2.“最強呪術師”五条悟が言う「愛ほど歪んだ呪いはないよ」と。
「呪い」を司る“善”と“悪”が、呪い合い、そして愛し合う。
呪怨×純愛の構図が生み出すストーリーテリングは、少年漫画の王道であり、この漫画の“エピソード0”として相応しいものだった。
昨年(2020年)の「鬼滅の刃」フィーバーが一段落した頃、我が家の子どもたちの流行も、世の中のトレンドの流れに沿うように「呪術廻戦」にシフトしていった。
僕自身はしばらくノータッチだったけれど、この映画化作品を鑑賞する前にテレビアニメ版はフォローしておこうと、年の瀬のクソ忙しい時期だったがアマゾンプライムで一気観。映画の鑑賞日前日になんとか見終えた。
話が逸れるが、齢40にもなると新しいものに手を出すにはなかなかのモチベーションが必要だ。若い頃ほど潤沢に時間があるわけではないので、新しいものに触れ、それが自分の趣向に合わなかった時の時間的ロスのショックを警戒してしまい、ついつい尻込みしてしまう。
「呪術廻戦」に対しても、正直なところ最初は億劫だったけれど、幸いにもすぐにハマることができた。
前述の通り、物語構成はまさに少年漫画の王道であり、特に“異形の者”を扱う数々の名作の要素が散りばめられていた。
冨樫義博の「幽遊白書」や「HUNTER×HUNTER」をはじめとするジャンプ漫画は勿論、椎名高志の「GS美神 極楽大作戦!!」や、アメコミの要素も多分に取り込まれている。そして勿論、その根底には、手塚治虫の「どろろ」や、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」も確実に息づいている。
そういった累々とした過去作の系譜の上に誕生したストーリーテリングやキャラクター設定は、僕たちアラフォー世代にとってもどストライクだった。
その一方で、描き出されるビジュアルのグロテスクさや、キャラクターが吐露する言動から垣間見れる闇深さは、現代社会を投影したものとも言え、そのバランス感覚が非常にフレッシュだった。
テレビアニメシリーズのクオリティもとても高いと感じていたが、映画化によってそのアニメーションクオリティは格段に研ぎ澄まされている。
縦横無尽に動き回るキャラクターの動作の立体感や、陰影や目線の表現、背景の秀麗さ等、映画化の意味、映画館で見ることの意義が高められた映画作品だった。
また、本編の“前日譚”を映画化したことも、極めて懸命な判断だったと思う。
“乙骨憂太”というテレビアニメ(シーズン1)ではまだ名前しか登場していない重要人物を映画の主人公とすることで、原作やテレビアニメに未接触の鑑賞者にとっても見やすく、ファンにとっては彼を始めとする“2年生”キャラへの愛着を深めることに成功している。(狗巻棘が好きさ!)
さらには、「悪」である“夏油傑”のキャラクター造形も深まり、本編の今後の展開とそれに伴うドラマに対しても興味を高められていたと思う。
そして、この映画におけるハイライトは、主人公・乙骨憂太と“特級過呪怨霊・祈本里香”の関係性と、そこから織りなされる“呪い”と“愛”、その混沌と昇華に他ならない。
愛するがゆえに呪い、呪うほどに愛は深まる。
その一見矛盾する事象を己の体一つに内包する主人公の苦悩と、それでも純愛を貫いたからこそ得られた力の解放は、ストーリー展開としても、アニメーションのビジュアルとしても、とてもエモーショナルでエキサイティングだった。
呪うことと、愛することは、表裏一体であるということが、本作及び原作のテーマだと言えるだろう。
それを踏まえると冒頭に記した五条悟の台詞、そして彼と退治する夏油傑の「思う存分、呪い合おうじゃないか」という台詞との連なりも深い意味を孕んだものになってくる。
さて、テレビアニメシリーズのシーズン2が待ちきれないので、とりあえず原作の単行本を買いに行こうと思う。