1. チチを撮りに
《ネタバレ》 愛人を作って逃げたクソオヤジが末期がん。母親は「くたばる瞬間のミジメなオヤジの顔を写真で撮ってきて見せろ」と姉妹に命令する。ふつうはありえない。しかしこの姉妹がとにかくユルイ。「そんなの面倒だよ」と意味不明なことを言い出す。姉妹の醸し出すユルイ空気が美しい自然風景と重なって、絶妙な癒し効果を生んでいたと思う。姉の設定は水商売の女、妹は不登校生徒、ろくでもない子供だという設定にしているが、物語がすすむにつれて、この2人が母親からどのように育てられたかが分かってくる。その象徴が火葬場へ向かうシーン。「私たちはお母さんから人を恨むような育て方はされていない」「私たち2人はお父さんを恨んでいない」ということに気が付くシーン。このシーンはクソオヤジを恨んでいないという事実よりも、むしろ姉妹が母親からどのように育てられたのかということにはじめて気が付いたことに重点が置かれている。母親の無限の愛情を再確認する大切なシーンだ。しかし火葬場で姉がくたばったオヤジに対して「オヤジ、アンタには感謝していないけど恨んでもねえぜ」と言っていたことでもわかるように、けっして2人はオヤジに対して愛情が芽生えたわけではない。そこは力説しておきたい。ラスト間際で宝くじの売店で働く母親を眺める姉妹のシーンが素晴らしい。夢を買うよりコメを買うと豪語していた母親、1日も休まずに汗水たらして働く姿─、カッコ悪い母親だと思っていた。しかし今自分たちがこうやってまっすぐに誰も恨まず、妬まず、素直に生きていられるのは母親のおかげなのだ。久しぶりに泣いたと思う。それと笑いのシーンが意外と多い。深刻になりがちなストーリーだが、姉妹が道端の人に「いま、ヒマですか?早くしないとお父さんが焼かれちゃうので火葬場に連れてってくれますか?」などユルさ加減が絶妙だ。ラストで母親がクソオヤジの骨を川に放り投げて「テメエなんて食われてしまえ」と言ったら本当に魚に食われてしまうシーンがシュールで最高でした。映像は終始美しいです。 [地上波(邦画)] 8点(2014-10-25 23:06:07)(良:1票) |
2. 永遠の0
《ネタバレ》 「自爆テロと神風特攻を一緒にするな」と叫んでパーティーからとび出したお孫さん。これが映画のメッセージだと受け止めました。原作者はつい最近、亡くなられた偉大な女性政治家のことを「あの女は売国奴だった」と言った蛮人です。故人の悪口を言う人間は最低です。従って偏見を持ってこの映画を観たことを素直に認めましょう。ネトウヨたちは、神風は非戦闘員を殺さないからテロではないと言い張りますが、非戦闘員と変わらぬ年令の若者たちに爆弾を背負わせて自殺しろと言っていたのです。やはり同じテロ行為です。また、日本が殺人兵器であるゼロ戦や戦艦大和を美化する傾向は今に始まったことではありません。呆れます。自爆テロを行う日本人のほうを「被害者」として描くことにより、観客は問答無用に感動を誘導させられる。私は洗脳だと思う。ヒットラーは悪いがドイツ軍は被害者、オウムの教祖は悪いが、オウム信者は被害者、日本政府は悪いが特攻隊員は被害者、たしかに被害者に文句は言えない。被害者は権力者に逆らえなかった。もしくは洗脳されていた。そう思う一方で、この映画はその悲劇を逆手にとっている。いずれにせよ、世界の人々の考え方は神風=自爆テロです。もし、次のような映画ができたら共感できますか?9・11の実行犯は、聖戦(ジハード)から逃げてばかりいる臆病者と言われていたが、彼は愛する家族のために生きて帰りたかった。しかし聖戦で命を失っていく仲間たちを見殺しにできず、みずからが身代わりになろうとしてビルに突っ込んだ。そして仲間を救った。ビルに突っ込むシーンの音楽はもちろん久石譲だ。こういう映画が完成すればイスラム諸国は、涙を流してこの信者の行動に感動するだろう。しかし世界は感動しない。永遠の0も世界は感動しない。「なにかおかしいぞ」「世界の常識から逸脱しているぞ」と客観的に判断できる感性がありますか?ラストシーンで主人公が敵の戦艦に体当たりするときの憎しみのこもった目が印象に残ります。戦争は感動して観るものではありません。日本は震災や原発放射能で自信を失っている。国民が自信を失っているときは右傾化します。最近の日本はアジア諸国を挑発してばかりだ。だからこの映画に需要があるのです。私にとってこれは永遠のクソでした。 [DVD(吹替)] 1点(2014-10-18 00:24:29)(笑:1票) (良:9票) |
3. そして父になる
《ネタバレ》 福山パパは、はっきりいって悪役です。金持ちで、エリート社員で、貧乏なご両親に対して常に上から目線で、悪徳弁護士と手を組んで、子どもを金で買おうとする、最高級のクソ男です。それに対してリリーパパは常に子供たちから愛されている。だから私はリリーパパには興味がない。やはり人間性が破壊されている福山パパに興味が湧く。福山の子供時代、突然母親がチェンジする。「俺はお前を母親と認めるつもりはない」←これは子供の立場からすれば正論だ。しかし今度は自分が突然チェンジする父親になる。新しい子供は憎々しい目で福山パパを睨む。「俺はお前を父親と認めない」という目だ。まさに因果応報!ここで福山パパは母親に電話をかけ、子ども時代の自分の態度を謝ろうとする。子供の人生を振り回す身勝手な親は死罪に値する。トラウマは一生付きまとう。子供が親を憎む権利は日本国憲法で保障されるべきである。しかし、親だって人生に振り回されながら生きている。被害者なのかもしれない。世の中はリリーパパのように子供から愛されるパーフェクトな父親ばかりではない。そう思うと勝ち組の福山が負け組に見えてきて応援したくなってくる。1つポイントがある。ケイタはひそかにカメラで福山パパをたくさん撮っていた。それを見てなぜ福山パパは泣くのか?彼は我が子から愛されていたことに気が付いたのだと思う。何を今さら、と思うかもしれない。しかし、幸せとは失ってから気が付くというのが人生のセオリーである。これが真の人間の姿だ。ラストはどうなったか?「時間」が勝ったのか?「血」が勝ったのか?子供を返すのか?返さないのか?くだらないことだ、事実(オチ)しか興味がないなら新聞で確認しろ。「物語」では結論は重要ではない。福山パパが、自分の愚かさに気が付き、悩み、暗中模索の中、前に進み、そして父になる、物語の本質はそこにある。私は福山の演技を非常に高く評価する。紛れもなく素晴らしい作品です。 [DVD(字幕)] 9点(2014-08-12 20:19:36)(良:3票) |
4. 凶悪
《ネタバレ》 世の中には自分の罪を棚に上げて他人の罪を弾劾する人間が多すぎる、それは凶悪なピエールさんであり、あの偽善者の記者であり、そして私たち観客なのです。先生が記者に対し、俺をもっとも殺したがっているのはお前だ、と指摘するシーンは、お前=観客を暗示させているのだと思います。なぜ人は、人を裁きたがるのか?という視点から映画を解説します。凶悪なピエールさんと、凶悪な先生の罪よりも、むしろ偽善者の記者の罪が目に付く。母親を見捨てないというパフォーマンスをすることにより、悪人になりたくないと思っている記者の偽善、その偽善のせいで犠牲になる妻。決して自分の手を汚さないヤツだ。そう思わせておいて、しかし、じつは君たち観客も同じだろ?という問いかけがある。我々人間は、自分の罪には鈍感なくせに、他人の罪には敏感である。これこそあの先生が、記者に指摘した人間の本質なのです。キリスト教徒は神を愛する時間よりも、悪魔を憎む時間のほうが長い。同様に偽善を抱える記者は、汚れなき自分を愛し、汚れきった人間を憎む。ヤクザですら、俺は人殺しだが、じつは寅さんのように情にもろいタイプだよな~なんて善人きどりでほざいてやがる。アーメン。偽善者の記者が、偽善者の先生を裁こうとし、そんな光景をみて、偽善者の君たち観客が登場人物を断罪する。罪の自覚が無い人間に「赦し」の感情は芽生えません。だから嫌いな映画には、精一杯ブッコミをいれてください。自分のことを公平な人間だと思わないでください。常に自分は欠点のあるレビューワーだと自覚してください。そうすれば愚かなレビューを憎む感情は和らぐのです。やさしくなれるのです。この映画で監督が言いたいことは己の罪に対する自覚なのです。 [DVD(邦画)] 7点(2014-08-08 22:10:16)(良:1票) |
5. 風立ちぬ(2013)
《ネタバレ》 嫌がる子供にたいして、母親が無理やり宮崎作品を見せようとする光景がいずれ社会現象を起こすと予言したことがあります。いつしか、宮崎アニメは、芸術や子供の学習教材へと変貌し、無垢なる子供たちが、宮崎作品が出るたびに、泣きながら、親の接待をさせられる。まさにこの作品は、親にとっては「立派な作品」であり、子どもにとって「最低のアニメ」と言えるでしょう。むしろ、これを面白いと言うガキは末恐ろしいと思う。精密な殺人マシーンは大好きなのに、人殺しは大嫌いって、子どもに対するジョークとしては悪質すぎる。真に受ける子供さんもいるだろう。そもそも戦闘機や大和など殺人の道具でしかないものをカッコいいとほざく輩は頭が悪すぎる。今の時代、そのカッコいい戦闘機に殺されるのはいつだって小さな子供なのだ。1つ確かなことは、72歳の老人には、子供が愛するアニメを創作する気はさらさらないということです。しかもファンタジーとは正反対に、厳しい現実「死」が描かれている。結核で口から血を飛ばしながら、のたうちまわって苦しむ妻の前で、平気でタバコをガンガン吸う主人公。お前こそ肺がんでくたばれよ。彼の興味は殺人マシーンを作り上げることのみ。それを「夢」と称し、正当化している姿に怒り心頭だ。あげくのはてに、死期を悟った象のように、ひっそり姿を消す妻と対比して、殺人マシーンが完成して飛び上がって狂喜する主人公。どうか貴様に罰が当たりますようにと祈ってしまった。主人公の棒読み口調がさらに私のイライラをヒートアップさせてくれる。これを純愛とのたまうならば、完全に男尊女卑である。本来、宮崎作品とはすなわち、女性たちの、女性による、女性のための物語である。シータ、ナウシカ、キキ、クラリス、宮崎監督を一躍有名にさせた輝かしいヒロインたち。主人公が女性であることが宮崎作品の生命線だったのだ。その恩をあだで返すように、引退作品でまさかのヒロイン殺し。私が許せない点はこの一点に尽きる。 [ブルーレイ(字幕)] 1点(2014-07-31 21:21:21)(笑:1票) (良:5票) |
6. 桐島、部活やめるってよ
《ネタバレ》 気分が悪い映画だった。部長、課長、という会社内の階級よりも、はるかに学校内の階級のほうが奥深い。4人の女友だちは表面上は友だちに見えるが実際には上下関係がある。学生時代は自意識が非常に強くなる。自意識とは簡単に言えば「自分が他人からどう見られているか気にする感情」である。学校という組織は、自民党政権をはるかに上回るほどに、派閥が存在し、そして上下関係が存在する。その中で生徒たちは、自分が他人からどのように見られているか、どのように評価されているか、どのグループに所属すれば評価が上がるか、そればかり気にして一喜一憂する。そして格下の生徒を見下し、同レベルの生徒と友だちになり、格上の生徒に媚を売る。生徒たちを必死になって区分けしているのは生徒たち自身である。なぜ生徒たちは、同じ生徒たちに優劣をつけたがるのか?ひょっとしたら区分け好きの生徒がしたいのは優劣をつけることではなくて、自分を肯定することなのではないか?不安から逃れるために区分けをし、自分をランクで理解しようとする。ではなぜ不安になるのか?この年齢の子供たちは自己評価できないからだ。他人が下す評価が自分の評価と考えてしまう。そうやってますます他人の目を気にした行動をするようになり、この生徒じゃ俺と釣り合わない、この生徒と喋るとレベルが下がる、と考えて、自分の立ち位置に神経をすり減らす、必然と学校は身分社会と化す。大人になると、しだいに他人が下す自分の評価よりも、自分自身が自分を客観的に評価できるようになる。オタクだったらオタクだという自分を肯定できるようになる。従って背伸びしなくなる。それだけで苦しみは半減する。ランクづけから解放される。むき出しの自意識に苦しむ生徒たちの姿をみて、本当に嫌な過去を思いをした良い映画でした。 [DVD(邦画)] 8点(2013-08-25 00:43:13)(良:1票) |
7. ライアーゲーム-再生-
《ネタバレ》 なにが一番驚いたのかといえば、ゲームのルールがさっぱり覚えられないことでした。みんな、すごいね、面白くないと言いつつ、ちゃんとルールを熟知しているんだね?それともこれは続編だから初回をみないと分らない?いずれにせよ、私には誰が負けたのかさっぱりわからなかった。登場人物たちは、電子掲示板をみて、喜んだり、悔しがっているけど、その意味が分からない。そもそもコインってなんねやん。国取り合戦ってなんやねん。それを最初にちゃんと説明しろや。いや、説明していたかな?ルールを聞きのがしたのかな?まあどうでも良いことだ。しかしなぜ邦画はキャラクター造形がいつも似たり寄ったりなんだろうな・・。個性がある人物を描こうとすればするほど、どの邦画のキャラクターも同じに見えてくるよ。しかもギャグが寒すぎる。久しぶりに内容が理解できない映画に出会いましたが特に理解したいとも思いませんでした。 しかしもしお金を出して映画館で観ていたら悔しさのあまり憤死していたかもしれません。 [ビデオ(邦画)] 0点(2013-05-26 12:16:19) |
8. 悪の教典
《ネタバレ》 命の尊厳がまったくありませんでした。大人が子供をゲーム感覚で殺していく、それだけでした。この映画を一言で表現するならば、娯楽殺人映画です。私は主人公が人を殺すシーンを観ても楽しいとは思いませんでした。しかし世の中には人が人を殺すシーンを観て、「楽しい」と感じる人間はいます。だからこそ、こういう映画に需要があるのでしょう。動いている標的を存分に撃ちたい!という一部の人間の下品な欲求を満たしてくれる危険な映画です。監督はこう言っているのです。「おまえら弱者は、自分たちよりも弱い生き物を狙って殺したいんだろ?だったら見せてやるよ」と。猟銃をスポーツだと嘘ぶく悪趣味な連中も、しょせん無抵抗な動く標的を撃ち殺したいだけです。シューティングゲーム感覚で、もっと撃て!もっと倒れろ!もっと殺せ!殺し方が退屈だぞ!もっと面白い殺し方をしろ!センスの良い音楽を流しながら人を殺せ!と熱狂する観客たちはやはりいる。そうじゃなければこんな残虐な映画は誰も作りません。ホラーにニーズがある世の中は、人間が病んでいることの象徴です。一番、悪質なのは「精神異常者は処罰されないのだ」という社会的なメッセージを織り込んで、さもヒューマン映画ふうに装っていることです。そもそも人を殺す人間は、正常ではありえないわけですから、そんなことを言ったら殺人者は全員無罪じゃないですか。私は納得できません。とくに映画という芸術が、殺人ゲームの道具として利用されてしまったことは許せません。テレビゲームは、ボタン1つで人間を殺してクリアをするものです。殺された人間は血しぶきが出るし、悲鳴を上げてくれる。それをみてオタクゲーマーは満足する。私は問いたい。ゲームと同じことを映画の中でも繰り返して、いったい何が楽しいのですか?この映画は誰にも観てほしくありません。 [DVD(邦画)] 0点(2013-05-19 10:37:42)(良:2票) |
9. おおかみこどもの雨と雪
《ネタバレ》 おおかみになった姿がかわいいですね。ぜんぜんおおかみに変身しても困っていないかんじがしますね。むしろ変身したら、おっ?とおもいます。とくにお姉ちゃんおおかみがわんぱくでかわいかったです。お母さんもとてもがんばっていました。こっちも、つい、がんばれ!と叫びそうになりました。僕はお母さんから叱られてばかりいたので、こういうやさしいお母さんのほうが良かったなと思いました(笑)弟さんは、不良になっちゃいましたね。でも最後はお母さんを助けたのでゆるすことにしました。きつねさんが師匠というのも、おもいのほか、タイヘンだな、とおもいました。まあ弟のような人の道をふみはずした人生もアリだと思いました(笑)野生になっても、お盆と正月ぐらいは家に帰って親孝行しろよ、と思いました。こおいう映画はだいすきです。やっぱりエイガはいいですね。とてもたのしかったデス。 [ビデオ(吹替)] 7点(2013-05-17 21:38:43) |
10. 七人の侍
《ネタバレ》 7人のうち、三船を除いて全員がインテリジェンスな侍だったが、私は7人全員が、三船のような野蛮な侍だと思い込んでいた。痛恨の偏見であった。知性を兼ね備え、百姓たちに畏怖の念を抱かせる侍のイメージが、偽侍である三船1人のせいで、台無しになっている。実に気に食わぬ。物語のなかで「種が島」という言葉が出てくる。それによって強い侍たちが次々と射殺されていく。7人のなかで最強だと思われている久蔵ですら、あっけなく射殺される。剣術に磨きをかけてきた侍の存在自体が、鉄砲により否定されたと思うか?不条理だと思うか?いや違うのだ。これもまた偏見なのだ。この時代のサムライは、ラストサムライのような美学はまだ持ち合わせていない。この点に関して、クロサワは、歴史家たちから火責め、水責めにされても文句は言えないだろう。すなわち、「飛び道具は卑怯なり」というキャッチフレーズを考え出したのは、銃を恐れた江戸幕府が最初なのだ。戦争のない平和な時代である。ゆえに侍(武士)たちは美学を持ち始めた。もとより日本は合理性を重視する国ゆえに、侍の武器と言えば刀ではなくやはり銃だったのだ。なによりもこの映画の時代設定、すなわち織田信長よろしく戦国時代真っ只中の時期においては、その事実は火を見るより明らかである。私が言いたいのは、なにゆえに、この当時の侍に、ありもしない美学を持ち出してきたのか?という点に尽きる。百姓を善人にしなかった点は褒められる。しかし侍を、ラストサムライとして描いた罪、それは映画監督としては切腹ものだ。私は不満だ。許せないくらいだ。また外国人に誤解されるじゃないか。しかしたかが娯楽映画である。ゆるりと楽しむことにすれば良いのかもしれない。それができればの話だが。 [地上波(邦画)] 1点(2012-12-23 16:11:58)(良:1票) |
11. 海炭市叙景
《ネタバレ》 なるほど、たしかに暗い。つい最近、18切符で、その函館に行った。かなり衰退していた。観光雑誌でみる函館とはあまりにも違い過ぎた。しかし映画の映像は、そんな函館の衰退よりも、そこで暮らす人々の「家」にスポットを当てている。まず一話。兄妹が暮らす家、そこは星飛雄馬の家にあるような、ちゃぶ台が置いてある。家の中なのに、よほど寒いのか、2人とも厚着をしている。そのうえ、光が全く射さない暗い家。私がそこに住んだら、おそらく一か月間でうつ病になる。ちなみに兄は自殺した。さもありなん。第二話。立ち退きを迫られる老婆の話。おそらく老婆は死ぬまでその家で暮らすだろう。しかし、くたばっても、死後1か月は死体が発見されない気がする。それでいいのか?そんな家、捨ててしまえよと思う。三話。プラネタリウムで働く低収入の男が、妻と息子から、死ぬほど嫌われている話。男は妻や息子と会話しようと試みる。しかし空気のように無視される。だったらなぜ離婚しないのか?無性にイライラする。老婆にせよ、プラネタリウム男にせよ、お前らは何にしがみついているのだ?お前らは故郷に執着しているのか?いや違うだろうな。お前らは家族に執着しているのだろう?しかしお前らに言いたい。家族なんて家電となんら変わらない。次に4話。妻に暴力をふるうDV夫の話だ。夫は血が出るまで妻を殴る。妻は精神的に病気になって息子を虐待する。完全に壊れた家電家族だ。地方の衰退という1つのメタファーを通じて、どの章も、崩壊家族が描かれていた。しかもこの手の映画で必須であるはずの、家族の再生が描かれていない。もし、お前らが故郷から脱出するだけならば、単純に電車やバスに乗ればすむだろう。しかし、お前らにとって、それが本質的な受苦からの解放につながるのか?それは不可能なのだ。映画は何の解決策も示さずに幕を閉じる。この映画は不幸の大バーゲンセールでもやっているのか? [DVD(字幕)] 0点(2012-09-17 23:00:37) |
12. 愛のむきだし
《ネタバレ》 主役は3人。ユウ(西島)、ヨーコ(満島)、コイケ(安藤)です。満島ばかりが注目されていますが、安藤がじつに素晴らしい。彼女は悪役です。しかし父親から虐待を受け続け、ある日父親のペニスを切り落とし、学校では不健全性的行為を行う生徒を刺しまくって、返り血で真っ赤になり、あげくのはてに「壊れちまえ」とつぶやきながら日本刀で自分の腹を刺して爆死するという病んだ現代日本においては、どこにでもいそうなリアル女の子です。それでも存在感は満島を超えていた。もし、私が懺悔することがあるとするならば、彼女に好意を持ったことでしょう。冒頭の乱闘するヨーコは良かった。この女は男を憎むことによって輝きを増す。しかしである。なぜか後半から腑抜けのように弱くなってしまう。ユウごときに拉致されるなよ。しかもこの拉致によってヨーコは逆洗脳されてしまうのだ。それともう1人の主人公ユウ。お前の変態行為(盗撮)は、父のための偽りの変態行為だ。本当の変態たちに大変失礼だ。オタクじゃないのにオタクを演じる芸能人と同様に商業的パフォーマンスに見える。それにこの男は私の知る限り、3人は殺っている。しかし精神異常者で無罪。精神病院へ。ラストでヨーコのおかげで正気を取り戻す。感動どころか、正常者に戻ったのなら死刑になれよ、と私は怒りのあまり叫んでいた。お前の「原罪」は盗撮じゃなく人殺しだと気が付くべきだ。しかも勃起は愛なのか?じゃあ健全な我々は、妻以外の女性たちに勃起したらそれも愛か?むしろ妻より勃起してしまったらどうする気だ?違う、だから違うのだ。愛とは共感なのだ。けっして性欲ではない。だからコイケのユウに対する「共感」は紛れもなく愛だと私は思っている。それが罪の共感であっても。しかし親から愛情を受けずに育ったコイケの愛情表現はゆがんでいた。愛をむきだしにできる人間はむしろ健全だ。しかし愛をむきだしにできないからこそ、トラウマを抱えた我々は犯罪者のように苦しむのだ。ユウの父親が言う。「今日の罪はなんだ?」お前は自分の罪に逆切れしただけだ。だから「罪人は俺だけじゃなくて善人顔のお前もそうだろ?」と自分の息子に詰問したのだ。コメディは不要だ。盗撮シーンで一時間以上も使っておいて何が4時間の超大作だ。ちなみに盗撮は変態じゃなく犯罪です。今日も私の地元では学校の先生が盗撮で逮捕されました。 [DVD(邦画)] 2点(2012-09-09 21:10:14)(良:1票) |
13. ヒミズ
《ネタバレ》 バイオレンス、というよりもむしろ恋愛映画であり、俺はクズじゃないと強がるクズ男と、そのクズ男を愛した女の恋愛話なのですが、ヒミズでは、女がクズ男に惹かれる動機が明確に描かれており、それは絶望に対する「共感」と言えるのですが、あまりにも深すぎる心の痛みは、同じ痛みを味わった人間にしか分らないというわけで、もし、住田が再生できないとすれば、それはすなわち彼女自身も再生できないことを意味することから、つまり、2人にとって、クズは親譲りの遺伝だということが事実となってしまう─だから彼女が「住田、頑張れ」という背景には、「わたしも頑張れ!」という諦念に近い感情が含まれていたのだと考えて泣けてくるのです。彼女が結婚しようと言った理由は、一緒に救われよう、という決意の共同宣言だと私は思ったわけですが、「家庭」によってボロボロにされた2人が、それでもなお、「家庭」を遠ざけようとせず、自分たちで新たな「家庭」を作ろうという夢を持ち、その夢をお互いが頭の中で思い浮かべ、そしてお互いが涙を流すというシーンに感動しました。こんなにも壊れきった人間たち、そんな人間たちの神秘的な再生能力、それはどこから生まれるのか?と思わずにはいれなかったのと同時に私はこう思わずにはいられない、それは人間は弱くて壊れやすいという事実であり、震災で死ななかったが、しかし心が壊れて廃人同様になった人が多かった。それでも人は再生できる─特にこの映画は廃人からの再生という強烈なメッセージが込められており、その想いは確実に私には届きました。 [DVD(邦画)] 9点(2012-09-01 00:44:35) |
14. 八日目の蝉
《ネタバレ》 赤ん坊を盗んで育てるというストーリーは生理的に受け付けない人もいると思います。特に母親の人は。この映画を楽しめない人は、やはり希和子を赦せなかった観客だと思います。わたしは八日目のセミの意味とは、刑務所から出所した希和子を意味すると思います。彼女には友だちもいなければ仕事もない、家族もない。子供も産めない。彼女が持っているものは1つだけ。誘拐犯という肩書だけです。今後の彼女の人生は多くの人から白い目で見られて生きることになる。セミは通常七日で死ぬものです。8日目も生きていたら「おまえ、まだ生きているの?」と思われます。希和子も同じです。彼女は8日目以降も生きていて良いのでしょうか?生きる資格はあるのでしょうか?八日目のセミ、死ぬ時期を間違えた生き物。この映画はべつに犯罪者に同情しているわけではありません。出所しても生きる希望なんてもうないよね?もうそろそろ死んだ方が良いのでは?と周りから言われている人間に対して、8日目以降も、生きていていいのですよ、というメッセージが込められている。そして薫が子供を産もうと決意した動機が印象的です。「この光景を我が子に見せたい」原作者の角田さんは30回以上海外旅行に行き、そのなかで行った国が26か国だとか。今はもっと増えていると思いますが、彼女は「見る」ことを人生の喜びの1つだと捉えています。自分が感動したものをまだ生まれていない子供にも見せたいという思いがあったとおもう。八日目の蝉は他の蝉には見られなかったものを見ることができる、すなわちそれは生きている限りは美しいものに出会うことができる、生きる価値はある、という問いかけが含まれている。小説(映画)というのは誰が悪い人間で、誰が悪くない人間なのかを語るものではありません。今、人生に絶望している人、大きな罪を抱えて自責の念に苦しんでいる人、このまま生きていて良いのかと悩んでいる人、そういう人にこそ見てほしいと思います。この映画では生きるべきだと言っています。罪の意識の強い人ほど特に泣けます。自分自身が許されたような気持になりました。 [DVD(邦画)] 9点(2012-08-21 00:00:11)(良:4票) |
15. コクリコ坂から
《ネタバレ》 もはやジブリは誰が監督でもそれほど差はない。これはほめ言葉です。つまりアリエッティにせよ、コクリコ坂にせよ、ポニョにせよ、レベルはほぼ同じで高水準です。誰がメガホンをとろうがジブリはジブリであり、監督が違えども、選手は同じなのです。本作品をみて改めてジブリの絵は「ヘタウマ」に変化しつつあると思った。本当は俺たち、写真のようにリアルティのある絵を描けるんだぜ、だけどそういう路線には進まないんだぜ、とジブリは言っているのです。彼らの矜持にたいし、私は畏敬の念を感じずにはいられない。よくピカソの絵は下手なんじゃないの?という議論が持ち上がる。ひょっとしてジブリの創り出す絵はピカソ的方向に向かっているのではないか?つまり多視点への挑戦です。表現力の追及です。さらに古き良き時代がノスタルジーとして描かれている。かといって単なる懐古主義に終始しているわけではなく、未来への希望が前面に打ち出されている。実は学園闘争の描写は「挑戦」に対するメタファーになっており、そこに人間賛歌が描かれている。しかも小難しいメッセージがない。もし駿が今映画を作っているならば、原発問題へのメッセージまでも織り込みそうでかえって怖い。我々映画ファンは、外国人に褒められるようなバカなアニメ映画はもうたくさんなのだ。ちなみにこの映画が楽しめるか否かの生命線は、ヒロインの海を応援できるか否かにかかっていると思います。海が母親から真相を聞いて泣き出すシーン。私は鼻水垂らして号泣でした。なぜ海は泣いたのか?その涙はうれし涙ではないと思う。張りつめていた不安や緊張感から一気に解放されたがゆえの涙だったに違いない。結ばれない恋愛と思いつつも私はあなたを好きになってよかったというあの気丈セリフ。君の一挙一動に私は涙で脱水症状寸前でした。ジブリの魅力はたしかに冒険もあるでしょう。しかし真のジブリの魅力とはヒロインの魅力に尽きる。時にはブタやババアを主役にして大コケすることはあるがナウシカ、シータ、キキ、トトロの姉妹、それら少女の人物描写こそジブリの財産であることをジブリ自身が自覚していることに私は安堵した。良い主人公だった。だから良い映画だったと心から思う。私の感想はそれに尽きる。 [DVD(邦画)] 9点(2012-08-18 20:07:17)(良:1票) |
16. 東京島
《ネタバレ》 十五少年漂流記のように、みんなで助け合って危機を乗り越えていくという涙ぐましい美談は1つもありません。エゴイズムの極致を追求したあらゆる描写が収斂されています。その象徴的な人間が清子とワタナベですね。ワタナベの変人ぶりは目に余るものがありますが、彼の他人に対する嘲笑や激しい復讐心の源泉は、他者との齟齬の自覚にあります。つまり過剰な自意識の裏返しなのです。だから彼は無人島で自意識が解放され、光り輝いたのです。清子は完全無敵のエゴイスト。生き抜くためにはどんな卑劣な手段を用いることも逡巡しない強さが秘められている。非力だがザバイバル能力はランボーすら凌駕する。清子とワタナベはまさにトウキョウ島の申し子であり、2人は水を得た魚のごとく一瀉千里の勢いで活き活きと島をかけめぐる。その描写はじつに素晴らしいものがある。人が秘める本能を「食欲」と「性欲」の描写を執拗に描くことによって炙り出すこと成功した。人間にとって「社会」とは摩擦相克の場だということも分かるかと思います。ちなみに東京島のオトコ連中は、この世の男尊女卑の思想を代表する愚か者たちなのである。現実問題としても、この世は男女平等を謳いながら男尊女卑がまかり通っている。罵るときは「バカ」だけでいいのに、わざわざ「バカ女」と言ったり、女性の弁護士にわざわざ「女弁護士」とつける。その根底には女性差別が含まれているのだ。「東京島」が痛快なのは男尊主義者たちが怒りで失神しそうな内容の物語だからだ。清子は女性軽視のバカな男たちを踏み台にして、ついに自分だけ無人島を脱出する。こんなに痛快な小説はあるだろうか?清子バンザイ!桐野の小説は、男をのこぎりで切ったことにより、男をばかにしていると批判されて直木賞を逃したこともあるが本当にばかな中年男たちは、人間の本質がわかっていないのだ。ハリウッドのリメイクではぜひ女優レニー・ゼルウィガーが清子役をしてもらいたい、第二候補は杉田かおるでよろしく頼む。 [DVD(字幕)] 7点(2012-02-25 21:25:21)(良:1票) |
17. 告白(2010)
《ネタバレ》 いじめが原因で復讐する話だと思ったがすこし違った。「いじめ」とはなにか?それは憎しみで相手をいじめるのではなく、面白くて楽しいからそれを実行する。怒りながらいじめる子供などいない。笑いながらいじめるのだ。それがいじめの本質である。まだ生まれて10年足らずの子供には心に傷が少ない。だから相手の痛みなどわからない。ただひたすら「笑い」と「楽しみ」だけがすべてに優先される。その先にいじめがある。子供の持つ明るさは残酷さと表裏一体である。それに対して娘殺しの犯人は、心に傷を負った少年であり、トラウマが原因の殺人だった。「告白」で何が一番嫌悪感を感じるか?それを自覚している人はいるでしょうか?もちろん犯人の2人ではない。それはボロボロに傷ついた犯人2人と、もっと深い傷を負った女教師をとりまくまわりの生徒たちの「明るさ」なのです。中島監督の演出は抜群だった。ダンスなど子供の天真爛漫な「明るさ」を全面に打ち出すことにより、いっそう子供の残酷さを印象づけ、観客の嫌悪感を募らせていく。社会では「子供の明るさ」を無邪気だと捉える。しかし中島監督は子供の明るさを、他人の痛みに鈍感な残酷さと捉えている。それはあの熱血教師にも当てはまる。あの脳なしのクソやろう!と誰もが思ったはずだ。人間が一番嫌いな人間は、凶悪犯罪者やヤクザではない。それは偽善者だ。かりに復讐を行なう女教師の描写として、娘を見殺しにした自責の念が描かれていたらどうなる?観客はこの女教師を偽善者だと憎むでしょう。しかし女は復讐を行なう自分をまぎれもなく「悪」だと自覚していた。反対に少年犯人を「悪者」として、制裁を加える生徒たちの醜さは、罪の自覚のない偽善者としての醜さだ。彼らをみていると、「ドッグヴィル」を思い出す。中島監督とラースフォントリアー監督が重なってくる。いわゆる性悪説バンザイ映画だ。なんという醜悪な映画だろうか。じゃあ私もこのさい「告白」しておこう。こういう映画はたまらなく好きだ。松たか子も好きだ。 [DVD(字幕)] 9点(2011-08-16 20:30:02)(良:4票) |
18. 借りぐらしのアリエッティ
《ネタバレ》 小人の大きさが、ありんこやだんごむしとさりげなく比較されている。つまり彼女は意外と大きいのだ。残念なのは冒険をしないことです。「冒険」あってのジブリだと思う。ラストでアリ子がナマズを見て興奮するシーンがあったが、本当の冒険はそこからはじまる予感があった。如何せん90分は短すぎる。翔くんが、小人にたいして「君は滅びる運命だ」と言った言葉は、多くの観客の顰蹙を買っているようだ。しかし、私はあえて彼を擁護しよう。そもそも翔くんは口下手だ。彼の言葉を超訳すると、「君らはぼくと同じ運命なんだ」ということ。この気持ち分かる?毎日、病気で苦しい思いをして、生きることに諦観を持った少年が、滅びることを認めないアリ子に対して、「どうせ頑張ってもぼくと一緒でムリなんだよ!」という怒気も含まれている。彼はただ、怖かっただけなのだ・・。翔くんがアリ子のことを心臓の一部だと言ったのは、アリ子をすべて理解した後である。これは人間の心臓を、生きるための原動力と捉えたメタファーなのだ。また私がこの台詞を超訳しよう。「君はぼくの生きるための原動力だ」と、翔くんはアリ子にお礼を言ったのだ。小人ゆえにアリ子の動きは常に何かによじ登ったり、ジャンプしたり、ダイナミズムだ。そんなダイナミズムな動きそのものが「生」を象徴している。そして生きることに諦観を持った翔くんは、生の象徴たるアリ子の姿をて、みるみるうちに再生していく。翔くんが自暴自棄で言った台詞→君はどうせ(ぼくと一緒に)滅びるんだよ。でもこの台詞を彼が口にすることは二度とないでしょう(泣)最後はもう涙ボロボロでした。 [ブルーレイ(邦画)] 9点(2011-08-15 11:01:20)(良:1票) |
19. ブタがいた教室
《ネタバレ》 人間は偽善者だと私は思います。口蹄疫に感染した宮崎の農家にとって、牛は我が子。 せめて病気になった我が子を処分する前に最高の餌を与えたいと涙を流す。 これをみて我が子を売る商売でいいのかよ!という人はあまりいない。 なぜならば農家の人が必死で育てた牛は、人間に食べられることが本望だというのが人間の考えだからである。もちろん子供にはまだ分からないことです。すべての人間は生きるために「偽善」を抱えており、 そしてあらゆる偽善者が自分を棚に上げて、別の偽善者を批判する。これが世の法則なり。この映画を見て、観客である偽善者が、あのセンコーは偽善者だと叫ぶことも「法則」なのです。いずれ子供はそれを知ることになる。あの先生がその真実を早く教えてくれた。私の嫌いな妻夫木のナミダビームも今回は許そう。飼っていた豚も、海に乗り上げて苦しんでいる鯨も、矢に刺さった鳥も、全部大切な命だ、助けなくてはいけない。その一方で猟銃の免許をとってスポーツ競技として鳥を撃ち殺す人間の真実よ。吉野家の豚丼を、かわいそうだと言って涙を流して食べる人間など皆無である。豚は牛よりちょっと安くてお得だな、と思うぐらいだ。子供たちは別の知らない豚ならば美味しく食べて「ごちそうさま」と礼儀正しく手をあわせる。良い子なのだ。子供とは無知ゆえに純粋さを保持できるのだと思う。我々人間は吸血鬼だ。誰かを殺して血を吸って生きる生き物と同等なのだ。己の罪を自覚すること。業を知ること。これが作品の主題だと考える。あの先生はじつに偉い。まるでダークナイトにおけるジョーカーのようだ。性悪説の伝道師よろしく一貫した哲学を持っている。目をそむけるな!見ろ!聞け!知れ!そう必死で叫んでいる。映画は不愉快だと面白くない。しかし人生は不愉快を感じることで真実を学ぶことができる。 [地上波(邦画)] 8点(2011-06-18 23:05:51)(良:1票) |
20. 悪人
《ネタバレ》 1つポイントがある。なぜ殺された佳乃は悪人にされたのか?それは殺されても仕方のない人間にするためである。すべては金髪を善人にするための手法。善人という概念は、悪人が存在してはじめて成り立つ。悪人とは誰か?と問いかけながら金髪のまわりに悪人を次々と作り出し、1人の殺人者を善人に仕立て上げるという手法です。昔、男が女性を痴漢する映画があったが、あれも痴漢された女性を悪人に仕立て上げることによって、男の犯罪行為を正当化していたことを思い出した。こういう手法は卑劣である。女性が男に殺されることは、女性にも非があるという強烈なメッセージ。これぞ男社会、これぞ男尊主義思想。原作者の小説は、男にレイプされた女性が、レイプした男に惚れてしまう話など、内容がどれも男にとって都合がいいものが多い。つまり光代は原作者の思想が反映された十八番のキャラクター。彼女は男たちの妄想が生み出した女神の象徴。一途に男に惚れる女は、どんな罪を犯した男をも善人に仕立て上げ、男のナルシズムを昇華させる役割を担っている。つまり深津は世の中の男たちの欲求をおおいに満足させた。だから彼女の演技は賞賛を受けた。そして金髪の苦悩。彼の苦悩は人間失格とのたまう太宰のように自己陶酔を帯びている。言い換えるならば甘美な絶望に浸るナルシスト。金髪はオペラ座の怪人ファントムの分身。もちろん光代はクリスティーヌ。その役柄のおかげで深津は神々しいまでに輝くことができた。しかし彼女はバカな男を愛する女ではない。バカ男に同情できる女なのだ。それゆえにクリスティーヌなのだ。そしてバカ男が力の弱い何も抵抗できない女を殺した罪─。悪いのは全部周りのせいなのか?バカ男はかわいそうな生き物なのか?私はその手には乗らない。弱者である女性を痛めつける男の本質がみえた。本当の悪人はもう分かったでしょう。 [映画館(邦画)] 0点(2010-09-18 09:19:35)(良:1票) |