Menu
 > レビュワー
 > なんのかんの さんの口コミ一覧
なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2336
性別

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  ああ爆弾 《ネタバレ》 
私はこれが喜八で一番好きな作品。どういう組み合わせだったのか安部公房/勅使河原宏の『おとし穴』との二本立てで名画座で見た(次の週には『下町の太陽』と『気違い部落』の二本立て見てる。名画座文化の良かったのは二本立て制度で、ついでに見たもう一本で世界がどんどん広がっていったことだ)。今思っても、喜八監督のリズム感が全開した名作ではないだろうか。ドンツク・ドンツク・ポッポーなんてたまらない。砂塚秀夫や中谷一郎など常連が生き生きしており、ミュージカル合戦にもなっていて、和ものとあちらものが対決する。とりわけ和ものの使い方が秀逸で(邦楽ミュージカルってあんまりないから)、勧進帳の「毒蛇の口を逃れたる」がバキュームカーのホースになぞらえられたりする。三百万三百万と心の声が呟いたり、ドンツク・ドンドン・ツクツクに合わせて体が起きてきたり、楽団員がみな眼帯してたり、私の趣味がカタヨッていったのに、大きく影響した作品だったなあ。
[映画館(邦画)] 9点(2013-11-30 09:38:07)
2.  有りがたうさん
おそらくこれを初めて見たときは誰も、登場人物の喋りにびっくりすると思う。ゆっくりした棒読み。なんだこれは! そういう喋り方をする土地なのか、とオロオロしていると、上原謙や桑野通子もそう喋る。トーキー初期の録音技術では普通に喋ると言葉が聞き取れなくなるのか、と気を回す。いや、これより古い『隣の八重ちゃん』は普通に会話してた。呆然としながら考えた末に結論はただ一つ、監督の指示としか考えられない。そしてそう判断したころは、このリズムにこちらが合ってしまって、大変心地よい境地になっている。お年寄りが昔話を語っているような、宮沢賢治の世界のような。トーキー初期はこんな思い切った演出冒険も出来たのだ。子どもらはバスの後ろに飛びつき、女歌舞伎のお披露目と遭遇したり、桃源郷を思わせる。ところが描かれる内容は厳しい不況下の世情なのだ。226の年で、青年将校らを決起させた地方の娘の身売りが、上原謙に「葬儀運転手の方がよっぽどいい」とぼやかせるまでに、車内を重くしている。映画の結末は飛躍のある展開で作品の傷かとも思えたが、あのゆっくりとした喋りで世界が変容されていると、峠を越えることで善意が勝つんだ、と素直に受け入れてしまえた。この前々年に満州国が誕生し、五族協和と「仲良し」が強制的に偽装される時代になったが、本作では朝鮮人の苦衷がキチンと語られていた。まだ厳しい検閲はなかったのか、もし検閲官が見逃していたのなら「ありがとー」だ。車窓風景の映像史料としての価値は計り知れない。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2013-01-04 09:53:22)
3.  歩いても 歩いても
このシナリオは、そうとう手間が掛かってるんじゃないか。さりげない言葉の採集に時間を掛け、それの構築にも時間を掛けていそう。それだけの成果が上がっている。大勢の中で言われた言葉へのこだわり・言い返せなかった文句が、二人になったときに不意にこぼれるのが、ザクッザクッと映画に刻みを入れて、表面では何も起こらない時間に確かな手触りを与えている。そのくすぶってる場所としての家族。「おばあちゃんちじゃないぞ、俺が建てた家だ」とか「それ(トウモロコシで気の利いたこと)を言ったのは兄貴じゃなくて俺」とか。その遅れて言い返せた言葉とは別に、“ちょっと間に合わなかった”言葉も山のようにあり、でもそこにこそ一回限りの家族の会話の味が、後悔が懐かしさに変質しつつ隠されている。あるいは墓参りの帰り、暗黙の了解のように二組の母子に自然に分かれ、どっちも他方の前では交わせない会話が紡がれる、そのスリル。不意に顔を覗かせる残酷さと怖さ。「隠れて聴く曲ぐらい誰にだってありますよ」と妻の夏川結衣にあんな含み笑い顔で言われた日には、夫たるもの気になって仕方がないでしょうなあ。こっちの「普通であること」と人の「普通でないこと」がときに重なりあい、するとその場の時間が急にボッテリと厚みを増す。「普通」を形作っているものの裏には、なんとたくさんの折れ曲がった思いが複雑に絡み合っていることか。最近の日本映画でこれだけ詰まってる時間を味わった作品はなかった。原田芳雄はおそらくまだかくしゃくとした老年を描くために起用されたのだろうが、かつての無頼を演じてたイメージが残ってて、たしかに夫婦の過去を思えば似合ってはいるのだが、現在の父としてはもう少し固いぐらいの実直さを出せる役者でもよかったかも知れない(「“すばる”は演歌じゃありませんよ」の語り口は絶品だったけど)。それとラストが付いたことで、見ているほうがその後を自由に想像する楽しみはなくなってしまった。でも傑作です。
[DVD(邦画)] 9点(2009-08-31 12:15:54)(良:2票)
4.  悪魔の手毬唄(1977)
これが白石加代子の映画デビューだとずっと思い込んでたが、今確認したらこの前に「さそり」シリーズの一本で出てるのね。なんか「王女メディア」を連想させるような凄まじい役で、見てないけど彼女の狂気演技が想像できる。で本作だが、当時私は動いて演技をする彼女を見るのが初めてだったので、おそるおそる期待とともに観賞した記憶がある。雰囲気充満だけど、意外におとなしい印象。「白石加代子」を突出させず、崑さんの作り物の世界にピタリはめた、と感じた。日本的怨念をジワッと過剰に滲ませる人で、崑さんがもっぱら日本的な装置にバタ臭い女優(岸恵子とか草笛光子とか)を配置する趣味なのに、さらに逆の方向からアクセントを一つ加えてアンサンブルに厚みを出している。草笛光子はこのシリーズを通しての助演女優賞ものだと思っているのだが、おどろおどろしい日本的情念の世界に和服の草笛光子を配置すると、全体の「作り物」感が際立つ。そこにさらに背景であったおどろおどろしさいっぱいの白石加代子を置くと、調味料に砂糖と塩を混ぜて入れたようで、コクが出るんですな。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-03-01 09:20:08)
5.  あさき夢みし
これは本当に美しい映画だった。スクリーンでなければ味わえないぎりぎりの暗さの美で、のちにDVDで再見したら全然違う映画のようになってたので、ここでは映画館で観たときの記録で書く。今様伝授の場。花ノ本寿と東野孝彦の烏帽子のシルエットのゆがみとか、ピン送りによる枝の撮影、膨らんだり縮んだりする感じ。外の宴の画面の上半分のにじみ。湖面のさざなみ。それを断ち切る舟の漕ぎ渡ったあと。こう書いていくと神経質っぽい映画と思われるかもしれないが、そういった神経質っぽい画像を塗り重ねることで、中世の宮廷の脱力感が出たように思う。勃興しつつある民衆の圧力への憧れもあるが、いまさら宮廷を飛び出す意志もない公家たち。その淀み切った気分が見事に美としてスクリーンに満ちた。志ん朝は定家のせがれをやっていた。偉大な父の跡取りの役。
[映画館(邦画)] 8点(2013-12-19 09:17:45)
6.  あの夏、いちばん静かな海。
恋愛ものに特有の「気分の波立ち」は描かれない。言葉の必要のないカップルとして登場し、あとは恋愛の安定した幸福感を描き続け、しかし実は男は少しずつ海に吸い寄せられていっていた、ってな話。耳の聞こえない恋人同士ってのがよく、『非情城市』をちょっと思い出したが、さらに遠くサイレント映画時代の恋人同士にも通じていたか。Tシャツを畳むだけで幸せな恋人。人が通過した後の風景をしばらく押さえておく余韻の効果がよく、視線と対象との間の距離をちゃんとわきまえてますよ、という礼儀正しさを感じる。対象を追いすぎないで、ちょっと目をそらしたり伏せたりしてる感じ。サーフィン大会で男が呼び出しに応じられないところで、本作で唯一障害がクローズアップされ、それだけに効果満点。静かに仲間外れにされてしまう。そこには悪意さえもない。こういう角度から障害者の痛みを描けたのが発見。その後もこの監督はしばしば障害者を画面に登場させるが、本作が最初だろうか。
[映画館(邦画)] 8点(2013-03-01 12:31:29)
7.  愛怨峡
これは彼の演出法がいちいち納得できた作品ということで、私にとっては記念すべき一本。室内で俯瞰にするのは人物(おもに男)の弱さや卑小さを強調し、また運命といった視点も導入できる。いさかいなどのシーンは、一つ奥の部屋でしていることが多い。一部屋遠くから撮る。俯瞰と同じような効果もあるが、さらに表情を隠す効果もある。剥き出しの表情を消せる。表情が急変するところをドラマチックに見せたくないという慎み深さ、そういうところを近づいて捉えては失礼だという意識もあったか。あるいは逆に、その人物にとっては大事件でも世間には大して関係ないよ、といった客観視とも取れる。芸人たちの小屋へ貰い子に出していた赤ん坊が帰ってくるところ、ワーッと仲間たちが囲んで、母と子の姿をカメラから隠してしまう。次にカメラが脇から捉えるときは、最初の出会いの瞬間の剥き出しの喜びは消え、穏やかな慈愛の表情になっている。こういう礼儀正しさが彼の演出法にはあるんではないか。しかしインテリ男に対する作者の目の厳しさは隠さない。都会に出りゃ何とかなると出てきて、しかし何も出来ないで、女のほうがしっかりしてて、けっきょく家長に絶対服従の駄目男。男に対する厳しさは剥き出しで描いているな。
[映画館(邦画)] 8点(2012-09-29 10:02:31)
8.  青い山脈(1949)
そりゃ観てて気恥ずかしくなるところはありますよ。でもその恥ずかしさも込めて、日本と民主主義の蜜月の空気が伝わってくるじゃありませんか。理想を単に空中に掲げるだけでなく、それを実現させていこうという熱気がみなぎっている。以後の学園ものだと、多くの生徒が簡単に熱血教師側につくのじゃないか。しかし本作の愛校精神を叫びヒステリックに泣く生徒にリアリティがある。旧弊な社会の陰湿さやそれに対する無力感に実感がある(これが当時の多くのGHQお墨付きの民主主義啓蒙映画と比べて、優れているところ。ただ上から与えられたテーマを語っているのではなく、本当に当人たちが新しく始めようと願っている)。それがあって初めて、それを越えようとする理想が歌えるんだな。自転車に乗って。自転車ってのがまたなぜか希望にふさわしい乗り物なんだ。引っかかるところはたくさんありますよ。理事会に送り込んだニセモノがばれそうになるのが、先生のプライバシーをほのめかしてチョンになるのは、良い筋運びとは思えないし、直接ボスには手が届いていないのもサッパリしない。にもかかわらず全篇を覆う民主主義への渇望にすっかり胸熱くなってしまった。当時の心性のドキュメンタリーになっている。若山セツ子がかわいいが(この時代ならこんなにも健康でいられたんだ)、演技賞ものは校長だね。
[映画館(邦画)] 8点(2012-06-05 10:25:18)
9.  圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録
息苦しいこの映画でフッと息が抜けるのは、金子君が山歩きの靴はいて尾瀬に行くと言って仲間たちに呆れられるところ。このとき監督の目は、金子君に共感してはいなかったか。小川が描き続けることになったのは、人々が分かれていく酷薄さだった。一緒に戦っていた者たちが離れ、互いに非難し糾弾し合う残酷さみたいなものだった。『三里塚』でも、空港建設側に行った元村仲間に土をかけるようなシーンがあった。そういうときのカメラは微妙なタッチになる。「強圧的な権力に反対」というテーマに即して言えば糾弾する側に加わるべきかも知れないが、どこかでためらっている気配が感じられる。この金子君のシーンでも、呆れつつ「でもいい奴じゃないか」って思いも感じられるのだ。この金子君ってお父さんに説得されてた学生だよね。映画が息苦しく狭いところへ入り込んでいたとこで、息が抜けた。と言うより映画が膨らんだ。この学生たちに共感するでも非難するでもない場所が見えかけてくる。小川は「そうじゃない」と言うだろう。そういうドキュメンタリーの中立主義に反発した監督で、あくまで非権力の側に付いているんだ、って。でもこの金子君による世界の思わぬ拡張を、ドキュメンタリストとして待ち伏せてたってところもあるんじゃないか。新聞会の学生を追い詰めるところや、警備のおじさんをホールから締め出すところなんかも、迫害されてたはずの人間の集団が、やはり人間の集団の業を持ってしまうみたいな視点が感じられた。金子君はその集団の業から軽く離れている。夏休みの校舎に演説してて噴水がフッと弱まるところ、襟の汚れを丹念に追うカメラ。夏の暑さの感触がフィルムに染み渡っていた。その暑さの中で彼らが追い詰められていく・あるいは自分で追い詰めていく悲壮さ。権力の作為に乗せられて、というよりも、権力の意志に関わりなく、抵抗者が必然的にそう動かされていってしまうような気配があり、かえってそこに、大学当局や公安のレベルを超えた「権力」というものの気味悪さが感じられてくるのだ。そのとき金子君的な個人の振る舞いを生かす第三の道はなかったのか。
[映画館(邦画)] 8点(2012-03-07 09:52:19)
10.  或る夜の殿様 《ネタバレ》 
だいたい敗戦直後の邦画は民主主義啓蒙のメッセージ性が強くて、当時の雰囲気を知る面白さはあるものの、あんまり楽しくないのが普通なんだけど、これは違った。こんなシャレたコメディが、この混乱期に作られていたとは。ヨーロッパ的で、なにかタネ本でもあるのかな。山田五十鈴の存在がさらに膨らみをつけている。いいシーンとしては、長谷川一夫がわざとコップの水を飯田蝶子に引っ掛けるとこ。そのあとの女中の顔が実にいい。アリガトウゴザイマスと驚きとがうまくミックスされた感じ。階級的恥辱感とでも言うのか、ああいう細やかさが日本映画のいいところなんだよね。観てるほうでもスカッとするし。ニセモノを作った志村喬ら三人組のワルガキぶりもなかなか面白い。舞台から下がってから笑い合うあたり。画面の奥のほうでほかの人の表情を見せるのもうまい。吉川満子が渋面作ってたりする。三人組がバレそうになって慌てるあたり。長谷川がいちいちカワしていくおかしさ。「私は一介の浮浪児ごときものと申し上げたはずです」。そしてすべては額縁から始まって額縁に収まっていくという趣向。シャレてるなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2011-05-09 09:56:31)
11.  あらくれ(1957)
彼女の亭主になりたいとは思わないが、脇で見ているぶんには実に小気味のいい女の半生もの。不機嫌な人物を見ていると、普通はその不機嫌が伝染してきてしまうものなのだが、彼女の場合は違う。共感でもないの。小さいのによく動き回る相撲取りを見ているときの快感、と言っちゃ女性の高峰秀子に対して失礼か。森雅之との関係はあいかわらず「ズルズル」の世界で、でも『浮雲』みたいに黴の生えるようなジメジメした雨じゃなく、爽快な夕立であることが本作の魅力(あの夕立はホースで撒かれた水の延長線上にあるんだろう)。全編にあふれる物売りの声も、いつもながらとは言え、いい。変に好きなのは、洋服屋の下働きをしてるとき、からの大八車を引いての帰り道、ちょっと置いて一服する、そのしゃがみぶりというか、いや、いったい何がいいんだか分からないんだけど、成瀬の映画ではこういう瞬間を心待ちに待っている。「道行きシーン」と勝手に呼んでて、一人歩きものと二人歩きものと二種類あるんだけど、とにかく道を行きながら放心しているシーンてのが、私は成瀬映画では無性に好きでたまらない。
[映画館(邦画)] 8点(2011-01-03 14:54:10)
12.  青い鳥(2008) 《ネタバレ》 
主人公の先生がドモるのは、原作がそうなんだろうし、物語としての意味もよく分かるが、映画としても効果を挙げていた。教室を沈黙・静寂が覆い、生徒らは先生の次の言葉を十分待ち受けてから聴く。そして先生はひどくゆっくりとしゃべる。教室のシーンはどれもいい。最初、先生が座席表と教室を照らし合わせて眺め回す、その静寂、つかえつかえしゃべり出す、そしていじめられて転校していった野口君の机を日直に持ってこさせる、その戸惑いの沈黙、「野口君お帰り」の先生の言葉で沈黙はさらに深まり、罰せられているのではないか、という反発の沈黙に変転していく。ここらへんのじっくり静寂を含ませた丁寧な演出が見事だった。その反発が机を雨ざらしにする形で表われたあとの教室での出来事の間も、ほとんど声が発せられない、もちろん音楽もない。教科書を机に叩きつける音までの間、静寂だけが鳴り響いている。“沈黙恐怖症”になってしまったテレビではまず味わえない緊張だ。先生は机を戻した意味を最初に生徒に説明するべきじゃないのか、とも思うが、先生に最小限の言葉しかしゃべらせないという映画のルールを作ったのだから、自分で分からせる教育として、これでもいいかとも思う。どっちにしろ東京都の教育委員会なら即座に追放されている先生だろう。野口君の幻影が現われる場のカーテンのゆらぎ。その後の先生と園部君との対話が本作の核心で、建て前の教育を批判したんだから建て前の結論は付けられない、といった作者の意気込みと緊張が感じられるセリフの応酬だった(ここでちょっと音楽が入るが許せる範囲内)。かつて『リリイ・シュシュ』で生徒だった伊藤歩が先生になってるのには、感慨深いものがある。いじめの問題は、こんなにも長く続いているのだ。
[DVD(邦画)] 8点(2009-11-16 12:07:58)(良:1票)
13.  ある機関助士 《ネタバレ》 
映画としてのヤマは後半、3分の遅れを取戻しつつの上り急行で、ダイヤを乱さずに上野に行けるかという設定(厳密に言えばヤラセなのだが、労働内容の記録として私はドキュメントの範囲内だと思う)。夕刻迫りやがて夜の訪れ、と時間も緊迫感を盛り上げ、ひたすら疾走する映像で押さえていく。飛んでいくホーム。青信号へのズームアップ。ピリピリとした緊張が伝わってくる合い間に、ふっと車掌の背中越しに捉えた客車のカットが入り、到着までくつろいでいる乗客が対比される。このくつろぎを機関士の緊張が支えているわけだ。東京に近づくにつれ、ネオンが輝き出し、飛び去るホームの人数も増えていく。映画が誕生して以来、幾多の汽車が観客を興奮させてきたが、これなんか本当に疾走の充実が味わえる。JR西日本事故後の今だったら時間遅れと労働管理の問題に突っ込まなければならないところだが、ここでは労働ルポルタージュ的に押さえ、そのため労働の緊張とその充実を描いた傑作になった。到着後、気軽にボール投げのポーズをするあたりで、機関士にとってのくつろぎの時間が訪れたところを捉えている。水戸での仲間うちのシーンも興味深く、先輩が「飛び込み自殺は、警笛鳴らすとかえって踏ん切りつけちゃうことがあるんだよな」なんて話しているのを、後輩が横になって洗ったばかりの髪を(髪はすぐ汚れる)かき上げながら聞いているあたり、専門の職場内ならではの雰囲気がそのまま記録されている。あるいは発煙筒持って走る訓練と、その息切れ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-06-28 12:11:26)
14.  アフタースクール 《ネタバレ》 
この人の映画は、左脳をフルに使わされる。最近は、右脳全開の映画のほうが“映画的”ということで評価されがちだが、我々は左脳も持っているのだから、こういうシナリオに手間をかけた作品も堪能したい。脳にギリギリ一杯までハテナを詰め込まれて、それが後半消化されていく心地よさは、右脳映画では味わえないものだ。冒頭、新婚夫婦の生活スケッチのように見せて、なんだか分からない山本圭をうろつかせる(この監督のことだから義父ということはないだろうと確信)。これいったい誰なのよ、とちゃんと引っ掛かるようにしてあり、その後、どんどん引っ掛かりが脳に堆積していくわけだ。田畑智子はキャバレーの売れっ子には見えないなあ、とか(ラストの彼女のかわいかったこと)。さあ騙してもらおうか、でも簡単には騙されないぞ、という気持ちでこちらは見ているわけで、その気持ちに挑んだり迎合したりする、作者の呼吸のよさが醍醐味。そして全体としてトリックのためのトリックで終わってしまわず、“得にならないこと”をする主人公たちの、単に権力の犬になったわけではない気持ちのよさが描かれ、そこで『アフタースクール』(放課後=卒業後)という題も暖かく決まっている。
[DVD(邦画)] 8点(2009-04-05 11:56:59)(良:2票)
15.  蟻の兵隊 《ネタバレ》 
ドキュメンタリーでいいのは、予定調和をカメラが裏切っていくところ。元日本兵の奥村さんが中国を訪問し、初年兵教育の最終試験として初めて人を殺した場所を訪れた後で、生き残った中国人の家族と対面するシーンがある。おそらくカメラは、謝罪と赦しのようなところを撮れればいいと思っていたのだろう。ところが奥村さんは、そのとき国民党軍と八路軍との間で妥協があったのではないか、ということを厳しく問い詰めだす。奥村さんの中に急に皇軍がよみがえったような感じ。もちろん司令官に裏切られ一部隊ごと中国側に傭兵として渡されたことへの恨み・悔しさ・死んだ戦友への義務などのもろもろが芯にあるのだが、彼の主張の根に感じられるのは、我々は皇軍として戦ったということを確認したい、という念願なのだ。あそこで奥村さんという個人が、兵士の経歴ごと・60年という歳月ごとまざまざと立ち上がり、彼の悔しさがひしひしと迫った。枯れるとか諦観とかの対極で深く怒っている老人像が、こちらのステレオタイプを砕いていく。ドキュメンタリー映画を見て良かったと思う瞬間だ。そしてこの司令官の卑劣さ・上部ほど無責任になり生き残る体質が、軍隊の本質なんだなあと思う。終わりの方、靖国で小野田さんとやりあう場は、いささかこしらえ過ぎかとも思ったが、どちらも残留者でありながら、小野田さんは中野学校出のエリート中のエリート、奥村さんは赤紙で引っ張られた一兵士、という違いが出た。皇軍教育を叩き込まれた小野田さんがあの戦争を自信を持って肯定するのに対し、奥村さんは「私は戦争を知らないかもしれない」という境地に至る。この境地が大事だ。元自衛隊の田母神某と小野田さんてそっくりに見えるんだけど、軍のエリートって同じ単線的な思考をして同じ顔になるものなのか、彼らには「私は知らないかもしれない」という謙虚な・しかし思考の始まりには必須な境地は訪れっこないだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2009-01-20 12:23:38)(良:1票)
16.  愛と希望の街(1959) 《ネタバレ》 
後半、観客を次第に苛立たせていくあたり、もう「大島」である。この苛立ちが社会に対する新しい発見なわけ。階級のどうしようもない差を、小さな犯罪を通して、またそれを巡る倫理観の違いを通して認識させてくれる。少年のほうも、鳩を逃がしたほうが悪いんだ、と自分に言い聞かせなけばならない疚しさを持っていた。渡辺文雄も疚しさを持っている。「親父の家でごろごろしているのが、今から考えるとおかしいんですが、何か罪悪のような気がしましてね」。この「今から考えると…」ってところが重要だろう。社会の構造に対する疑問は階級の差を越えて誰もが意識するときがある。がブルジョワに属しているものにとっては頭の中だけのことになりがちで、その構造の秩序に則った考えが「普段」になっていく。そしてわずかに残る疚しさが「今から考えると…」と言わせているのだ。どうして好意を素直に受け取れないのかしら、という少女の側の無邪気さも、けっして嫌味になっていない。それだからこそラストの鳩撃ちがいっそう悲痛なのだ。悪人らしき悪人が一人もいないのに、不幸や苦痛は充満しており、人々の間の相互理解は阻まれ続ける。お前はブルジョワじゃないのか、と問い返されて娘が「正義の味方月光仮面」と逃げて答えているのは、『少年』での宇宙人に対する願望を予告しているよう。ブルジョワの枠の中での正義は同情以上のものではありえない、そういう構造外の正義を、この月光仮面に期待しているのだろう。当時であれば、それは「革命」ってことで分かりやすい結論だったが、今現在はもっと深く問い詰めていかなければならないはずだ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-05-02 12:23:26)
17.  阿賀に生きる
遠藤さんの感覚麻痺による火傷、おそらくこんなにも「水俣病的」映像から離れた地点で水俣病を生々しく感じられる映像はないだろう。怒りも叫びもない、淡々とした描写。暮らしや技術を破壊した近代がパッと眼前に大きく感じられる。映画のテーマの一つは技術の伝承でしょう。舟作りとカギ漁という川の生活の基本が軸になっている。生活とは技術なんだ、という小川紳介の流れが感じられる(小川が死んだ年の映画)。その技術の伝承を破壊した水銀中毒としての新潟水俣病。その伝承の断絶と対比されるように、老夫婦のいる光景ってのは安定している。同じ暮らしが未来へ延びていきそうもないことと、同じ暮らしが繰り返されていること。餅つきの加藤さんのとこ、囲炉裏端から席を譲らぬお婆さん。長谷川さんのとこで、喋りながらトロトロと寝入っていくとこ。風に敏感でないと舟が危ない、という自然と暮らしの関係。若干ナレーションが語りすぎるような気がしたが、そのぶんカギ漁のシーンは対岸からのロングで慎ましい。加藤さん夫婦が冗談で、首を絞めようか、というあたりに厳しさがにじむ。遠藤さんが舟作りを断念した絶望の深さもある。でも新しい舟を一つこしらえたことの希望の大きさ、この振幅の中に阿賀で暮らすということがスッポリ納まっているのだろう。監督佐藤真。
[映画館(邦画)] 7点(2012-02-07 10:08:41)
18.  兄とその妹(1939) 《ネタバレ》 
日本映画は「坊っちゃん」パターンが本当に好き。主人公佐分利信は曲がったことが嫌いで、姦計を弄する赤シャツ的河村黎吉がいて、碁がたきの重役坂本武がさしずめタヌキ校長、友人の笠智衆が山嵐って感じ。「曲がったことが嫌い」な主人公も、国策としての曲がったことには鈍感になってしまうところに、同時代に生きる者の限界がある。取ってつけたようなラストはどこまで作者の責任なのか、当局に強いられたものなのか分からない。最後に不意に植民地が浮かび上がるのは『隣の八重ちゃん』もそうだった。国策への迎合と言うより、家庭劇の狭さから飛躍したいという作者の平衡感覚かもしれない。兄と妹との気の遣い合いがテーマだけど、家庭の描写の自然さが素晴らしい。会話もそうだが、沈黙が自然に描かれる。普通のドラマだと「気まずさ」を表現してしまう長い沈黙も、この監督のテンポだと自然。だいたい普通の家庭の中ってドラマほどしゃべり詰めじゃない。別に気まずくなくっても黙ってる時間がある。そういう時間を描くのが一番難しいんじゃないか。それに成功している。健康な娘ってのもいいんだ。「おいしい」ではなく「うまい」と言う。ハイキングは、もしかするとこれが三人での最後の外出になるかも知れない、という予感が微妙な切なさを醸していたが、それをあっさり健康な妹の兄想いが凌駕してしまう(現実の桑野通子はあと十年も生きられなかった)。観終わって冒頭シーンを思い返すと(夜の帰路での背後の靴音)、会社勤めをしている者のけっこうモダンな心理描写だったわけだ。当時の機材での暗い路上の移動撮影は大変そう。だいたい夜のシーンってのは昼間撮影してそれを夜っぽく処理するもんだけど、これは本当に夕方くらいの暗い中で撮影してたみたい。違うかな。かつてスクリーンで観たとき、上原謙のキザな写真が出てきたとこで場内が大笑いになった。戦後得意とした二枚目半役はすでにこの頃からやってたんだ(もうこの時は小桜葉子と結婚していて桑野とのロマンスは上原が振った形で終わっていた、本作での桑野が上原を振る設定に特段の意図はないんだろうな)。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2012-01-21 10:29:51)
19.  安城家の舞踏会 《ネタバレ》 
『暖流』のころからモダンな監督だったが、これはもう思いっきりバタ臭く作っている。原節子の背中からスタートして、タバコのわっかの煙から森雅之に移ったり、女中がズンとピアノの上に座り込むショックなんかも効いている。ラストのピストルが滑ってってビール瓶に当たるとこなんかも。きっと「やりすぎ」なんだろうが、その「やりすぎ」に、これからは日本映画はこういうタッチになっていくんだ、というような気負いが感じられ、それなりに時代の気分の記録として味わえる(ドラマとしては型通りで、その時代の中に今いるという切実感がもひとつ感じられなかった)。それぞれの思惑が進行していって、結果すべての人のもとに明るい朝日が差し込むの。神田隆だったか「あっしは働いて働いてかせいだんでがすよ」と言うあたりは、そうだねえ、と思った。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-04 12:15:48)
20.  赫い髪の女
にっかつロマンポルノは70年代初めに青春の終わりを描くことから始まったが、ここに至ると、もう青春の終わりでなく、中年まっただ中。いいかげん落ち着かなくちゃいけない、って年頃も過ぎている。もうよそに働きに出ていく気にもなれないし、若いもんのようにカケオチなんかも出来ない。半分はそういう状況を受け入れてるんだけど、あとの半分でわだかまりを残している。やたら雨が降る。ガラス戸はずしちゃって室内にまで雨は流れ込んでくる。若いもんに赤髪女を貸してるときにも雨は降っている。狭い飲み屋のシーンなんか良かった。室内はひっくり返った電気ごたつの赤。若いもん同士は廃船で密会するのだが、この監督、船好きみたい。これまたうらぶれた風情を強めている。弱者を描くんだけど、そこからは強者への恨みも妬みも感じられない。革命の気配などトンとない。「わしらはわしらでやってんのや、ほっといてんか」ってことでしょうか。こういうニヒリズムに沈んでいく世界観が間違いなく70年代末のもので、60年代末の高揚から10年でここまで来てしまったという記念碑のようなフィルム。
[映画館(邦画)] 7点(2010-08-31 09:51:50)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS