234.また一つ”ただ事ではない”映画が誕生したと思う。
映画公開を前にして、湊かなえの原作を読んだ。
「問題作」という評に違わず、すぐ身近に存在し得る人間環境を描写しているにも関わらず、今までに感じたことの無い禍々しさとおぞましさに溢れた非常に後味の悪い小説だった。
しかし、後味の悪さを感じつつ、妙な爽快感も覚える自分がいて、そのことが更に後味を悪くした。
普通、これほど「後味の悪さ」を感じる物語は一方的に拒絶したくなるものだが、この作品はそれを許さない。
圧倒的な後味の悪さで突き放された途端、更に作品の世界観に引きつけられてしまう。
そうして、どっぷりとこの作品が持つ根本的な「悪意」に呑み込まれる。
原作を読む前、この映画化の監督が中島哲也だということを聞き、大いに意外に思った。
ストーリーの粗筋や、単行本の表紙を見る限り、極めて「色彩」のない物語だという印象を持っていたからだ。
「下妻物語」「嫌われ松子の一生」「パコと魔法の絵本」の過去作品において、破天荒なまでのカラフルさを見せつけてきた監督が、果たして巧く機能するのかと疑問に思った。
でも、原作を読み終えた瞬間、中島哲也によるこの映画化はきっと成功すると思えた。
読む前の印象の通り、この物語に「色彩」は乏しい。
人間の陰と闇、それらを生む絶望的に眩しい光。そして、牛乳の白と、血液の赤。この原作から受けた色彩はそれらのみと言っていい。
ただ、その限られた色彩を、明確に描き出せる映画監督は、この人をおいて他にいないだろうと思った。
この物語の表現において不可欠な要素は、劇場的なテンションの高さだ。
描き出され、展開されるシーンはどこまでも陰湿で救いがない。
しかし、それをジメジメとした感情で表現せず、乾いた笑いで弾き飛ばすようなテンションの高さで表現する。
それが殊更に憎悪と悪意を膨らませ、爆発する。
その原作が持つ本質的な悪意を、更に増幅させ、映画として爆発させるには、それ相応の悪意を持った映画監督でなければ無理だったろう。
問題作と言われる原作をたとえ忠実に映画化したとしても、普通その映画は問題作にはならない。
もう一度言うが、この映画はただ事ではない。明らかに「問題作」だ。