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かっぱ堰さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 1249
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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1.  西門に降る童話
台北発メトロシリーズ(台北愛情捷運系列)全7作の一つである。駅は西門駅、街は西門町という台北有数の繁華街らしい。現在は渋谷にたとえられる若者文化の街らしいが、昔は浅草のような場所だったという話もある。交差点の地面に ”Xi-Men Walker” と書かれていたのは「西門町徒步區」という場所のようだった。 劇中の台詞では、西門町の三大名物といえば映画・金・変人だと言っていたが、うち金と変人はともかく「映画」に関しては、実際に映画の街として知られていた時期があったらしい。そのため劇中でも何かと映画を物語に関連付けようとしていたようだが半端な印象だった。また映画以外にも町の歴史を匂わせるもの(人物)を出していたようだが、日本人が見て自ずとわかるほどのものはなかった。  全体的にはいい雰囲気の映画であって、現代的な都市景観の裏に庶民の住処が混在し、上下の立体感もある劇中世界を見せている。主人公が始めた街頭スタイリスト?の業態も若者の街らしく?面白い。また街区の奥に人知れず「太陽と緑、都会のオアシス」の異世界ができていたのもファンタジックな印象だった。 しかし雰囲気はいいとしても見て単純にわからないことが多い。例えば1999.9.21の建物倒壊は「921大地震」によるものだろうが、それで変人男が今の境遇に至ったという字幕の説明が理解できない。また黒スーツの男が主人公をどう思っていたのか、何をしようとしていたのか結局不明だった。 また物語に関しては題名の「童話」の意味がよくわからないが、感覚的にいえば童話の中に自分が閉じこもって出て来ないのではなく、童話(または幼時の記憶?)を自分の中で大事にしながら現実を生きろということか?? ラストもどうなったのか不明だが、少なくとも親子一組は再出発できたのだろうからハッピーエンドのようではあった。 ほかに登場人物の人間模様も描かれており、それぞれの物語(断片的なものも含め)については連関が見えなかったが、これは各種ばらばらな人間像を詰め込むことで、総体として西門町という場所を表現しようとしたのかとは思った。  登場人物について、特に主人公が小柄で可愛いのは大変結構だった。演者の郭書瑤 Kuo Shu-yauという人は2013年の第50回金馬奨で最優秀新人賞を受賞したとのことだが、10代の頃には“「童顏巨乳」等特色”によってグラビアアイドル的な人気があったようで、この映画でも確かにそういう感じは出ている。映画としてはわけがわからなかったが、この人の印象がよかったので悪い点数はつけられない。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-01-15 14:47:46)
2.  セデック・バレの真実 《ネタバレ》 
台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)であるセデック族に関し、1930年の「霧社事件」とその後の経過を扱ったドキュメンタリー映画である。日本人が見る場合、この事件について事前にそれなりの理解があるか、または劇映画「セデック・バレ」(2011)を見ていないとわかりにくい。逆にその映画を見てからだと、このドキュメンタリーが製作の背景になっているのがわかる。 題名の「餘生」とは「生き残った者」の意味だそうだが、現代で存命の人は基本的にいないので、子孫が何組か登場して当時の言い伝えや自らの思いを語っている。うち親子3人はセデック族の発祥地とされる「プスクフニ」(Pusu Qhuni)を訪ね、自分らが何者なのか探る旅をしていた。  この映画を見た限り、現在のセデック族は漢人社会に同化しつつあるようで、若い世代は言葉も話せず、今後もエスニック集団としての実質を維持していけるか難しいように思われる。さらにいえばセデック族というものが、いわゆる民族自決的な考え方を適用する以前の、今やっと民族意識を形成しかけた段階にも見える。事件の頃にあった集落間対立がすでに解消されたことを見せようとした場面もあったが、ここは正直ちょっと会話が微妙だった(笑)。 しかしこの映画としてはとりあえず、各人が民族としての自覚を劣等感ではなく誇りとし、他人に見下されたりしないよう、それぞれ子どもを立派な人に育てていかなければならない、という意味の言葉で締めていた。かつて彼らを見下していた日本人はもういないので、この映画では字幕でいう「台湾人や中国人」(本省人と外省人のことか?)に対して彼らの立場を訴える形になっている。 日本人としては今の彼らと立場が違うので、この映画から直接何かをメッセージとして受け取るのは難しい。しかし未来のことを考えれば、例えば日本国が近隣大国に併呑されるとか、グローバル社会の中で解体させられようとした時にどうするのかが問われているといえなくはない。  ほか特徴点としては、民族としての存在について外部からの勝手な意味づけを排する意図があったようである。日本統治時代には文明化すべき未開人の扱いだったわけだが、国民党政権下では反日宣伝のため一転して「抗日英雄」として賞揚され、それでかえって人々の実像が歪められたところもあったらしい。邦題の「真実」にはそういう意味も込めてある。 また教育はやはり大事だという考え方も出ていたように見える。日本統治時代の教育政策はかえって悲劇を生んだ面があったとのことだが、しかしその後の子孫も教育には熱心だったらしく、最後の締めのナレーションでも、他人に見下されないためには教育が必要だということを述べていた。実際に登場人物の一人で、子育て後に大学院に入ったという女性はいかにも知的な人物だった。 ほか女性というのは本当に強いと語る人物もいて、勝手に死んでいった男連中ではなく、女性こそが生命を後世につないだのだということも表現されている。見て面白い映画ともいえないが(時間も長いが)、劇映画と違って実在の人物の語る言葉は重かった。
[DVD(字幕)] 6点(2021-10-16 14:28:53)(良:1票)
3.  セデック・バレ 第二部 虹の橋 《ネタバレ》 
第一部では決起の理由が不明瞭だと思ったが、この第二部の最初で主人公が、すでに虹の橋を渡る資格は得たのであとはいかに死ぬかだけだ、と言ったのはいきなり落胆させられた。第一部で子孫のためとか言っておきながら、実は自分の来世しか考えていないのでは現世の役に立たないではないか。そういう文化だからといえば否定もできないが、少なくとも現代人の感覚でいえば、後に残される人々のことを考えない行動は褒められたものではない。主人公の渋い風貌に騙されて、何か今後の戦略のようなものがあるはずだと期待していたのは大間違いだったらしい。 例えば最後にテロップで、この事件がきっかけで総督府がそれまでの政策を改めたとでも書けば、主人公の行動にも現世的な効果があったことになり、現代人の観客にも納得しやすい映画になっていたはずである。しかしそれをする気がなかったということは、外部からの勝手な意味づけを排し、まずは当事者の意志を表現するのがこの映画の基本姿勢だったということか。そうすると当方が勝手に期待した今後の戦略などではなく、逆にそういう文明的な理性をあえて切り捨てたのが主人公の決断だったと取るべきかも知れない。来世のこともあったにせよ、それを含めた民族の誇りが最終的には問題にされていたようでもある。 なおそもそも日本人が来なければこんな惨事は起こらなかったといえなくはないが、それだと清代以来の化外の民のまま、山中に籠って近隣同士で首を取り合う暮らしを続け、20世紀の人類社会の一員にもなれなかったことになる。それでよければ別に構わないが、仮に日本が来なくても国民党勢力が同じことをしただろうし、劇中でも主人公本人が言っていたように、要は文明と野蛮の戦いだったというのがこの映画としての見解らしい。終盤で妊婦が変にわざとらしく優しく扱われるとか、少年が戦士として認められなかったのは、日本人が明らかに文明人の立場にいたことの表現と思われる。  ところで個人的に納得できないのは日本人の扱いである。終盤の台詞で、彼らには日本の武士道と同じ精神があるなどとわざわざ言わせていたが、しかし日本の武士が劇中住民のように、女子供は放置して(多くが自害)男だけ勝手に死んでバンザイなどと思っていたわけはない。家の存続と子孫の繁栄のため、今いる自分が生命をかけるというのが本来の武士ではないか。最後に桜を咲かせておいて、散るのは覚悟と思わせただけで日本精神を表現したつもりらしいのも薄っぺらい。少なくとも自分にとっては、外国人の手で戯画化された日本人像を見せつけられたようで極めて不快な映画だった。 ほか今回の登場人物として、劇中の傲岸な司令官は日本軍国主義の権化のようだったが(陸軍悪玉論か)、このハゲは主人公に首を飛ばされるのかと期待していたら、最後に何と日本精神の代弁者として再登場したのは呆れさせられた。その場にいた善人面の警官も含め、日本人として全く誰にも共感できない映画だった。そもそも全般的に人物描写が浅い。 ちなみに特に日本人役は全員が素人役者のように見えるが、うち第一部で惨めに死んだ警官役の一人は、後の「KANO」(2014)にもパパイヤ教師役で出ていて気分が悪かった。さらにいえば、この映画に出ていた日本人役者は二度と顔を見たくない。
[DVD(字幕)] 3点(2021-10-16 14:28:49)
4.  セデック・バレ 第一部 太陽旗 《ネタバレ》 
台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)を扱った映画で、具体的には1930年の「霧社事件」に焦点を当てている。首狩り族というと印象は悪いが、昔の日本でも手柄の証拠として首級を持ち帰るのは普通にあったわけで、意外にも台湾の山中に武士が残っていたということらしい。殺された日本人の方が「武士の末裔」だなどと叫んでいたのは笑わせた(嘲笑)。 事件の場面はこの第一部の最後に出るが、ここで誰が見ても殺されて仕方ないと思わせる連中が真っ先に殺されたのは納得のいく作りになっている。特に男尊女卑の染みついた下司な男(上の世代の日本人にいた)や、自分の劣等感か何かのせいで弱い立場の者を踏みつけにするひねくれた男(どこにでもいる)などは早く殺されないかと心待ちにしていた。それ以外で殺された日本人は災難だったが、異質な集団と接する最前線にはこういうリスクがあると思わなければならない。  この第一部では、個人的には民族集団が大規模な侵略を受けた際にどう対応するかの問題かと思って見ていた。最初に激烈な抵抗をしておいて、その後は集団の存続のため忍従していたが、ここでまた改めて反撃を企てた形になっている。 しかし民族の誇りを守るのはいいとして、単なるテロ攻撃では自滅するのと同じというのは主人公本人も言っていたはずである。また戦える男の首を取るのは名誉としても、日本人の女子供まで皆殺しにしたことの理屈はついていたかどうか。侵略民の繁殖拡大を食い止めるための全数駆除なら意味はわかるが、しかし日本人全部を絶滅するなどできないことはわかっていたはずではないか。主人公も若い頃とは違って指導者としての分別を備えた人格者に見えたが、事件の後の落としどころまで考えていたのかどうか、この第一部ではわからなかった。 なお注意点としては、この映画では日本人が矢面に立っているが、日本人が来る前は漢人との間でも同様のことがあったのではないかということである。また先住民同士でも狩場をめぐる争闘が日常的だったことは劇中に示されており、人間集団の間に必ず起きる争いが、この映画ではたまたま先住民と日本人との間で起きたというように取れる。仮に日本人が悪とするなら漢人も先住民もみな悪ということになるわけだが、あるいは劇中で、男のプライドが女を苦しめるという意味の歌が聞かれたのは、男こそが悪の根源だということかも知れない(現代風解釈か)。  そのほか特徴的なのは先住民の歌が多用されていたことで、特に渓流で主人公と先代が輪唱した場面は印象的だった。また金玉を握る場面も印象的だった(痛々しいが笑った)。主人公は苦みと渋みが顔に出たナイスオヤジだった。
[DVD(字幕)] 7点(2021-10-16 14:28:47)
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