1. カッコーの巣の上で
《ネタバレ》 妻投稿■実は民主主義社会に「人を殺してはいけない」というルールは存在しない。「人を殺す」という選択肢を採用していいのである。ただしそれを選ぶと「責任」というものが背中に落っこちてくるが…。■私は何年も前に当時の上司から性的虐待を受けたとき、「暴力の恐怖」と「凌辱」を選ぶ自由を与えられ、「凌辱」を選んだ。従って社会的にも責任的にも、私は「凌辱」というものを自由意思で選んだ事になっている。■この映画は精神病院システムへの非難や管理という業に対する批判を描いているわけではない。むしろ「自由」を描いているのだと思う。主人公は女をはべらせ、お酒を飲み、脱走の機会を作り出した。ロボトミーは「自由選択」に対する「責任」にしか過ぎない。この映画は「自由というものは誰でも行使できるが、自由を行使したうえで尊厳が守られるには、自分の尊厳が守られる事が誰かの得になるような人間にならないといけない」という事実の存在を描きたかったのだと思う。この映画の中でも現実的にも、世間の人間にとって「患者の尊厳が守られる事」より「婦長の措置で患者が統制される事」の方がメリットがある事なのだ。■監督は生まれが東欧で自由というものが当たり前じゃない環境で育った人だ。その影響でアメリカで生活しても「自由」というものがよくわからなかったに違いない。この映画はアメリカおよび西側の民主主義社会を生きる人々に「自由って何ですか」という反響を期待して作ったに違いない。アメリカ英語って疑問文の後「?」がついたりアクセントが上になったりと特異な形になるけど、ラスト真っ暗な中患者の奇声とともに夜の闇に消えて行く特異なシークエンスは、「希望」いう名前の句読点ではなく、明らかに疑問文の最後のクエスチョンだ。となるとこの映画が描きたかったのは「自由」というより「自由?」という事になるが、ラストが疑問文である以上主人公が感情移入出来る存在だったら、純粋な疑問ではなく「確認」「疑念」になってしまう。この映画のキャラ設定は必然だったのだと思う。 [DVD(字幕)] 7点(2011-02-08 21:28:17) |