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R&Aさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2162
性別 男性
年齢 57歳
自己紹介 実は自分のPC無いので仕事先でこっそりレビューしてます

評価:8点以上は特別な映画で
全て10点付けてもいいくらい
映画を観て損をしたと思ったことはないので
酷評しているものもそれなりに楽しんで観たものです


  *****

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201.  ビッグ・ガン
腕利きの殺し屋が家族の為に引退をしようとするが...という、ごくごくありふれたストーリーです。カーチェイスでもおきまりのパターンで、花屋に突っ込むシーンがあり、当然ジャンプ台も用意されています。それでもアクセルを踏み込んだときのエンジン音は、ヨーロッパ車独特の乾いた音が鳴り響き、スピード感もあってじゅうぶんに楽しめました。そして、哀しみを背負った殺し屋に、美貌のアラン・ドロンがこれまたよくはまる。シチリア人に見えないところがイタイが、どこか陰のある表情がこの役にピッタリ。演技というより、彼の美しい顔にはそもそも哀愁が漂っているように見えるから、ポーカーフェイスの裏にとてつもない哀しみが備わっているように見えちゃうんです。その陰のある表情から一変、ラストシーンで笑顔で友人の車に近づくドロン。そしてその後のストップモーションとなるなんとも言えない表情...うーん、いいねぇ。
[ビデオ(字幕)] 6点(2005-07-29 19:15:20)(良:1票)
202.  ニキータ
6~7回くらい見ているだろうか、、ベニスのホテルのバスルームのシーンだけ(笑)。楽しい旅行から一転、落胆するニキ-タ。ターゲットの確認をする電話の声。ドアを隔てた恋人の声。そしてニキータの感情とは別に身体に覚えこまされた、まさにプロの殺し屋であることをまざまざと見せつける一瞬の仕事。何度見てもいい。単純なストーリーにハリウッドばりの派手なアクションを見せながら、教官と恋人の二人の男からの異なった愛を軸に、かといってそこを強調することなく描いたことで安っぽくないドラマに仕上がった。ハリウッド映画にはない独特の空気が好印象を与えるが、ストーリー重視で演出が雑に感じるところはハリウッド映画と同じように感じた。ラストはあれでいいと思うが、アクションシーンが洗練されているぶん、なんだかつりあわないというか、違和感を感じたのは確か。
[映画館(字幕)] 6点(2005-07-27 16:05:06)(良:1票)
203.  ポーラX
この作品の予告編がものすごいインパクトを持っているんですが、本編は期待しすぎたせいか予告編以上の感動がなかった。でも予告編にインパクトがあるってことは、それだけ印象的な画が間違いなくあったってこと。映画に嫌われて8年の空白をあけてようやく帰ってきたカラックスのこの作品の主人公はこれまでのカラックスの作品同様、身体の一部を損傷します。指の怪我から別の世界への旅立ちが始まります。終盤には杖無しでは歩けず、視力も失いかけてゆきますが、前作『ポンヌフの恋人』の男女の損傷を一人で背負っていることになります。さらに舞台を華やかなフランスの中にある難民問題を抱える闇の部分とすることで、主人公をとことん落としてゆきます。新進気鋭の謎の作家として世間を賑わし、手のひらを返したように「妄想と混乱の産物」「ただの模倣」と酷評を受ける様からも、まちがいなくカラックス自身を被せています。自分の魅力が未熟さにあることを悟り、ある意味開き直って作ったような気がします。アレックス三部作が青くて痛かったように、この作品にはカラックスの絶望がストレートに表現されている。これまでの作品でスクリーンにみたてたウィンドーガラスを木端微塵にしてしまう辺りにこだわりを感じます。と同時に映画との決別の意味かとも思えて、次回作も見たいと思っている者としては気が気じゃないです。駄作と評されていようが私にとっては惹かれる作品であり、惹かれる作家です。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-07-15 20:05:03)
204.  ポンヌフの恋人 《ネタバレ》 
アレックス三部作の最終作。そしてカラックスが映画から遠ざかった、もしくはカラックスから映画が遠ざかった原因となった問題作。巨額の制作費が批判され、会社も倒産という苦汁を味わうことになる今作、その巨額の制作費はおそらく撮影の許可が下りなかったゆえのポンヌフ橋のセットにかかったのだと思いますが、お金をかけただけあって、あの花火のシーンの豪華な美しさはなかなか味わうことの出来ない美を放っています。駅の改札を走りぬけるアレックスや水面を切る石を画面の真中に捉えつづける画は前作の疾走感を継承し、三角関係の一角の作中での不在もまた前ニ作と同様。そしてビノシュのポスターの燃えるシーンは花火のシーンとはまた別の、アートとしての美しさを持っています。それ以上に驚くのは、冒頭の収容所シーンのドキュメンタリータッチで描く生々しさである。男女の恋愛という古典的題材のメルヘン性と現実性の同居は、前作から見せ続けている古典的と新感覚の同居以上に劇的な合致だと思う。しかしラストに唐突に訪れるハッピーエンドは大不満である。バッドエンドだったものをビノシュにねだられて変更したとか。それでいいのか?悲劇だからこそ、あの超ハッピーな花火のシーンが生きてくるはずなのに!
[ビデオ(字幕)] 6点(2005-07-14 17:03:20)(良:1票)
205.  汚れた血
アメリカ女が出てきた時点で、これはフランス映画とその中で誕生するヌーベル・ヌーベル・ヴァーグの物語と解釈してしまった。以下、私の妄想的解釈。アメリカ女=アメリカの映画会社のプロデューサー。謎の病気の蔓延とハレー彗星接近による世紀末的状況=フランス映画の低迷。ワクチンがあり、彗星もいずれ通りすぎるので低迷は一過性のもの。殺された男は偉大なるヌーベル・ヴァーグ?息子は父と同じく手が器用=ヌーベル・ヴァーグを引き継いでいる。息子の名前はカラックスの分身・アレックス。新たな世界へはばたきたいアレックスは資金調達のために父の仲間と共にある計画を実行する。盗み=引用?仲間はアメリカ女を恐れる男とスタイルに拘る男と謎の女。やっぱり出てきたガラス張りのアジトは映画そのもの。今度の“新しい波”はとてつもないスピードを見せつける。腹話術=直接言葉で伝えない?アレックスは死ぬが映画は死なない。疾走する映画は女に受け継がれた。頻繁に出てくる髭剃りのシーンは?パラシュート降下は?さぁ、みんなで考えよう!って適当なことを長々とスイマセン。でも、透き通るような美しさとはまさにこのこと!と思わせる二人の女優を見るだけでも価値があると思います。女優を美しく撮るって重要なことです。
[DVD(字幕)] 8点(2005-07-12 16:12:25)(良:2票)
206.  ボーイ・ミーツ・ガール
カラックスが自らの本名である「アレックス」を主人公に与え、前衛的手法と古典的題材でもって「ゴダールの再来」とまで言わしめた、弱冠23歳での長編デビュー作。目元のどアップを画面に被せたり、リズムを切る画の無いカットといった懲りすぎともとれる様々な技法は意識的にヌーヴェルバーグをなぞっているように思う。パーティシーンでの「はじめに言葉ありき」というパーティ客のセリフとアレックスのことをアレキサンデルと呼ぶパーティ主という描写はタルコフスキーの『サクリファイス』からの引用かと思ったら、『サクリファイス』は86年でこの作品より新しいので、タルコフスキーもカラックスも別の何かから引用しているのかもしれません。ピンボールとロックがヴェンダースを彷彿させるのも私の思い過ごしかもしれません。しかし美しいモノクロはノワールを彷彿させるし、見知らぬ男女の回転するキスシーンは(特にアメリカの)恋愛映画を彷彿させます。女の部屋の一面がガラス張りなのはまさにスクリーンを彷彿させます。ラストではそのスクリーンの向こうに観客までいます。ヌーヴェルバーグ、中でもゴダール的に料理した作品だと思いました。瑞々しさよりも痛々しさが上回るところがカラックス風味といったところでしょうか。 //追記(09.6.2)「はじめに言葉ありき」は新約聖書からの引用でした。いやはやお恥ずかしい・・・。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-07-11 18:09:23)
207.  愛のめぐりあい
フランスとイタリアの4つの都市を舞台にした4話からなるオムニバス。なんでも、一度倒れて、その後遺症で言葉を発することができなくなったアントニオーニに対して制作費を出す条件がヴェンダースを共同監督とすること、だったそうで、ヴェンダースはこの作品の前と後、そして各エピソード間の挿話を撮っている。ヴェンダースが担当するのは第2話で登場するマルコビッチ演じる映画監督が次回作の舞台選びに4つの都市をまわっていくという所謂ロードムービーなわけで、彼らしさが発揮できる展開なわけで、当然こちらはアントニオーニとの高度な映像バトルを期待したわけですが、意外にも全てがアントニオーニ色に染まっている。もちろんアントニオーニの映画なので、ヴェンダースがアントニオーニ風に撮ったのでしょうが、そもそもヴェンダースの中にアントニオーニ的なものが備わっていたのだろうと思いました。とか言ってるあいだに4つのエピソードに関するコメントを書くスペースが無くなってしまった(トホホ..)。「ありえない恋の話」の町並み、「女と犯罪」の港、「私を殺さないで」のガラス張りの建物、「死んだ瞬間」の教会、どれもが有名無名の俳優たちが見事に情景に溶け込んだ美しい作品でした。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-07-08 15:09:23)(良:1票)
208.  さすらいの二人
嘘やしがらみにまみれた希望の無い現実世界から逃避する、放浪三部作の三作目は、舞台を北アフリカから出発し、バルセロナへとさまよわせる。殺伐とした現実を伝えなければならないという職業の主人公は自らの人生をリセットするかのように、別人として生きることを選択する。そうすることによって今まで見えていなかっただけかもしれない希望を見出そうとしたのかもしれない。行きずりの女とガウディの建築物が希望を垣間見せたかに見えるも、追って来る現実からの逃避行が始まる。ラストの息を飲む長回しの後の死の意味するものはなんなのか?『欲望』『砂丘』ともが、全てが現実逃避の仮想世界ととれなくもなく、そう考えると最初の死体は実は...いや、考えすぎか。 それにしてもジャック・ニコルソンという個性の塊みたいな顔が不思議にアントニオーニの世界に馴染んでいるのには驚いた。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-07-07 18:40:59)
209.  
あるとき突然、女は愛の喪失に気付く。男は納得のいかないままこの告白を受け入れざるおえないのが常なのだが、この作品では、納得がいかないまでも、一応の理由が語られる。女がその心情を言葉で説明するラストシーン、、これさえなければと思った。同じ目にあっているが故に、ちゃんと納得したいというアントニオーニの願望がついつい出てしまったのだろうと思った。それでも男と女のすれ違う想いが痛々しくもリアルだと思った。、、、と、以上がずっと昔に見たころの感想。点数にすると5~6点てとこかな。でも他のアントニオーニの作品を何本か見た今はこの作品の見方も変わっている。いくらマストロヤンニやジャンヌ・モローといったビッグネームが出ていようとも、人物を追ってばかりじゃこの作品の旨みはわからない。女が自らの愛の喪失に気付く前に、背景は彼女の心情を映し出していた。ラストの説明は観客に向けたものではなく、あくまで夫に向けたものであって、観客に見せたのはその後の悲しすぎる言葉のすれ違いにすぎない。あぁ、やっぱり痛々しくてせつない。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-07-04 17:56:30)(良:1票)
210.  赤い風船
セリフがほとんど無いのですが、例えば雨の中、風船が濡れないように通りを行き交う人達の傘に入れてもらいながら歩を進める少年と傘に入れてあげるおじさんおばさんたちの会話なんてのは、はっきりと聞こえたような気になります。路面電車で乗車拒否をされたり教室まで追い出されたりといったシーンも然り。何も考えずにぼーっと見ていても様々な声が頭の中で響きます。かわいらしい赤い風船の動きも素晴らしく、またラストのたくさんの風船たちにも感動した。幸せな気分に浸りたい方、おすすめです。 <追記(2008.8.28)> 近所のレンタル屋に置いていたこの作品(ビデオ)がいつのまにか無くなってしまい、今度はいつ観る機会に恵まれることやらと諦め半分に思っていたところに本年デジタルリマスターで蘇った本作が劇場公開された(『白い馬』と共に)。セリフも無く、字幕も無く、映像だけで感動する。この感動こそが「映画」。「映画」だけにしか出来ない感動がここにある。いわさきちひろさんのこの作品を元にした絵本も素敵だが、全然違うんだ。感動が。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-16 14:05:56)(良:1票)
211.  緑の光線
ドキュメンタリーのインタビュー集でも見ているかのように、会話の洪水がこれでもかと押し寄せる。そして発せられた言葉が人物のひととなりを見事に露わにしてゆく。言葉で状況を説明しているという意味ではなく。つまり、んと、例えば、主人公の性格を、主人公の友人たちが語るのではなくて、主人公自身の語る言葉に見えてくるんです。言葉によってその言葉以上のもの、あるいはその言葉とは全く違うものを表現するのって映像だけで表現するより難しいんじゃないだろうか。ただ不満を並べるだけの女の裏腹な心情が画面に溢れているから、たんなる自然現象に我々も感動せずにはいられないのです。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-06-14 15:13:45)
212.  戦場のピアニスト
自分だけが逃れ、目の前で家族がガス室行きの列車に乗らされてゆくシーン、、 一番辛いシーンのように思うが、主人公に感情の波は襲ってこない。ただの一出来事として通りすぎてゆく。  整列させられ、となりの人間が気まぐれに選ばれ撃ち殺される、、 殺すドイツ兵も殺されるユダヤ人も無感情のまま殺し殺される。  このアンチ・ドラマチックな描写は、実際に収容所に入れられ、自身は運良く脱走できたものの残された母親は収容所にて死亡、、というおぞましい過去を持つポランスキー監督ならではなのかもしれない。 実際、感情を露わにする余地など無かったのかもしれない。  しかしこれがリアルなのかどうかは経験者しか知るよしはない。 経験者ポランスキーもリアルを追求したかどうかは怪しい。  なぜなら、たしかに死の恐怖に対してはアンチ・ドラマチックに描いているが、ライトを有効に使った絵画のような美しい映像は「これはあくまで映画という虚構の世界である」と宣言しているように感じる。  リアルに描こうとすればするほど嘘のリアルになる、という映画の持つ欠点を知っているがゆえ、あえて虚構の世界を強調したのかもしれない。 また、虚構の世界としてしかこの歴史的大事件を描けないということだと思う。  そうなってくると先に書いたアンチ・ドラマチックな死の恐怖だけが作品の中で浮いてくる。 経験者ゆえのアンバランスということなのかもしれない。
[DVD(字幕)] 6点(2005-06-03 19:28:07)
213.  テナント/恐怖を借りた男 《ネタバレ》 
ポランスキー自身が被害妄想を究極に膨らませていく主人公を演じる。妄想へと昇華する伏線の描き方がうまい。主人公の経験する全ての出来事が「自分を自殺に追い込もうと隣人たちが企んでいる」という妄想の伏線となり「同じ部屋で自殺をしたという女」に変身してゆく異常心理を理解させる。前半はけして妄想と断言できる描き方をせず、徐々に妄想であることを確実なものにしてゆく。ラストでは現実の映像と主人公にはこう見えるという妄想の映像を並べて、妄想を決定的なものとする。そして自殺をはかった包帯女が実は自分自身だったという同道巡りのオチ。見るたびに発見があり、見るごとに解からなくなってくる、、そんな映画。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-06-02 18:53:59)
214.  Mの物語
リヴェット作品にしては非常にわかりやすいオチのついたメロドラマ。時計職人の男を通して、確実に時が刻まれる現実世界の無情感を描きながら、映画だけが時をコントロールできると言わんがごとくのストーリーはいかにもリヴェットらしい。時というこの作品のテーマとリンクするかのように、エマニュエル・ベアールが12年前(!)の『美しき諍い女』の時と変わらぬ美貌を見せる。話変わって、あるシーンを回想じゃないんだけど全く同じように演じるシーンがあるんですが(あまりくわしく書くとネタバレになってしまう)、猫の歩く場所が微妙に違うんです。なかなか名演技の猫だったんですが猫の演技指導には限界があるようです。猫だから許すけど(笑)。
[DVD(字幕)] 7点(2005-05-13 14:03:42)(良:1票)
215.  パリでかくれんぼ
もともと2人の女の物語だったのをリヴェット得意の即興でもってもう一人の女の話を絡めて3人の女の話にしたらしいのですが、この3人目の女の話ははっきり言って浮いている。パリが舞台で女が主役で陰謀めいたものも描かれ、演出は即興、そして当然長尺というまさにリヴェットの映画といえる要素をふんだんに持っていながら、どうも冴えが無い。その原因はやっぱり3人目の女の話のせいだと思う。即興で得られる自由さよりも、強引に話を作った不自由さを感じる。一方、リヴェットの映画では「映画ならではの」とか「映画だからこそ描けた」というものが必ずと言っていいほど盛り込まれたり提起されたりするのですが、この作品でそれに当たるのが、唐突に始まる“ミュージカル”。これは良かった。その踊りも斬新で面白かったのですが、現実世界の中で、踊っている2人だけがミュージカルの世界にいるという映画ならではの描写がいい。 クラブ歌手として登場のアンナ・カリ-ナは....そりゃ、歳もくうわな。
[ビデオ(字幕)] 6点(2005-05-12 18:03:16)(良:1票)
216.  美しき諍い女
舞台がパリではなく、陰謀も無いせいか、これまでのリヴェットの映画とは作風が違う(長尺という部分はリヴェットらしい)ように感じる。それがダメというわけではなく、コレはコレで良かったのですが、初見時はちょっと戸惑いました。 ひたすらに絵を描く風景が描かれる中で、音楽を消し去り、絵を描く音だけを響かせて、画家とモデルの間に生まれる緊張感、そして画家とモデルの間に築かれる関係の微妙な変化を際立たせる。とくに何度も見たいとは思わない作品なのですが(長いし..)、なぜか既に4回見ている。何度見ても絵を描く風景の独特な緊張感には引きつけられます。画家は容姿ではなく内面を描く。内面を見られることは裸を見られることよりも辛いことなのかもしれません。無意識的に目を背けていたものが人間の奥底に潜み、それが暴かれたら..。そしてそれを暴くことが芸術だとしたら、芸術とはなんて残酷なのだろうと思わずにはいられない。完成した絵が画商の手に渡らなかった結末に、映画が芸術であるための何がしかのメッセージととるのは考えすぎでしょうか?リヴェットってそういうことしそうなんですけど。
[ビデオ(字幕)] 7点(2005-05-11 15:19:40)(良:1票)
217.  北の橋
な!な!な!なんじゃこりゃ~~!!これが見終わってすぐの率直な感想。しかし良い意味でなんじゃこりゃです(なんのこっちゃ)。まずへんてこりんな女が一人いますがコレが笑えます。素振りが変なんです。この女が原チャリでパリの街をぐるぐるとまわるシーンがあるのですが、延々とそれだけが映し出されたと思ったらいきなりピアソラのタンゴが強烈なインパクトをもってバックに流されます。この意味の無い映像が一変して名シーンになるというとんでもないシーンです。「ドンキホーテ」をベースにしたストーリーはストーリーとしての機能を持たず、リヴェット作品に付き物の「陰謀」も最後には置いてきぼりをくらう。終わり方はただ呆然とするしかなく、ここまでハチャメチャな構成の映画は見たことがありません。不思議な世界ではあるけれど、そこはまぎれもなくパリだし。ただ凄く印象に残る映画なんです。
[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-10 14:50:49)
218.  セリーヌとジュリーは舟でゆく
冒頭のセリーヌとジュリーの出会いから即興ならではの先の読めない展開で、終始ワクワクしながら好奇心旺盛な二人に誘われるように不思議な世界を共に堪能してゆきます。キャンディを舐めている間だけ覗ける異世界のドラマはキャンディを舐めきると当然そこで中断します。主人公二人と同様に早く続きを見たくてしょうがない。翌日またキャンディをほうばると待望の続きではなく同じ場面が重複して展開される。「もう、そこは見たって!」私がそう思うように彼女等もそう思う。そんな共感に嬉しくなりながら、異世界に入ってゆく二人と同じように、いつのまにか映画の中に入ってゆく自分がいる。あまみさんがご指摘のように、異世界に入っていった二人は芝居をメチャクチャにしているようで、反対に映画の可能性を提示しているようです。“なんでもあり”な映画の素晴らしさ見せてくれるリヴェットの傑作。そしてリヴェット作品一番のおすすめです。
[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-09 16:56:49)(良:1票)
219.  ブルジョワジーの秘かな愉しみ
食欲、性欲、睡眠欲が人間の三大欲と言われます。登場人物を全てに満たされた上流階級の人間とすることでより明瞭に人間の欲深さが描かれる。同時に睡眠中の夢を通して人間誰しもが持つ無(死)への不安を描く。この作品もまたどこからが夢なのか、はたまた全てが夢なのか、、。贅沢な文句を言いながらいつまでたっても食にありつけない様で、一度手に入れたものは離したくないという人間の欲深さをあざ笑う。地位欲とでも言おうか、それこそ上流階級の人間らしいと言える欲も描きながら、人間を面白可笑しく描いてゆく。果てしない欲に向かって真直ぐに歩いてゆく人間たち。まるで人間ではない人が人間を観察して作ったような作品。我々もここに描かれる人々を高見の見物的に見ると、人間って愚かで滑稽だなぁと思うと同時になんとも可愛らしい生き物だなぁと思ってしまう。流麗なカメラワークと極端なアップからのズームアウト、この小ばかにしたようなギャップも面白い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-04-28 15:00:14)
220.  哀しみのトリスターナ
清純を絵に描いたような可憐な少女トリスターナと冷酷な悪女と化したトリスターナ。ふたつの顔を見事に画面に残したブニュエル+ドヌ-ブが素晴らしい。ひとつひとつの画にいろいろなことを暗示させるブニュエルの傑作。二つに分かれた道でどちらに進むかをトリスターナが自信たっぷりに選ぶシーンは、道の先での狂犬病の犬騒動でその後の彼女の悲しい運命を予感させるとともに、後半、個人主義を貫くドン・ロぺを夫としては認めなくても父としては認めるというセリフに繋がり、養父ドン・ロぺの思想を受け継いでいることを象徴している。だから結婚制度を嫌い教会を下げずんでいたロぺの、結婚を望み教会へ足を運ぶという行為はロぺ自信が自己を否定するにとどまらずトリスターナをも否定する行為となってしまう。後戻りのできないトリスターナにとっては許されない行動となる。後半の赤子を見るシーンは前半の赤子を見るシーン(家族を否定するロぺに口答えする)に観客の頭の中でフラッシュバックさせ、「こんなはずではなかった」と哀しみに暮れるとも開き直りともとれるトリスターナを映し出す。しかし自分で決めて自分で行動する個人主義に生きながら、不幸の責任は自分には無く諸悪の根源をドン・ロぺと考えるトリスターナの存在そのものがこの作品の中で一番哀しいものとして描かれている。 自分に都合の良い信仰心、自分に都合の良い無神論、自分に都合の良い家族主義、自分に都合の良い個人主義、、、人間の哀しい性で溢れている。
[ビデオ(字幕)] 8点(2005-04-27 17:39:23)
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