Menu
 > レビュワー
 > onomichi さんの口コミ一覧
onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : フランス 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順123
投稿日付順123
変更日付順123
>> カレンダー表示
>> 通常表示
1.  落下の解剖学 《ネタバレ》 
この映画は「おとなのけんか」である(ポランスキーにそういう映画があったが)。夫婦が喧嘩するだけでなく、裁判での検察官と被告、証人、弁護人とのやり取りも口喧嘩のようなもの。言葉尻を捉える子供じみたソレである。そういえば、冒頭にキャストの子供の頃の写真が出ていたなと。 被疑者の女はドイツ人で、転落死した夫はフランス人。裁判ではフランス語の質問に英語で答える。言葉の壁に子供っぽい心理が加わり、共通のコードを持たないコミュニケーション不全が前提であれば、それは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン!)となる。  言語ゲームとは、言葉と意志が通わないところに起こる本来的な他者との邂逅。結局のところ、彼らの子どもで、おとなになろうとする盲目のダニエルにこそ全能性が宿るラストが象徴的であった。 転落死した男は自殺か他殺か? 彼は落下する。私には、それもダニエルに見透かされたように、言葉を失いながら、言葉を紡ぐしかない作家の子供っぽさ所以の自作自演の典型のように思えた。  『ある言葉の根拠を示そうとして、いくら言葉を尽くそうとも、その説明のための言葉すら、根拠のないルールをもとに述べられているにすぎない。自分自身で決めたルールのなかで、自分自身を正しいとしているのだから、つまるところ「論理」というものは、すべて「自作自演」となる』 飲茶「哲学的な何か、あと科学とか」より
[映画館(字幕)] 8点(2024-03-05 19:21:31)(良:1票)
2.  寝ても覚めても
主人公の行動には驚き、確かに戦慄する。とても共感できないが、惹き込まれた。安易な共感は物語を陳腐にする。この映画にはいろいろと考えさせる多面的な面白さがあった。様々な視点や視線があるように思えた。 こう言うと語弊があるかもしれないが、震災以降、君と世界は一体化し、誰も世界を疑うことができない、そういう時代の流れが急速に訪れているように感じる。それによって個人の内面や物語といったものは世界に沈んでしまった。世界を疑う違和こそが内面を失いつつある人達のココロの快復に求められるのだとすれば、この映画の主題はその為のギリギリの「戦い」そのものと言える。そこから始まる物語。悪から善を生む、汚ったねぇ河から始まる物語。世界から一番遠い君の恋愛物語。共感できないが故に素晴らしい人間讃歌だと思った。
[インターネット(邦画)] 10点(2019-03-30 22:08:03)
3.  おとなのけんか 《ネタバレ》 
メチャメチャ笑えた。4人の関係が徐々に険悪化していき、エゴ剥きだしで体裁も何もなく、ハチャメチャになっていくのに、笑いは止まらない。但し、ポランスキーにしては珍しく、ただそれだけのコメディ作品とも思える。。。いや、この監督だからこその、ある意味で現代人の本質を醜悪に捉えた秀逸なブラック・コメディか。  題材的には、三谷幸喜あたりの舞台劇にもなりそうだが、日本ならば、喧嘩両成敗で、最後は全て水に流して、丸く収まるというのが落としどころで、あんな収拾がつかない終わり方にはしないだろう。さらに現実には、日本のこども同士の関係性って、おとなの世界の縮図だから、こどもの方がおとなを差し置いて先に仲直りしているということもないだろう。  おとながこどもみたいに自分や自分の周りだけを優先して自己保身と責任追及(転嫁)に執心する世の中で、こどもはそんなおとなに倣うわけだから、いつまでたっても日本に「いじめ」なんかなくならないよ。  ※日本でも『大人は、かく戦えり』のタイトルで2011年に舞台上演されているようです。大竹しのぶ、段田安則、秋山菜津子、高橋克実出演。。。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-16 10:41:52)(良:1票)
4.  赤い砂漠
モニカ・ヴィッティの存在、彼女が放つ美の重力が世界を歪ませるのだろうか。それは、美と孤独の関係を思い起こさせる。美が必然的に引き寄せる孤独と美に惹きつけられる孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛は人を何処にも連れて行かないが、その圧倒的な力に人は逆らうことができない。重力に身を任せながら、男は回転儀のようにバランスしつつ、美の周りを廻り続けるしかない。そして女も。彼女自身の美しさ故に、その外部の力が彼女の心のバランスを崩していく。  美は永遠でない。世界は移ろい、絶対的な信などない。発電プラントのコンクリートやラックの鉄骨、配管の硬質性、排蒸気の規則性のみが単純で線形的、重厚長大な存在感を残す。登場人物達が醸し出す不安感、非線形性とのコントラストが美の在り方を浮き彫りにし、映像としてフィルム(物質)に焼き付けられる。こうして美は、その在り方と共に永遠となるべきなのだと言わんばかりに。  同時に、男が信じることとして挙げた「人間性」「正義」「進歩」「社会主義」、それらの線形的なイデーが脆く崩れ去っていくのを僕らはこの映画の裏側に観ているのかもしれない。
[DVD(字幕)] 8点(2012-07-08 22:35:30)
5.  人生万歳! 《ネタバレ》 
原題を”Whatever Works”、つまり「何でもあり」と言う。主人公はウディ・アレンを少し精悍にしたような役者ラリー・デヴィッド。これまでのウディ主演の主人公よりも性格は悪い。彼は、ノーベル賞候補にもなった物理学の元教授で頭が良く、上流階級で、知識があって、理論に勝る為、常に人を見下している。故に孤独でもある。  そんな主人公が尺取虫ほどの脳みその(と主人公が呼ぶ)若くて可愛らしい家出娘に一方的に惚れられて、彼女と結婚する。音楽を含めた趣味や生活観が全く合わないながらも、その違いこそが2人の関係を支える、まさに共依存のような間柄となる。お互いを思う気持ちがうまい具合にすれ違うことで2人はうまくいく。だから、彼女が知恵を獲得することで、2人の関係性はバランスが崩れ、最終的に破局するのである。  しかし、映画はそこで終わらない。何故なら「何でもあり」だから。恋愛とはそういうものだ。だからどうした。ウディにとって、人生の中の恋愛という可能性はいつまでも死なない。人生万歳! すごく晴れやかで、筋が通った、いい映画!
[DVD(字幕)] 10点(2012-01-18 00:52:49)
6.  ミッション:8ミニッツ 《ネタバレ》 
主人公は、テロの犠牲になった一般人の記憶に意識を同化させることにより、彼の最期の8分間を何度も「生きる」。彼は、テロの犯人を見つけ出すというミッションを与えられるのであるが、犯人に辿り着くことなく、列車を何度も爆発させてしまう。その中で、列車の中で関わる人々の動きが彼自身の行動の変化によって毎回違うことに彼は気付く。これは記憶の変遷、仮想現実の単なるバリエーション(誤差範囲)にすぎないのか?そして、何度目かの意識同化の中で、彼は逃走した犯人の手掛かりを見つけることに成功し、犯人は現実の中で逮捕される。しかし、ミッションの成否に関わらず、列車の中の人々は、現実にはもう既に死んでいる過去の記憶の断片にすぎないのだ。そして彼も。。。  彼は、2-3度目かの記憶同化の際に、同席していた女性を列車から救い出し命を助ける。彼は、既存記憶の枠を超えて彼女の命を助け得たことに、彼の行動が持つある種の可能性に気付く。繰り返される8分間の中で、彼は彼女と何度も出会い、会話を繰り返し、彼女に恋をした。彼は現実には死んでいる彼女を助けたいと切実に願った。。。  脳内信号が言語データとして扱えること。他人の脳内記憶データを認識することにより、意識が時空間を超えて存在できること。そして、そこから人間原理に基づく量子論的な多世界解釈が生まれること。この映画のラストシーン。時空を超えた意識が確率論的な現実を生み出し、量子論的な多世界解釈と結びつく。彼は彼女を助け、世界を変える。意識のパラレルワールドを現実として生きる。素晴らしい。そうきたか!僕は「やったー!」と叫びたくなった。  あと8分しか生きられなかったら、何をする?  たぶん、今年一番のSF映画だと思う。監督のダンカン・ジョーンズは、デヴィッド・ボウイの息子である。さすが、センスがいいね。※Lufthansa国際線の機内で鑑賞。
[DVD(吹替)] 10点(2011-08-23 00:55:07)(良:5票)
7.  TOKYO! 《ネタバレ》 
池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。 『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。 人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。 予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。 新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:38:21)
8.  パフューム/ある人殺しの物語 《ネタバレ》 
この物語、副題には『ある人殺しの物語』とあるが、実はそこに「物語」がない。主人公は匂いをもたない人間であり、それは同時に自己が希薄で「こころ」がないことを示す。故に、彼には自分のための物語、自己と他者を繋ぐ物語が一切ない。映画は、主人公が次々と殺人を犯していくのと同時に、13人目の被害者となる女性の日常をも映し、その接点ともいうべき二人の邂逅の過程をドラマチックに描いていくが、その邂逅自体のドラマ性をあっさりと否定してみせる。  では、彼は何を目指していたのだろうか?彼は世界を動かしてみせる。その現実性うんぬんは別にして、非物語的で即物的な「パフューム」によって人心を把握する(「愛情」ともいうべき)幻想を顕現してみせるのである。 彼は「パフューム」によって世界を動かすが、最終的にそれを受け入れることができない自分を発見するに至る。それこそがこの映画の救いなのであろうか。しかし、主人公が群集を前にして流す「涙」に僕は全くと言っていいほどリアリティを感じなかった。僕らの世は無知にあえぐ18世紀のパリではない。情報過多の21世紀の日本である。同じような非物語で貫かれた世界でありながら、そのバックグラウンドとなるべき現実感には決定的な違いがあるような気がした。 主人公が流す涙のリアリティをそれを誰もが理解しないという現代性に通じる現実によって否定してみせる。もし、そうであれば、僕はこの映画のすごさを感じるが、その辺りの意図はよく分からない。いずれにしろ、そういった構造分析的な意匠では僕らの「こころ」を響かすことができないことだけは確かである。  最近、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んで、同じように「どんより」とした気持ちになったが、彼が提唱する「物語の死」とか「物語の衰退」と呼ばれるポストモダン的な状況やデータベース化した環境下での新しいコミュニケーション社会とそれを前提とせざるを得ない新しい批評体系というのはとても理解できるが、そこには全くと言っていいほど、「こころ」に響くものがない。 この「どんより」感はもう自明であり、仕方のないものなのかもしれないが、僕らはいつかその「どんより」感の中でもゲーム的リアリズムによって「こころ」をふるわせる日がくるのであろうか。そういうことを想起すると、また「どんより」としてくる。。。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-20 22:55:10)
9.  海を飛ぶ夢
正確に言えば、彼の死は「尊厳死」でもなく、「安楽死」でもない。彼は「自殺」したのであり、彼を支援する立場は「自殺幇助」であろう。 映画の中に「尊厳を守るために死ぬ」という彼の言葉がある為、そこから「尊厳死」というひとつのイメージが喚起されるが、それを限定的に扱ってしまうと、この映画から僕らが受けるより深い響きを損なってしまうように思う。それはとても勿体無いことだ。 彼は頚椎損傷を原因とする四肢麻痺により、28年間も寝たきりの生活を余儀なくされ、そこには既に長い長い物語が横たわっている。しかし、敢えて言えば、この映画は、彼と家族の長い物語の果てに、フリアとロサという全く違うタイプの二人の女性が彼らに関わる、その中で彼らが彼の自殺を決心し、そして決行する、短い期間に凝縮された感情の物語として僕は捉えるのである。もっと言えば、この物語は彼だけの物語ではなく、彼に関わった人たちの物語でもあるのだ。彼は自殺する。しかし、そこには、自殺する彼を中心にして、彼らの「生きる」ことへの濃密な意志と疑義が垣間見えないだろうか。そして彼自身についても、生と死への思いが微妙に捩れる瞬間が、その人間的な揺らぎが、共振するように僕らを揺さぶるのである。 「海を飛ぶ夢」とは何だろうか? 映像とともに印象的に語られる彼の「海を飛ぶ夢」とは? それは叶わない夢でありながら、彼を28年間支え続けてきた不可能性の可能性ではなかったか。彼はフリアに想う。「永遠に縮まらない距離」のことを。フリアもロサも結局は錯覚してしまったのだと僕は思う。彼だけが彼女達との触れ合いの中で揺らぎながらも、結局はその距離が決定的であることを悟るのである。そんな彼自身が決して相対化され得ないこと、そのことを今度は僕らが悟るに至るのだ。 間違ってはならないのは、彼は仏のように悟って死ぬのでは決してなく、人間という不可解さを自明のものとして死ぬのである。それは生きることへの揺らぎと言っていい。そこに逆説的に浮かび上がる、静かに切り取られ選び取られた生の有り様こそが僕らの胸を強く掴むのであろう。 僕としてはやはり彼に焦点を当ててしまうが、やはり、この物語は彼に関わった人々の「生きる」物語である。そしてもちろん、その反映の中に僕らも含まれている。それが観るということだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-18 22:29:51)(良:1票)
10.  ロング・エンゲージメント
『シンデレラの罠』のジャプリゾが描く第一次世界大戦期の歴史ミステリー。これをジュネ&オドレイのアメリコンビで映像化。僕は映画を先に観てから原作を読むという幸福な関係でこの作品に接したので、映画自体もとても楽しめた。ジャプリゾは映画の脚本も書いている人なので、原作自体も映画的なスピード感覚に溢れ、場面展開も小気味よい。相手からの手紙を挿入することによって、周りに状況を語らせ、主人公の語らなさ(レティセンス)を補完する手法も読み手の好奇心を煽り、ついつい読みを走らされる。また、ジャプリゾは、フランスで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した人でもある。サリンジャーが戦争を直接描かないことによって、戦争という心的状況を突き詰めた作家であることを思えば、この小説に戦闘シーンの直接的描写が一切ないのも納得できる。ミステリーは、謎解きによって真相を追い求めていくものであるが、今では、事件の真相とそこに本当の真実がないというアンビバレンツな感覚こそが現代的なリアリティでもあり、そこからどう一歩進めるか、どう結末を付けるのかが今僕らの読む物語に求められているのではないだろうか。さて、映画であるが、この作品は基本的にミステリーだが、主人公が恋人を思い続ける恋愛映画でもあり、そこにアメリ的な「生きることそのものが、希望であり可能性であること」という思想が全面的に押し出されていく。主人公が事件の謎解きをしていく中で、事件に関わった人々の様々な人生と事件に対峙することで自らに問い掛けざるを得なかった生きることに対する戸惑いが次第に露呈されて、それは僕らの中にも沈殿していくのである。しかし、主人公は決して希望の芽を摘むことなく、謎解きこそを自らの生きる希望に変えるのである。偶然に頼る主人公の心情は余りにも乙女チックすぎる気もするが、彼女の楽観的意思の切実さは、逆にこの作品に時代的なリアリティを与えることに成功していると僕は感じた。人は様々な人達の様々の物語に翻弄され、いつでも間違え得る状況にいるが、その中でも適切に綱引きを行いながら、常に真っ当さを信じて生きていくべきなのだろう。この映画は遠い過去を描いていながら、そんな現代的な歴史性をとても素直に描いてみせる。あと、戦闘描写のリアリティについては、あまりここで語るべきものでもないと僕は思う。そこには客観的描写以外の何もないからである。
[映画館(字幕)] 9点(2005-03-21 21:06:36)
11.  ブラウン・バニー 《ネタバレ》 
映画が現実に起こりえるとか起こりえないとか、そういった基準で観られるべきものではないというのが僕の考え方だ。バイオレット、リリィー、、、なぜ花の名前か?ローズ。美しいものの余韻。名前という幻想。名前にこそ意味がある。取り替えのきかない名前という幻想。それは彼の心を執拗に捉えていく。 なぜリリィーは涙を流しているのか、そんなことは疑問として意味がない。ただ涙を流しているということが答えなのだ。妄想?失われたものへの掛け替えのない想い。それを抱えていかなければ生きる意味なんてない。でもこれ以上の哀しみを背負う必要があるのだろうか。そして思いとどまる。 ロードムーヴィーとは何かを探す旅を映す。彼は?砂漠での疾走。砂漠という茫洋。無意味の意味。彼は何を追い求めているのだろう。 デイジーは死んで、死んだものは現実には帰ってこない。だから彼は夢想する。幻想としてのデイジーを彼は許す。人が生きる原理を掴むにはまず許すことから始めなければならない。彼が欲したのは、彼女を許すということ。その不可能性の可能性。それは幻想であるが、それは彼にとって必要なことだったのである。そして彼は帰還するのだ。 
10点(2005-01-23 11:32:23)(良:1票)
12.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
13.  パリ、テキサス
茫漠と広がる砂漠のような虚無感。彼が旅したのは自らの心象風景の中だったか。しかし、失われたものを快復するために彼は目指す。自意識に根ざす心象風景は常に止め処ないが、そこに一筋の光を見出すことは不可能ではない。砂漠にも静かな雨が降ることがあるだろう。優しさという名の愛情が彼に希望をもたらすが、それはもう遅すぎたか? でも終わりは始まりともいう。大切なのは彼の心の在り様であり、快復であろう。柔らかに降り注ぐ雨は静かに地下へと水を湛え、やがて彼の人の水脈にも連なっていくだろう。彼に必要なのはその為の時間だけである。それが自然というものだろう。
9点(2004-08-13 13:30:36)(良:1票)
14.  死刑台のエレベーター(1958)
特別な映画である。当時、マイルスデイビスは、マラソンセッション等で名を馳せたクインテットでハードバップを確立させ、独自のミュート奏法にも神懸り的な磨きかけて、ジャズクリエイターとしても、プレーヤーとしても、最高の時期であったといえる。しかし、そのクインテットも57年には解散し、この映画へ実際に演奏を付けたのは、フランスツアーを共に回ったとはいえ、現地の人間と組んだ新規のクインテットである。まぁオリジナルクインテットにこれ以上の傑作アルバムを求める気持ちは全くないので、フランスという異国の地で、映画のラッシュを観ながら<ジャンヌモローの姿を観ながら>、即演するという新たな方法を見事に具現化してみせ、緊張感の中にも伸びやかなミュートを効かせまくるマイルスの演奏にはかなり満足している。というか、ジャズアルバムとしてもこれはものすごい傑作である。いくつかのメロディの断片を事前に用意していたとは言え、映画を観ながら、クインテットのメンバーと即興で音楽を作り上げていく、、、それがマイルスであるということも合わせて考えれば、ある意味でこの作品は驚愕すべきものだといえよう。 さて、映画もそんなマイルスの演奏と共に観ていけば、あまり細部に気が回らなくなる。いくつかの印象的なカットに合わせた隙のない演奏、ジャンヌモローの可憐かつ端正な立ち姿と共に、マイルスから彼女に対する愛の囁きの如きミュートが画面から立ちのぼる、そんな映画である。
8点(2004-07-17 23:58:30)
15.  ラストタンゴ・イン・パリ 《ネタバレ》 
絶望が引き寄せる孤独と絶望を希求するが故の孤独。孤独と孤独が紡ぐ性愛、その現実感が満たす孤独という名の救済と慰撫。「ラストタンゴ・イン・パリ」が描く男と女の恋愛劇には、マーロンブランドの強烈な個性に引き摺られながら、その醜悪さも切実さも含めて最後まで惹き付ける魅力があった。<と感じる人は少ないようだw> 最終的に男は恋愛を絶望からの帰還へと変化させるが、女にとってそれはあくまで現実からの逃亡に過ぎなかった。確かに本来的な孤独の意味、その「失われざるための愚かしさ」に囚われていたのは女の方であったか。女は何を求め、何を殺したのか、それは男が追いかけたものでは全くなかったことは確かである。男が逃れた狂気は既に女の側にあったのだ。しかし、男を殺したことによって急速に現実的問題に執心する女の姿は、陽気なラストタンゴが全く夢の如く思えるほどに、冷たい。あれは何だったのだろうか。マーロンブランドが醜悪にして、痺れるほどに最高の演技を見せた恋愛映画の傑作。
10点(2004-07-10 23:26:27)(良:2票)
16.  シティ・オブ・ゴッド
ブラジル版の「仁義なき戦い」というのは当たっているかな。でも、確かに深作やタランティーノのテイストを十分に感じるけど、登場人物の大半が子供だということはかなり異様である。「バトルロワイヤル」のような完全なる虚構性が前提であれば、純粋に娯楽として楽しめるが、この作品のもつリアルな歴史性は、そのスタイリッシュな娯楽的展開から乖離して、僕らの胸をストレートに突き刺すのである。子供たちが殺し合うということの捩れた純粋さがとても心重く、とても恐ろしいのだ。しかし、僕はこうも考える。この作品が捩れた純粋さと殺人に対する原初的な麻痺の恐怖を描いているとすれば、一体全体、「バトルロワイヤル」的な虚構性とは何なのだろうか、それを描くことのリアリティとは何なのだろうか、と。それはゲーム的虚構性であり、ゲーム的リアリティであるとしか僕には思えない。本来、作品とはそういうものを超えたところで創られるものだろう。歴史性がなければ、人の心は掴めない。というか、人々の心の有り様こそが今描くべき歴史性だ。今、この瞬間にも歴史は創られているということを僕らは認識すべきなのではないか。話はそれてしまったが、この作品が傑作であることに全く異存はない。
9点(2004-06-27 01:44:29)
17.  フランスの思い出
都会の少年が片田舎で過ごす夏休み。少年は迷える大人の世界を垣間見、そして初めての喪失を経験する。子供の通過儀礼的な物語はわりとありふれている。この手のストーリーって結構あるからね。子供を主人公とした素朴すぎる展開も今では古めかしい手だという感じもする。ただ、この作品の見所は案外、大人たちの世界の方にあるのかもしれない。  見た目はイカツいが実は心優しい男、リシャール・ボーランジェ。<彼の得意な役どころである> 心に傷を持ちながらも田舎の日常を必死で生きる女、アネモーヌ。彼女の「はすっぱなねーちゃん」って感じも悪くない。  これは、ある事件をきっかけにして心を通わすことができなくなった夫婦が、一時的に預かることになった少年の無邪気さに触れて、お互いを思いやる素直な気持ちを取り戻す、という物語でもある。しかし、これもまた十分に素朴すぎる展開だ。あからさまな素朴さが僕らに無邪気なノスタルジーを感じさせる、それだけの映画。昔だったらそう思って終わりだったかもしれない。でも、今では違った感じ方もできるようになった。ささやかだけど確かな日常という、その手触りが感じられる、そういう映画として素直に観ることができたのだ。今の世の中で「ささやかな日常」ほど僕たちの拠り所となるものはないだろうから。
[DVD(字幕)] 7点(2004-05-15 22:08:08)
18.  戦場のピアニスト
不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。
9点(2004-03-27 23:24:14)
19.  華氏451
ブラッドベリの名作SF小説の映画化。小説の冒頭に物語のイメージを決定付ける挿絵がある。火焔に包まれた家とその中で本を片手に叫ぶ女性。取り囲む群衆と無残に踏み捨てられた本の数々。一人の焚書官の背中が大写しとなっている。ファッショナブルな防護服とモヒカン様のヘルメット。背中には何やら火炎発生器のような四角い装置を背負って、そこから伸びるトカゲの尻尾のようなホースを手に持っている。小説の内容以上に印象に残る絵だ。トリュフォーがこの近未来小説のビジュアルイメージ化を焦点にしてこの映画を製作したことは想像に難くない。焚書官の制服は挿絵や小説の記述イメージそのままだし、部屋の一面を使った巨大なテレビや自動扉付の家もこの近未来小説に沿って造形されている。しかし、小説で描かれるその他の自動機械の映像化は全く無視されており、現代の僕らから観て、あまりにも牧歌的な装置の数々にはちょっと落胆するものがある。大体がブラッドベリ自身、4,5世紀先として描いた自動化イメージが今現在あっさりと凌駕されてしまっているというのも二重の悲劇だ。この映画をSFと呼ぶのが躊躇われるのも致し方ないかもしれない。にもかかわらず、この映画に僕らを惹きつける魅力があると感じるのは何故だろう。小説の中にこういう記述がある。「二十世紀の初期になって、映画が出現した。つづいてラジオ、テレビ、こういった新発明が大衆の心をつかんだ。そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながざるをえない。」元々、ブラッドベリは本と対立するものとしてイメージを規定する装置である映画やテレビを想定しているのだ。トリュフォーはそれにどう答えたか。それがこの映画の中にある。徹底的に簡素化された登場人物たちの演技や印象的な音楽、想像力を喚起するイメージ映像。トリュフォーが敢えてこの小説を映画化した意味を強く感じるのだ。
8点(2004-03-01 00:18:01)(良:1票)
20.  ニュー・シネマ・パラダイス/3時間完全オリジナル版
曖昧な記憶だが、確かに「完全版」と呼ばれるものも観たことがある。が、僕にとっては「完全版」であろうが、「劇場版」であろうが、この名作のモチーフは全く揺るがない。大体、なぜ「完全版」なのか?「劇場版」があまりにも不完全で納得いかなかったが故の再編集なのだろうか。もしかしたら、観やすく編集された「劇場版」に寄せられる賞賛の声が作家の思惑と違うという多少ひねくれた理由によるのかもしれない。でも、この2つのバージョンは、元々が同じ水脈の基で創られたものだし、そこで挿入されるエピソードが全く無駄なものだとはとても思えない。<この辺は鉄腕麗人氏と同じ意見です> にもかかわらず、「劇場版」に対して「完全版」の評価が低いというのは、単にこの映画の真のモチーフを多くの人が捉え損なっているだけなのではないだろうか。僕は、この映画が単に映画ファンを泣かせるだけのノスタルジックな作品だとは全く思わない。「劇場版」のレビューでも書いたが、この作品は、アルフレードという良く言えばナイーブ、悪く言えば偏狂的で自意識が凝り固まってしまった男のこれまた偏狂的な人生を解き明かす謎解き物語なのだ。ラストシーンは正にその謎が解ける瞬間。だからこそ僕はあのシーンに胸を掴まされる。老映写技師と少年の心の交流という美しい物語に見せながら、その実、自意識の罠に嵌り、映画という空虚なリアリティに心を奪われた男と、その謎に囚われ続けながらも正反対の生き方を選んだ男、ある意味で大人になりきれず青春の影に押しつぶされた2人の男たちの哀しい物語なのです。その物語に僕は感動したのだ。作品というのは、如何ようにでも解釈可能なものだから、多くの人が抱いた感想に敢えてケチをつける気持ちは全然ないけど、あまりにも同じような声が聞こえてくるので、ちょっとひとこと言いたくなる。それは、単に僕がひねくれ者だからです。あと、映画はやっぱり完全な形でひとつだけ世に出して欲しい。それがそもそもの混乱の元なのだ。
10点(2003-11-06 02:29:04)(良:2票)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS