1.《ネタバレ》 アルメニア人の作曲家アラム・ハチャトゥリアンを主人公にした映画である。
基本的には題名の曲を作った時期を扱っているが、この曲限定の秘話というよりは、この時期に取材する形で作曲家の人物像を表現している。当然ながらソビエト政権の統制が芸術の世界にも及んでおり、さらに戦争の脅威も迫っていた(音が覆い被さって来る感じ)が、そういった世相や世間の醜さに構わず、黙々と自分の道を行く芸術家だったと見える。「俺は音で考える」というのはなるほどと思った。
曲目としてはバレエ音楽「ガイーヌ」から、題名の曲のほか「子守歌」、「レズギンカ」(音だけ断片)、「バラの娘たちの踊り※」が出ている。しかし主人公が本当にやりたかったのはこういうものではなかったようで、終盤近くになって白紙の五線譜に向かう場面以降、背景に流れていた交響曲第2番が実はこの映画のメインだったと思われる。この曲はショスタコーヴィチの第7番と同じく戦争をテーマにした曲と思われてきたようだが、それをこの映画では、死んだ爺との約束だった「心の叫び」を表現したものと解釈したらしい。
音楽関連の映画として見た場合、まずは題名の超有名曲で人目を引いておきながら、そんなのは実は体制側に強要された急造品でしかなく(それでも名曲)、本当に大事なのは交響曲だからぜひ聴いてみろ、と観客に勧める映画かと思った。確かに聴いてみる気にはなった。
※公式サイトの監督インタビューではなぜか「ピンクガールズの踊り」と書いている。
アルメニアという国の関係では、大小アララト山の雄大な山容を望む「ホルヴィラップ修道院」の場面があったのは単なる現地PRのようでもあるが、ここはトルコ国境の川から1km程度しかない最前線であり、故郷を追われた人々の悲痛な思いが心に迫る場所という意味らしい。また音楽関連では「子守歌」の原曲であるかのように聞こえなくもない歌や、民族楽器「ドゥドゥク」の名前も出ていた。
政治的な主張としては、かつての「アルメニア人虐殺」を世界が傍観したことが後にナチスのユダヤ人虐殺につながった、という考えを述べていたが若干飛躍がある。それより近場の「ホロドモール」(1932-33)は知らないふりかと思うわけだが、別にこの映画としてソビエト政権を擁護する意図はなく、独裁者や体制腐敗への反感は自然な形で表現されていた。ちなみに戦争の非人道性の描写も若干ある。
最後のニュース映像のような部分を見ていると、心ならずも書いた曲が世界で大人気になってしまったが、そのことでソビエト政権もこの作曲家を重視せざるを得なくなった、という意味かと思った。現在はアルメニアの偉人として扱われているようだが、ここで改めてその真価を問い直そうという映画だったかも知れない(「ミスター剣の舞」ではなく)。なお顔の好き嫌いは人によると思われる。
その他のこととして、題名の曲の中間部にあるサックスパートを生かした話の流れもできている。出来の悪い弟子がいきなり名手になったのは、民族楽器「ドゥドゥク」がサクソフォンと同じくリード楽器だからということらしい(二枚リードだそうだが)。
またオイストラフとショスタコーヴィチが主人公を訪ねてきた場面は、音楽家仲間の馴れ合いの雰囲気が出ていて面白かった。「レニングラード」第1楽章の真相をこんな場所でしゃべっては危ない(同志スターリンに聞こえている)。当代一流の音楽家が揃って大道芸をしていたのはユーモラスだったが、ここは特にショスタコーヴィチの人物像が可笑しかった。
ほか毎度決まったように殴られる奴がいたのは笑った。昔「ノーメンクラツーラ ソヴィエトの赤い貴族」という本を読んだ時に、ソビエト高官が性的な動機からバレリーナのパトロンになりたがる話が書いてあった気がするが、劇中バレリーナに関しても、「仮面舞踏会」のワルツの場面で本人が言ったとおり悲劇に終わったようでもある。しかしうまくやれば劇中の役人を後ろ盾にして、舞踏界での地位を高めていける可能性もあるのではと皮肉なことを思ったりもした。
全体としてドラマにそれほど深みはなく、また何かと話を作り過ぎでウソっぽいようでもあるが、個人的にはいろいろ見どころがあって結構楽しめる映画だった。調子に乗って長文を書いてしまったが一般にはお勧めしない。
[2023/2/18追記] 少し時間が経ってみると、ショスタコーヴィチが心情を吐露する場面と、「ピンクガールズの踊り」を見ている若い連中の顔が強く印象に残っている。