1.世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。
だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。
彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。
「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。
人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。
そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。
恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。
宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。
人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。
それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。
地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。
ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。
ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。
前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。
難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。
彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。