1. マングラー
トビー・フーパーの映画は、たとえどんなに世評の悪い「失敗作」だろうと、必ず見る者の深層意識に冷んやりと、あるいはざらりと触れてくる“おぞましい”瞬間がある。それは、彼がただ単に“恐怖”を表現するのに長けているというんじゃなく、“恐怖とは何か”を本質的に知っているからなんだと思う。 その“おぞましさ”は、言うならば、見知らぬ穴に手を突っ込んで指先が何かぬるりとしたものに触れた瞬間みたいなもの、と言い換えてもいい。その時にぼくたちが感じるだろう不快感や恐怖心を、フーパーの映画は何気なくひょいと投げ出してくる。『悪魔のいけにえ』では、それこそ全編にわたって。『ポルターガイスト』のような映画であろうと、いかにもスピルバーグ風の「光」が画面を覆おうとも、例えば部屋の片隅の薄暗がりや、子役の少女の後ろ姿などにぬぐい難く。 この、悪魔が取り憑いた巨大洗濯用プレス機と人間の死闘を描くという、相当にバカバカしい、そしていかにもスティ-ブン・キング原作ならではのグロテスクさとユーモアに忠実であろうとした映画にあっても、ふとした場面に“フーパーらしさ”が顔を出すだろう。それは、主人公の刑事が深夜の死体安置所で時を過ごす何気ないシーンであったり、彼の義理の弟が住む家のテラスをとらえたショットに見ることができる。実際これらの映像は、プレス機が人間をきちんとプレスして折り畳んだり(!)、果ては動き回って大暴れするクライマックスなんぞよりもはるかに不気味で、不安で、おぞましい気配を漂わせているのだ。 フーパーは、「恐怖とは、人の心の“闇(=病み)”と直接触れる瞬間にある」ことを知っている。彼自身が、そのことに震え、おののいている。一方で、そんな「闇」を何とか「商業映画」として折り合いをつけようと苦闘し続けるフ-パ-作品は、それゆえの“いびつさ”が逆にスリリングであり、こう言ってよければ何よりも魅力なのだとぼくは信じて疑わない。 8点(2004-09-06 18:59:57) |