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1.  2001年宇宙の旅
光の急流が起こるまでは、ほとんどゆっくりした動きが主流。宇宙船は猛スピードで飛んでるのだろうが、背景がないので画面上はゆっくりとした動きに見える。無重力の宇宙船内では、吸着靴のせいで、たどたどしい歩きになる。宇宙空間ではゆっくりとした遊泳になるし、人が走るのは体力保持のランニングぐらい。一番激しい動きは、非常脱出用の爆発で本船へ戻るシーンだろうが、その激しさを宇宙空間の無音が飲み込んでしまう(全体音への配慮が緻密)。死はドラマチックでなく、生命維持装置の直線や、デイジーの歌のスピード低下で表現される。宇宙ステーションの回転に合わせたヨハン・シュトラウスのテンポが、全編に持続している(全体音楽への配慮が効果をあげている映画で、リヒャルト・シュトラウスやリゲティをそこで鳴らすのは考えつきそうだと分かるんだけど、あそこにウィンナ・ワルツを持ってくるのはすこぶる非凡)。この「ゆっくり」で押していった後に光の急流が来る。効果は絶大で、まして本作を初めて見たのはテアトル東京の大画面だったので、脚が攣るぐらい興奮した(ああいう前方への疾走は大画面でより効果が出るよう、『地獄の黙示録』のワルキューレの騎行シーンもテアトル東京で見た最初のときが一番興奮した)。それまでゆっくり慎重に歩んできた「宇宙の旅」が、ここで疾走する。未知のものに立ち会うときの慎重さが、未知のものに呼び込まれていく急流になる。ここでヨーロッパ近世風の部屋になるのが、分からないながら昔はキズに思えたが、彼のほかの映画でもあそこらへんの時代への偏愛が見られ、なにか人類にとって一番いい時代と思ってるのか、それでそこから新人類の誕生を願ってるのか、などと理屈をこじつけてもみた。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-07-27 09:27:41)
2.  日本の夜と霧
50年代の共産党分裂騒ぎで傷ついた男と、60年安保闘争で挫折した女の結婚式、いう設定。その「儀式」の設定は、言葉の空疎さで生きてくる。結婚式スピーチの空疎さが、しばしば中山が語る党の公式見解の空疎さに通じ、そのままラストの「演説」の空疎に雪崩れ込む。真摯な問いかけは硬直した言葉で返され、その果てについに問いを遮断する演説に至る。言葉が溢れ返っている映画だが、その言葉たちは互いの理解に向かうのではなく、壁や塀として臆病に建て回されていく。言葉を封じるための言葉の氾濫。これは日本共産党批判の映画ではあるが、日本の政治風土全般の空疎を射抜いているだろう。上の指令で方針がコロコロ転換し、火炎瓶闘争は歌声運動に代わられる。それに疑問を持たない中山ら「良き前衛」に対する苛立たしさ。しかしもっと苦いことは、ここで批判者として登場する新左翼の若者たちも、60年代後半にはさらに空疎な演説言葉に振り回されていくその後の歴史をも私たちが知ってしまっていることだ。ワンシーンワンカットで、ちょっとしたセリフの詰まりぐらいは無視してずんずん進んでいくカメラ。安保闘争後急速に冷めていく時代に抵抗するような、「これでいいのか」という苛立ちの熱気の高温の中だけで生まれることが出来た、特殊金属のような強度を持つ奇跡の映画だろう。「突き詰める」という一番日本映画が、というか日本人が苦手としていることを、やり通そうとした爽快感がある。
[DVD(邦画)] 8点(2011-03-02 12:28:22)(良:1票)
3.  日本侠客伝
仁侠映画のハシリだが、もう型が出来かけている。ラストが仇役の家でなく作業場ってのがやや踏み外しているほかは、石松的馬鹿役の長門裕之がチョロチョロしたり、大木実と品川隆二の友情が敵味方になるってのは『昭和残侠伝』の原型のようであり、分かりながらも泣きこらえつつ錦之助を送り出す三田佳子とか、すでに安定した型を成している。悪役は「近代」であり政治家や軍に近く、善玉は滅びることを意識している。自分たちをも邪魔ものと認識して、そこにラストの悲壮味が倍加する。『次郎長三国志』ではワッショイワッショイと担ぐ次郎長という元気な親分がいたが、これからの仁侠映画になるとそこが空になる。そこにニヒリズムというかペシミズムが生じる。「最後の親分」は途中で病死するか、悪役に卑怯な形で殺されるかするのだ。しかし何だな、これらの運送業者たちはやがて企業に吸収されていくのは目に見えており、仁侠映画の底にあるのは、近代で切り捨てられたものに対する共感なんだな、あるいはその怨霊鎮めというか。
[映画館(邦画)] 6点(2010-03-03 12:07:30)
4.  日本解放戦線・三里塚の夏
シリーズ第1作。測量を急ぐ公団側と農民・学生との攻防が描かれる。この映画で強く印象されるのは、人々の顔であり手であり、TVのニュースだと共感的であれ批判的であれ無個性の集団となってしまう反対派農民たちが、それぞれ一人の人間として存在していることへの、作者の賛美・驚嘆である。始まってすぐの両者の衝突のエピソード、この映画はその激しくぶつかっている場面ではなく、農民たちの作戦本部をまず捉える。無線機によっていちいち報告される現場の状況、それを私たちは拡げられた手書きの地図を頼りに聞かされ、現場を遠くから想像しなければならない。そしてカメラがしばしば注目するのは農民たちの「手」、膝をいじったりタバコを揉みほぐしたり、落ちつかなげに動いている手である。現場に出て石を投げている手でもなく、もちろん農機具を動かしている手でもない。そういった明確な役割にたどり着けないで所在なげに行き場を失っている手の印象がまずある。そういう手を持った人間がその人ただ一人だけ存在している、という当たり前の事実が驚きのように伝わってくる。映画は「顔」にも執着する。農民たちがしばしば繰り広げる仲間同士の会話、内容は正直言って硬直しすぎて非個性的なアジテーションまがいのことが多い。しかしカメラは顔をアップで捉える。同時録音でないので口と声は合わないのだけれど、そのことがかえって時間が蓄積しているような不思議な効果をあげ、いやおうなく言葉より顔への注意を高めていく。しゃべっている言葉よりしゃべっている人間が強く意識される。農業とは集団主義の世界で、私はついそういう閉じた村社会に否定的な気持ちを持ちがちなのだが、しかしそういう人間関係の中でしか農業という大仕掛けな作業は成り立ち得ないのかも知れず、だとすると都市の人間よりも個人が個人である場面には敏感なのかも知れない。手と顔のこの映画は、それの輝きだけを捉えているわけではなく、手錠が掛けられる手のアップもフィルムに収められているし、機動隊員たちがカメラからそらし続ける顔のアップも、ねちっこく写している。個人が個人であり続けることの危うさも意識しているからこそ、人間の集団の中から立ち現われてくる個人の大きさに作者は心から感嘆できるのではないか。
[映画館(邦画)] 8点(2010-01-17 12:14:25)(良:1票)
5.  日本侠客伝 決斗神田祭り
鶴田浩二の殴り込みがも一つ説得力に欠ける。まあいちおう裁判という筋を通しておいて、さらに健さんに長ドスを持ってもらわなければならないという製作上の要請があるわけだけれども。時代の雰囲気はよく出ていた。滅んでいく火消しの運命と重ね合わせるようにして。新興の工場が見えていたり、一方では深川の遊郭を見せたり。ここらへんのしっとりした風物描写が、仁侠映画のけっこう大事な味わい。気のついたこと。「人生劇場」も3拍子だが、任侠道系の歌ってどうして3拍子になるんだろう? 日本の音楽は基本的に2拍子だ、ってなことを民俗音楽の人が言ってたけど、あるいは朝鮮半島から流れ込んできた系統なのか。任侠道って国粋じゃないのか? 任侠道じゃないけど、日本人好みの世界である「王将」も、堂々と3拍子だ。
[映画館(邦画)] 7点(2009-10-29 12:06:30)
6.  偽大学生 《ネタバレ》 
誰が正義なのか、誰が弱者なのか、誰が被害者なのか、と簡単に割り切れない社会の根を物語の設定に据えるの、初期の大江健三郎はうまかったが、これなんかそう。偽大学生をひとり60年安保時の学生集団に据えることで、権力の対抗者だけではなかった彼らの、特権性・エリート意識・権力志向をえぐっていく。学生たちは、その闘争の目標とするものにどこかで安住しているところがあり、コンパで偽大学生のジェリー藤尾が「学歴なんて関係ないんだ」ってはしゃぐところが皮肉。で仲間に警察のスパイと疑われて監禁される。“進歩的文化人”教授の船越英二も印象深い。偽証による学生たちの保身のあたりが、見ていて一番チリチリと来るところで、正義づらした・弱者づらした加害者たち。集会でジェリーが許しを乞うあたり、若尾文子の発言をエヘラエヘラ流すあたり、現場検証の場で偽学生を見る視線など、見事。
[映画館(邦画)] 8点(2009-01-03 12:13:20)
7.  にっぽん泥棒物語 《ネタバレ》 
泥棒の話が映画で好まれたのは、それが声を出してはいけない状況を伴うからかもしれない。サイレント映画ではとりわけ好まれてたんじゃないか。で、この映画、泥棒が忍び込んでいくと、子どもがフトンからじっと見ているカットになる、お菓子でなだめて帰ろうとすると、もっと頂戴と泣き出す。サイレント映画にでもありそうなコント。でもやっぱり社会派監督だから、松川事件がからんできてコメディに徹してはくれないが、三国連太郎のトボケぶりと、伊藤雄之助検事のネチネチぶりが楽しく、そもそも裁判という厳めしい公の場で、こそ泥の話をしていくその対照が面白い。泥棒というのはなぜ滑稽なのだろう、コソコソしているからか。弁護士が千葉真一だった。室田日出男は当然泥棒の一味だろうと思っていたら、進歩的な新聞記者だった。
[映画館(邦画)] 7点(2008-12-17 12:10:43)
8.  日本の青春 《ネタバレ》 
『壁あつき部屋』や『人間の条件』ともつながる“軍隊の内なる暴力”のテーマを扱っていて、でも60年代後半という、剛直より軟弱へという時代の流れを感じさせるとこが、いま見ると面白い(映画で言えば任侠ものから寅さんへという時期)。武満徹の音楽もフォーク調。藤田まことが軟弱な人間の真率さを演じるが、やや哀感過剰気味、これが60年代末のトーンだ。元上官佐藤慶は、時代がどう移ろうともその時代時代をちゃんと生きているという自負があり、バーの一角での対決が、セリフ劇として見応えがあった。しかしそれがこの映画の限界でもあって、図式が整いすぎて、イメージが膨らむ余地が少ない。主人公が家に帰って終わるってのはどうかなあ。それが、家にしか帰るところがないという絶望や苦みでなく、まだ帰るところがあるというニュアンスでまとめられていた。それでいいのかなあ。奈良岡朋子がカワイイやつになってしまっていたけど、そのカワイさの束縛ってのもあるんじゃないか。
[映画館(邦画)] 7点(2008-10-09 12:14:21)
9.  憎いあンちくしょう
マスコミの寵児北大作と裕次郎本人とがダブる仕掛け。虚像をはいだ本物の裕ちゃんはこうかもしれない、って感じをファンに抱かせる。スター映画もだんだん手が込んでくるのだ。ヒューマニズム・純粋愛と持ち上げようとするテレビディレクターに対し、売名行為と言われても車を飛ばすしかない裕次郎。ただ倦怠と愛の確認のために走ってるってのがいい。これはポンコツジープとジャガーの対比であり、ジミチとハデの対比でもあり、地方と東京の対比でもある。本来ハデの代表であるスターを、ハデにうんざりしてるという役に置くことでカッコよく映った時代、庶民の夢も屈折していたのだ。大阪の人混みのロケや、博多の祭りの賑わいなどの活力描写が生きてる。期せずして62年の日本の道路状況の記録にもなった。主要路もまだけっこうドロンコ道だったのね。道路はその後よくなったが、無医村状況は悪くなったのではないか。裕次郎が鼻歌でスーダラ節をやってたのも、まさに62年。
[映画館(邦画)] 6点(2008-05-27 12:18:59)
10.  日本列島
戦争中の日本の謀略機関が、そのままCIAの手に移って、いろいろ新たな謀略を企んでる、って松本清張史観の世界で、それの当否は私なんかには分からない。ある意味ではプロパガンダ映画だが、予想してたよりも面白かった。これが困る。こういう結論を先走る映画はいけない、と『謀殺下山事件』のレビューに書き込んだばかりなのだ。似たようなこと描いてて、どうしてあっちは悪くてこっちはいいのか、と問い詰められたら逃げられない。言い訳させてもらうと、なんかこっちには作者の言いたいことが沸騰してる勢いがあるんだな。平たく言えば、もっと日本人はしっかりしなくちゃ、ってアピール。映画にとってそれが作られて時代って要素は、けっこう大きいんじゃないか。二つの映画の印象の違いは、それが予定されていた観客の違いにあるみたいなのだ。本作では怒りを観客と共有できる確信があった、『下山事件』ではもう観客はただの見物人としての役割になってしまっていた、そんな違いが画面の緊張度にも出てしまうのではないか。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-14 12:23:26)
11.  日本侠客伝 絶縁状
不思議なもので、明治から昭和の戦前までを舞台にした仁侠映画はもうほとんど歌舞伎のノリで楽しく見られるのに、本作のように戦後になるとどうも引っかかる。健さんの“いいやくざ”なんて戦前だってフィクションだと思うんだけど、そういうウソがある程度時代風俗でごまかせるのか。戦後の“いいやくざ”は、だからかなり抽象化されて感じられる。「やくざだが暴力団じゃねえぜ」って、向こうのほうでもことわりを入れてるし。老親分の伊井友三郎が(いいねえ、このシトは)、抽象化された任侠道の体現者となっているわけだ。ドラマの大枠は戦前も戦後も変わらない。悪いやくざに渡辺文雄がいて、いいもんの脇に菅原謙二がいて、殺され役に藤山寛美がいて、と揃ってる。でもやっぱり素直に楽しめない。テーマにエレキの音が混ざってもいたなあ。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-08 12:21:59)
12.  日本春歌考
これむかし名画座で見たときは、すごく褪色して真赤になったフィルムで、日の丸が普通の赤い日の丸になってたの。雪の中を行く黒い日の丸がどうのこうの、という評を読んでたから、たぶんこうだろうと、想像で色を赤から黒に変換して見たものでした。今回DVDでちゃんと見ました、黒い日の丸。やっぱり想像するのと実際に見るのとでは違います。そしてこの映画のテーマが、どうもそういう想像することと現実との落差みたいなものだったようで、それなら本作を鑑賞するにふさわしい貴重な体験でもありました。吉田日出子・宮本信子のセーラー服・いまや演出家として著名な串田和美の学生服、などが見られるのも貴重な体験であります。
[DVD(邦画)] 6点(2007-11-15 12:16:54)
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