人の子供はきっと、神隠しさながらに、大人たちの手の届かぬところへ消え去ってしまったのだろう。
抜け殻のように車両に残ったミナトのレインコートが、それを物語っている。
何よりも、母や教師が車両に駆け付けたときは豪雨が降っていた。少年たちが脱出したのは、天候が回復した後。時の矛盾がすでに現実離れしている。
現代劇でありながらかすかにファンタジー要素が入っている。現実と虚構の絶妙な配分が、私にとってたまらないツボ。
それに、この作品には、3つの文学作品の香りがする。
冒頭で諏訪市の夜景が映し出される。左右に広がる明かりの帯は、まるで地上に降りた天の川。
夜の街に、遠目に映る火事の光景は、さながら「さそりの火」。
廃車両の中で飾られるのは、土星や太陽のモビール、窓には星などの切り絵、
横倒しになった車両の泥まみれの窓に雨が降る、それを内側から見れば、まるで宇宙の星々のきらめき。
どしゃぶりの中で聞こえた「出発の音」。それは、ジョバンニとカンパネルラが宇宙旅行に出かける時刻。『銀河鉄道の夜』だ。
病気の母を忘れ、ジョバンニはカンパネルラと「どこまでも一緒に行こう」と旅に出る。ミナトもたった1人の身内である母よりも、星川を選ぶ。
また、ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』のエリザベートとポール姉弟。
危険な遊戯や人に漏らせぬ思いのために、周囲の大人たちに嘘をつく。それがどれほど多くの人たちを傷つけ、騒ぎを引き起こすかということもいとわずに。
最後に『スタンド・バイ・ミー』。
2人の子供が光の指す線路を目指して駆けていくシーン。映画の文法でいうと、左方から右方へ移動するのは、過去に戻ることを表すらしい。
大人の事情を全く必要とせず、性不同一の目覚めもまだない幼い心に戻って、ただ大好きな友達といられる幸せに浸りながら、力強い雄たけびをあげているラスト。
「怪物」という言葉が、残酷という形容以外に、これほど甘酸っぱく、切なく、狂おしい響きを帯びていることに、本当に心を揺さぶられた。