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1.  バリー・リンドン 《ネタバレ》 
よく映画の宣伝で「感動のあまり席を立てませんでした」ってのがあるが、そうそうあるもんじゃない。私の人生では2回だけ。キートンの二本立て(『セブンチャンス』と『蒸気船』)観たとき「もっかいもっかい」と半日映画館から出られなくなったのと、あとこれ。こっちは幸い最終上映で観てたので、掃除のおばさんに追い出されたが、そうでなかったらこっちも映画館から出られなくなったに違いない。人の世の愚かしさとそれゆえの厳粛さを描いて完璧だと思った。一つ一つの画も完璧と言わざるを得ず、観終わった途端にもう一度ひたりたくなった。監督は「ナポレオン」を撮りたかったそうだが、成り上がって没落していく物語としてはもうこれが完成しているのだから、気合いが抜けてしまったのだろう。いちいちの感動シーンについて記すのは面倒なので省く。第三者の眼で語られ、視点は誰にも加担せず、誰も結論めいたことを言わない(ただ文章が出るだけ)。しかしここには地球上に一時期存在した人類という種族の典型が精密に記録された、しかもその愚かな人類はなんと美しい世界を織り成してきたことだろうか。この作品では美が愚かさと必死で拮抗している。母親や家庭教師など、脇役の顔の選択も見事だ。そして音楽。バリーの運命が大きく変わるときに流れ込んでくるヘンデル、それと対になるようなレディ・リンドンのテーマとしてのシューベルト、どちらも的確。完璧という言葉は軽々に使いたくないが、この映画の美にかけた執念には、その言葉を使って褒め称えるより仕方あるまい。
[映画館(字幕)] 10点(2011-06-23 10:04:39)(良:2票)
2.  バルタザールどこへ行く
ラスト、羊の群れがやってきてバルタザールを囲んだあたりで泣けてしまった。今まで荷や水を汲み上げる装置やらに常に囚われ囲われ包み込まれていたロバが、ここで初めて柔らかな羊の毛に包まれる。囚われでなく保護されるように。そして本当の最後、バルタザールの死骸がごろっと転がっているカットになる。キリスト教的には、天上の祝福に対する地上のむくろ、ってことなんだろうが、自由と孤独が壮絶に一体になったようにも見える。ずっと自由を希求していたロバが、孤独によってそれを得た、って。全編を貫いていた「生きることの苛酷さ」がここで救われた、というのとも違う、ある種の納得というか、心構えというか、一つ高い認識に至った気がする。監督のスタイルが一番素直に感銘に至った作品でした。
[映画館(字幕)] 9点(2013-01-06 10:11:56)
3.  廃市
蛍、昼の月、水藻などのアワアワした世界が広がっている。作中の言葉を使えば「道楽」の世界。「本来の仕事を忘れてそれ以外のことにふけり楽しむ」ときの心のゆとりというか、合いの手を入れるオルゴールの音や花火の音が、それこそ「道楽」の雰囲気でした。ハッと気を取り直すようで、またそこに没入していってしまう。自分は愛されていないと思いたがっている人たちの物語で、愛されるのが怖いというか、他人の心をおもんぱかることの傲慢さを自ら封じてしまってるというか、みんなの思いがそれぞれ孤立して、流れ出さず淀んでいる町。頽廃への傾倒、意志のなさ、行為に対する不信、というより面倒くささか。舟で見る歌舞伎の遠景のシーンの、古い記憶のような懐かしさ。全体のトーンからすると、ちょっとクサいところはあって、根岸季衣が顔をピクピクしたり、ラストの三郎君の叫びとかありますけど、それらが目立つほど全体のトーンはいいの。ラストの「列車の窓から」を除いて風景が広がらないのもいい。もう二度とこの夏を繰り返すことができない取り返しのつかなさが、大林監督のモチーフだな。
[映画館(邦画)] 9点(2012-12-17 09:58:16)(良:1票)
4.  バンド・ワゴン(1953)
エンタテイメントの決意表明のような映画で、芸が芸術より優位にあるという宣言。ミュージカル映画というジャンルが煮詰まってきてて、次の手が難しくなっていた時期だ。実際、翌年の『略奪された七人の花嫁』あたりから別の方向を探り出し、その延長線上にロバート・ワイズのミュージカルが出てくる。本作が、一番ミュージカル映画が無理なくイキイキ出来た時代の、最後に生まれた傑作だろう。行き止まりは覚悟の上で、あえて踏みとどまった者の栄誉が輝いている。自分をコケにしかねない役柄をこなし、その路線に殉じるような姿勢を見せたアステアが立派。冒頭で落ち目を強調し(顔を隠して登場するのは『トップ・ハット』で新聞で顔隠して登場したのの回想)、しかし靴を磨くことによって活力を取り戻す段取りに、希代のタップダンサーへの敬意が感じられる。そもそもこの映画全編が彼への敬意で貫かれていて、自虐ネタの痛々しさなど感じさせない。ラストの「ザッツ・エンタテイメント」はエンタテイメント讃歌であるが、同時にアステアへの敬意と感謝のセレモニーであり、ウキウキさせることに眼目があった前半での同ナンバーと違い、ここでは儀式の改まった感じが伴っている。表彰されるものを中心に主要メンバーがただ立っている記念写真のような構図に泣かされる。そして全編に渡ってダンスの素晴らしさ。ハードボイルドパロディの洒落っ気にはニコニコさせられ(ただギャングどもが酒場に入っていくオットセイ歩きのあたりは、モダンダンスとして純粋に興奮する)、あと夜の公園のダンスの優美なこと。並んで歩いていたのがごく自然にクルリと回るともうダンスに入っている。カメラも近づいたり離れたりしながら一緒に踊っているような動き。そしてそのダンスからまたごく自然に馬車に乗り込む動作につながって、馬車が動き出す。ダンスの練習をしたとリアリズムで捉える次元から、二人の恋の発生を表現したと捉える次元までが、重層的に畳み込まれていて、映画における表現の豊かさとはこういうものでなければならない、とつくづく思わされる。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-13 10:20:54)(良:2票)
5.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2
本作は未来篇ということになっているが、実質上のお楽しみは後半のダンスパーティで、一作目のややこしいパーティにさらにもう一本ストーリーを絡めたギュウ詰めのおかしさがたまらない。私はここが本シリーズで一番楽しんだところ。両親の若かりしころを現代の息子が眺めるというパーティだったのを、さらにもう一つの視点から見ていくその視線の絡まり具合がハンパでない。父がビフを車で殴りだしているのをマーティが窓越しに目撃する、とか(だからこれは1の記憶がまだしっかりしているうちに見るのが正しく、公開時もひとつピンと来なかったのは仕方がない)。時間と空間を飛び回っているようでいて、同一場所・同一家族(先祖・子孫)・同一脇メンバー、からはみ出さない「一座の芝居」という決まりを守っているのも良い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-01-11 09:39:54)(良:2票)
6.  バック・トゥ・ザ・フューチャー
笑いの中心は85年と55年の時代差によるもので、スラングの変遷なんかはアメリカ人ほどストレートに笑えないのがもどかしい。救命胴衣とかレーガンならOKだが。現代と過去とで同じモチーフが繰り返されることの面白さは(主に両親に関して)生きている。叔父さんが檻に入っているところまで。そういう言葉で説明できる笑いを軸に、ぐんぐん押していったコメディだ。その「ぐんぐん」のリズム感のよさが、20世紀末の明るさだろう。母親が恋心を抱いてしまい慌てる面白さは、ちょっと間違うと粘ついてしまいかねない微妙な危うさを含んでいるのに、こういうところをきれいにクリアできるのがアメリカ映画の良さ。つまりそれを承知で笑いの種に出来るのが、アメリカだと言い換えてもいい。最後に天気が崩れてきてクライマックスへ盛り上げていくうまさも、(これはあの時代に限らないが)アメリカが一番得意としている気がする。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-01-10 10:14:45)
7.  ハンガリアン狂詩曲
アンゲロプロスの最近の映画はセレモニー中継みたいになってるな、という不満を持ったことがある。そのときちょっと思い出したのがこのヤンチョーで、セレモニーのような世界でもとても魅力的に撮る監督はいたぞ、と。ヤンチョーで見られたのは二本だけで、それもそれぞれ一回きりの観賞なので、とにかくもう一度確認したい作家の最右翼だ。広い野で、ハンガリー民族史が展開する(いちおう第一次世界大戦の時代の物語があるらしいが理解不能)。展開してるのはあくまでセレモニーの「ような」世界であって、オリンピックの開会式の退屈な出し物とは根本的に違っていたと思う。だからもう一度見てみたい。歴史を、因果を通した山あり谷ありのドラマにはせず、ギリギリの瞬間の連続として、過去の結果でも未来へ向けての伏線でもない、その時その時の連続として構成させてたのではないか(抽象的な言い方になってしまうけど)。やたら広い野に整列した人々、馬、なぜか裸の女性たち(『密告の砦』でも出てきた)、それらの中をカメラが長回しで漂っていく。アンゲロプロスだと、カメラは何を見るか確固とした意志を持っているのに対し、こちらはうろうろ眺め回してる感じ。そのかわり、すべてが「この見える範囲内で起こっている」。“悪い奴は見えないところにいて、その一握りの悪のためにこの民族は不幸になったんだ”という、よく邦画で見られるような逃げを封じてしまっている。野にいるすべての人物が平等に歴史に加担し責任を負っている、そんな印象を持った。だいたい自国の民族史を描くとなると可憐な被害者の視点になるものだ。まして常に強大国に翻弄されてきたあの民族なら、その資格は十分あるのに、逃げない厳しい視線が感じられた。もう一度確認したい。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-29 10:03:18)
8.  ハリーの災難
実に礼儀正しい死体なんだな。一番日常の対極にあると思われているものが、美しい田園風景の中にあることのおかしさ。しかも誰もびっくりしないの。絵描きがスケッチに描き込んでから気づくユーモア、船長のいろいろな独白も面白かった。とにかく語り口のうまさね。みながシャベル持ってぞろぞろ歩いている楽しさ。あるいはオールドミスが告白すると決意する中に含まれている“自分だって男に襲われるのよ”と公言したい気持ちの微妙さ。そして無駄のなさ。靴を盗んでいった浮浪者も、気づかぬ医者もちゃんと役立つ。開いてしまうドア、子どもの言い間違い、まで。ここまで丁寧だと窮屈に感じそうなのに、そこがイギリス生まれの人の根っからの体質なのか、品の良さなのか。
[映画館(字幕)] 8点(2013-03-04 09:47:29)(良:1票)
9.  話の話
ソ連末期の映画人って、映画史上一番デリケートな人たちって気がする。ハッキリ言えないからこうなるのか、ハッキリ言えないことがもう習性になり、こういう世界を作るの専門になってしまったのか。ノスタルジアの世界。牛が縄跳びをする、永遠に失われた世界。戦争があってタンゴの場から男たちが狩り出され、ある者は不具になって帰ってくる、ある者は帰らない。そしてもう一度あの懐かしい世界へ狐が忍んでいく。赤ん坊に時代を越える何かを託しているよう。それらがデリケートにデリケートに綴られていく。風に吹かれるテーブルクロスの美しいこと。雪の中に落ち続ける梨。
[映画館(字幕)] 8点(2013-01-10 10:00:36)
10.  母(1926)
ソ連のプロパガンダ映画ではある。資本家は悪人だし、裁判は腐敗しており、労働者たちは前向き。しかしこの母と父の描き方によって、公式性から抜け出し、映画の質を高めていたと思う。旧世代に属するこの母親、新しいことを大それたことと思ってしまう人。ツァーの威光を素朴に信じているだけでなく、どんな時代のどんな母親にも通じる普遍性を持っている。父親も、前向きの労働者たちより存在感が濃い。これから批判していく存在を、決して小さく描かず、正確にスケッチする。実際、虐げられているからと言って、みなが労働戦線に参加するわけではないのだ。うまく資本家側に使われてしまう者たちもたくさんいたわけで、そういう者たちを単純に「裏切りもの」と批判して片づけてしまう粗雑さを戒める基準が、作者側にあった。酒場のシーンが素晴らしい。臭いやうるささまで、無声映画で巧みに表現されていた。ここにはもう立ち上がる気力さえ失せた労働者たちがたむろしているわけで、戦う人々よりリアリティがある。そしてけっきょくロシア文学が優れていたのは、その部分ではなかったか。自然を描くショットが美しい、雪解けのモンタージュはややくどかったが。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-14 09:56:43)
11.  博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか 《ネタバレ》 
これはキューブリックの最後の白黒映画で、その後カラーの世界でも美しさを極めていくが、光と影の洗練は本作が頂点だろう。とりわけ将軍がらみのシーンで、狂っていく男をとりまく環境の冷ややかさが素晴らしい。暗がりよりも光(おもに蛍光灯)が冷ややかなのが特徴。カラーの世界でも狂っていく男や狂っていくコンピューターを光のもとに描いていくが、白黒の本作が一番ひんやり感じる。外では基地での攻防が、実際の戦闘のドキュメントのような迫真で展開していて、ならばこっちは熱いのかと言うと、車両が燃え上がっているにもかかわらず、トップの狂気が原因の同士撃ちという理由をこちらが知っているせいか、冷笑とまでは言わないがどこか冷めた気持ちで見てしまっている。作戦会議室がひんやりする広さを持っているし、爆撃機の外にはロシアの寒冷地の光景が飛び過ぎていく。この冷たさが畳み込まれた結果、高熱の爆弾が炸裂し続けるのだが、このまぶしい光景すら蛍光灯の光のように冷えびえと迫ってくるのは、自分が地下シェルターに逃げ込める側の人間ではなく、間違いなく取り残される側の人間だからだ。ストレンジラヴ博士にナチの影を与えているのが、話を狭くしているようで昔は不満だったが、ナチの選民思想が当時の核保有国に受け継がれている、ということを言いたかったんだろう。それがこの長い題名の意味するところでもあった。この副題の構文は現在でも有効だな。ちょっと変えて「日本人は如何にして心配するのを止めて原子力を愛するようになったか」と綴れば、深く考えずただ流されていったこの国の戦後史になる。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-05-29 09:48:15)(良:1票)
12.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
山田洋次の陰影のあるメロドラマとして異色。でも心理の細やかさが間違いなく山田さんのもの。たとえばハナ肇に襲われかけたシーン、「どうして助けてくれなかったの?」「…親しい方かと思ったもので」なんてあたりで、「外部の人」として振舞わなければならない高倉健の位置を確認している。それが「もう他人と思ってないわ」に至るまでの細かい揺れが、メロドラマの醍醐味でしょう。最後の晩に健さんがドアを叩き、開けた倍賞のやっと時が来たという表情、ところが女心の分からぬ健さんに「牛の様子がおかしいんです」と言われて若干の自嘲と諦めを浮かべ、そして酪農家の顔になって作業着に着替えるあたり、ここらへん味わいの頂点です。男にとっての逃げ場所が、女が根付こうとしている場所だった、そのズレが最後まで重ならなかったというメロドラマ。二人とも二年前に連れあいを亡くしているという共通点も遠くから響いている。ハナ肇の使い方がすごく丁寧。まず「悪役」として登場させ、しかしそれだけでは退場させず、かつての馬鹿シリーズを思わせる「気のいい男」になり、そしてラストでは「取り持ち」として現われるなど、おいしい役どころだった。メロドラマとしての希望を描いたラストで、酪農業のほうは廃屋になっており、現実の厳しさを一つ打ち込んでいる。女手一つでは難しいと言う以前に、もう日本の小規模酪農業自体が困難になっていた。健さんはかつても「時代遅れ」の任侠一家をしばしば背負っていたが、ここでも時代遅れの滅んでいく側に加担したわけだ。一人で酪農を続けていた倍賞は、仁侠映画に出てくるイイモンの一家の老親分をほうふつとさせる。時代に乗っていたのは、たとえば健さんの妻を死に追い込んだ金貸し。裁判で出たその名前は「松野八郎」。当時はすぐにロッキード事件がらみの松野頼三、海部八郎の名前を思い浮かべられたものだった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-08 10:04:37)
13.  蜂蜜 《ネタバレ》 
どもる少年というとタルコフスキーの『鏡』が思い出され、そのせいか後の展開でも、タルコフスキーの空気をベースに感じていたみたい(テーブルにミルクのコップが置かれていると、静かに振動しだすんじゃないか、と思ってしまったり…)。どんな文化圏でも、ああいう過度に目を凝らさずにはいられない映画が生まれているってのは嬉しいことだ。目だけでなく耳も澄まさなければならない。最後のタイトルのとこでは、読めない言語の国のでは倍速にしてしまうこともあるのだが、今回はずっと耳を澄ましながら森の音に聞き入っていた。鳥や虫の声、風が葉を揺するささやき、遠雷、そして遠くの枝のしぜんに折れる音、それらを縫って少年の息が聞こえている(たぶん)。これはこの映画のエンディングとして完璧な装置で、作品後半で湧き上がった興奮をゆっくり沈澱させてくれているような心地よさがあった。トルコの生活にうとい私は作品にちりばめられているあれこれの寓意をほとんど理解できていないだろうが(ミルクと蜂蜜はイスラム教と関係がありそう)、そんなことはどうでもよくなる。一つ一つのカットの光と影に、意味以前の陶酔が備わっている。どもる少年もただ弱者なだけではない。宿題のノートを隣の子と交換してしまうずるさも持ち、褒美のバッジを貰えば嬉しがる普通の子どもだ。父の不在の不安を、電気を点けたり消したりするいたずらでまぎらしている普通の子どもだ。その子が父の死をこれから受け入れていく前に、しばし森の自然のどもらない音の中に逃げ込んでいる、というラストと見たが(肩をかすめて飛ぶ鳥!)、そこに聖なるものが包み込むように感じられてくるのが素晴らしい。
[DVD(字幕)] 8点(2012-03-03 12:29:16)
14.  ハウスシッター/結婚願望 《ネタバレ》 
「日本ではコケる二大コメディアンの初共演」といった宣伝コピーを見た記憶があるのだが、しかしそこまで自虐的な宣伝するだろうか、夢だったのかもしれん。観たら面白かった。詐欺師もののバリエーション。失恋したての男S・マーチンの家に、勝手に妻としてG・ホーンが上がりこんでしまう。女が周囲に振りまいていく嘘がどんどん二人の関係を固めていってしまうあたりが見どころ。男はその場しのぎで嘘に付き合ったり、あるいは計略を立てて嘘を利用しようとしたりもするんだけど、けっきょくその嘘をより真実めかしていってしまう。嘘に嘘を重ねていくスリルと爽快さが一人歩きしてしまう。話の都合で生み出した架空の恋仇ブーマー氏が次第にリアルな存在感を持ってきたり、社長の戦友まで捏造していくことになる。二人で編み出す架空の来歴が、次第に細部まで生き生きしてくるあたりの勢いが見事。意味深な「暗い秘密」が誕生したり、急遽マウイに旅行したことになったりと、どんどん過去がドラマチックに華やいでくるおかしみ。一番笑ったのは男デービスが彼自身の知らない感動のエピソードの再現を要請されて、何らかの感涙的なストーリーを背景にした気分で「アイルランドの子守歌」を万感込めて歌うシーン。このおかしさはかなりのものだった。こういう話の場合女はどこかかわいくなければならない。彼女本質的な詐欺師だったわけではなく、よく解釈すれば退屈な日常をよりドラマチックに盛り立ててやろうと思いやってしまう性質の女なわけ。本来の男の恋人となんとか取り持ってやろうとするんだけど、彼女自身男に魅かれてしまっており、ここらへんからは彼女のいじらしさの見せ場。ささいなことだけど、中華料理を買ってくるシーンがある。中華料理は二人で捏造した「恋愛時代」のエピソードに登場した小道具で、二人の嘘が真実になっていくところをさりげなく見せている丁寧な場面。こういった丁寧さが、後味の良さにつながっている。だが映画はコケた。
[映画館(字幕)] 8点(2012-02-06 10:24:32)
15.  花嫁の父 《ネタバレ》 
結婚式に至るまでの小ネタでつなげただけの家庭喜劇なんだけど、大らかな味わいが残る。やってることは伊丹映画と同じような視点なのに、この大らかさがどこから来るのか。時代がいいのか、特殊なもの・ユニークなものをピンセットでつまむように排除してある、その徹底ぶりか。WASPの社交世界の上澄みだけを、きれいに掬い取っている。そういうとこで現在からはいくらでも批判は出来るだろうが、コメディとしての充実ぶりには文句が言えない。恋人はあれかこれかと親父が想像していくあたりからすぐに引き込まれ、初めてバックリー君を窓越しに眺めて「あちゃー」となる展開。「妻が浮かれとる」などモノローグも的確。以後も調子が崩れず、バージンロードを巡る悪夢を抱きながら、娘には“頼り甲斐”を見せなければならない「父はつらいよ」の一幕もいいし、娘の晴れ姿を追いかけて混雑する家の中を駆け巡るあたりの滑稽な・しかし父の情愛の香り立つ描写まで、見惚れてしまった。いかにも平均的な家庭像を作ったのだろうが、母親がJ・ベネットなのね。たまたま私が知ってる映画がそうなだけかも知れないけど、あの人「妖婦」の印象が強かったので、この人でいいの? と思ってしまった。見てる分には気にならなかったけど。ああそうか、E・テイラーって別に妖婦役者ではなかったが、ちょっと突付けばあっさり淫蕩の側に転がるのではないかという気配を、上品さの中に秘めていた(私生活とは関係なく)。かえって普通の人を演じているときに、その裏にある妖しさで魅力を出した女優だった。ここで母子を演じたときにJ・ベネットの遺伝子を受け継いでしまったのではないか。映画ではそういう非科学的な遺伝がときに起こるのではないか。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-01-05 10:32:51)
16.  パッション・ダモーレ 《ネタバレ》 
うーん、物語ですなあ。こういうのはいいなあ。決闘の後で、主人公がヒロインの発作を伝染されるところは、感動した。これアメリカだったら、二枚目の災難に絞った徹底した喜劇にするだろうし、日本だったら「オカメでも心は素直」という人情噺にするだろうし、フランスだったら心の機微をシャレて描くだろう。そもそも良識ある普通の国ではブスの映画で本物のブスは登場させず、ホッペタにそばかすを散らせばブスと思って見て下さいという映画上の約束事に則って描いていくものだ。でもここはイタリア、残酷なる凝視の国、ブスをリアリズムで描く。醜いだけでなく、そのひがみ根性というのか、優しい言葉をかけられるのを期待して自己批判したりするヤな女を、白日のもとに描いていく。男も、同情や憐れみから愛になったってんじゃなく、ほんと嫌ってたんだけど、運命というのか、心のこだわりの感情もある程度まで進むと結局「愛」と違いがなくなってしまうってことなのか。嫌な女だなあ、と観客に思わせといて、そして実際そうなのだけど、でもそんな彼女にも30年の孤独があったわけで、それを思えば、男一人の一生を台無しにしたけど幸せな最期だったのかも知れず、そしてそういう巡り合わせは、もう幸せ・不幸せという基準以外のとこで主人公の男にも何らかの納得を与えていたんだろう。人生ってこんなもんかも知れんなあ。おーこわ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-05-05 12:18:57)
17.  パルチザン前史
これが公開されたときは、上映が終わった公会堂の出口で公安が観客の顔を一人一人写してた、って話を聞いてたので、私が観たのはもう全共闘運動などとっくに終わった時期だったにもかかわらず、いささか緊張した。場所も「不動産会館」という聞いたこともない建物の地下の狭い一室で、なにか非合法の集会に参加しているようなトキメキを覚えた(「ぴあ」の自主上映の欄に堂々と載ってたのを見て来たんだけど)。そういう環境で火炎瓶の作り方なんか見てると、ちょっと「それらしい」気分になってくる。ナレーションはなく、必要最小限の字幕ですます。質問しそれに答えるという形式のインタビューがなく、自由に仲間うちの会話と同じ調子でしゃべらせる。あらたまらせない。演説はよく聞き取れないし、仲間うちの会話も聞き取れないことが多く、言葉はこの映画ではいっさい無視していいだろう。言葉の内容よりも、その語り口を映画は記録していく。ヘリコプターの音や、夜に聞こえてくるパイプの中を流れる水の音、機動隊の楯のカチャカチャいう音などと同列の、声も音としての記録素材。言葉の勢いに逆に振り回されているようなその空回りぶり、あるいはしゃべっては中断しを繰り返すその逡巡ぶり。路上での解放区設営が一つのヤマ場で、野次馬的興奮に駆られるが、中立に撮ろうとしている報道陣をも撮ってしまう視線がいい。ドラム缶相手の武闘訓練のときの、照れ笑いしている顔も撮っている。当時は極左映画というレッテルで観られた作品だが、おそらく現在でも記録としての価値はかなり高いだろうし、映像の緊張は素晴らしい。描かれる対象である京大全共闘の滝田修は、やたら「明確な」という言葉を繰り返し、軽薄なものをこれ観たときも感じたものだが、小熊英二の「1968」によると、当時「ガスを爆発させたら普通の人も死にます、しゃーないやないかそんなもん」などと無責任に威勢のいい発言をしていたが、のちに出版した「滝田修解体」では「過激な言辞でエエカッコしたかった」と簡単に自己批判している情けない男なのであった。フィルムはその軽薄さまでキッチリ記録していたわけだ。(と、あの時代の主役の一人永田洋子死亡のニュースの直後に本レビューを記すのも感慨無量である。)
[映画館(邦画)] 8点(2011-02-08 09:21:10)
18.  果しなき欲望 《ネタバレ》 
上と下の緊張。二階の渡辺美佐子と下の階で二階を気にしている男ども。あるいは画面そのものが上と下を同時に捉え、上で近所づきあいのやりとりしてて、下で西村晃や小沢昭一が穴開いたガス管で苦しんでるカット。あるいは上を行くトラックと、下で穴の崩れを支えている連中。表面の日常のなにごともなさと、下での汗水たらした欲望の渦巻き。今村の世界を象徴するような二分割カットが秀逸。川縁での長門裕之のデートと、下に潜む男たちってのもあった。独特のコッテリしたユーモアになっている。加藤武の脚や小沢昭一の手なども、グロテスクな笑いを誘う。独立志向の中原早苗は今村ヒロインの原型のようで、やがて『豚と軍艦』の吉村実子につながるキャラクター(もっとも体型的には『赤い殺意』の春川ますみにつながり、原作は同じ藤原審爾だ。ついでに言っとくと、この藤原さんて、あと『秋津温泉』とか『泥だらけの純情』とか『馬鹿まるだし』とか『ある殺し屋』とか、60年代を代表するユニークな映画に原作を提供していて、気になる作家。藤真利子のお父さん)。欲望渦巻くさまを喜劇として捉え、渡辺美佐子の描きかたなど、非難せず、どちらかというとそのバイタリティにただただ感嘆しているよう。緊迫した瞬間に入る門づけのチリーンの音が、絶妙。
[映画館(邦画)] 8点(2010-04-28 12:05:35)(良:1票)
19.  パリのランデブー 《ネタバレ》 
常に二人の人がいて、でラストでは一人になる、という話が3つ。それを街角のシャンソンがつなぐ。第1話は、ヒロインと恋人・ヒロインと告げ口する男友だち・ヒロインと友人・ヒロインの一人での悩みのシーンが挟まって、ヒロインと歯痛男・ヒロインと財布を拾った女・そして過剰な3人の場がヤマになって、その緊張のために3人は散り散りになり、最後は一人の歯痛男で断ち切る。この無駄のなさ、良くできたコントの味。結局ほとんどの登場人物の心に傷がつくんだけど、そのゆえに喜劇になってるんだなあ。人の心が傷つかない喜劇なんてないのかも知れない。第3話の、運命の一目惚れも楽しい。その女性に聞こえるように、どうでもいい連れに美術館で解説するあたりの涙ぐましさ。またこの彼女、アトリエにまで来てお話までしてくれる。罪作りな女。でも別にからかってるって訳じゃなく、そこにこの男も魅かれてるんだろうけど。そう悪くない一日だった、と最後に男は言うんだ。大げさに言えばこういう一日があるから人生も楽しい、って気持ちになる。うまくいってるカップルってのは、この映画一つも登場しない。
[映画館(字幕)] 8点(2010-01-02 10:29:58)
20.  ハワーズ・エンド
大雑把に言うと英国の上・中・下の階級が繰り広げていくドラマ。「下」というとちょっと極端な表現になってしまい、銀行に勤めている普通の勤労者階級だが、一応このドラマの中では「下」の位置に置かせてもらう。そこで面白いのは、普通だとこの「上」と「下」が対立するでしょ、滅びゆく上流階級と勃興する労働者階級って感じで。ところがここでは対立しない。「下」が、「上」を引っ繰り返すような力をまるで持っていないデリケートな弱々しい青年で現われてくる。労働歌を歌うより、花畑の中を散策しながら詩を口ずさむ手合いなの。この世ならぬものへの憧れに生きている彼は、上流階級のヴァネッサ・レッドグレイヴと対になっているような存在。本来なら対立すべき「上」と「下」が現実に背を向ける地点で寄り添い出してしまい、ドラマの軸を統制するのは「中」の役割りになる。夢見る「上」と「下」に挟まれて、「中」は現実を生きていく。しかしこれが「生きざま」などという語感からは程遠い「いい感じ」のもので、この映画はそのいい感じの味わいに尽きると言ってもいい。「上」と「下」との仕切り役に自分の役割りを定め、控え目にも過ぎず出しゃばりもせず、天真爛漫でありながら周囲に気配りも十分という、おそらくイギリスの長い社交の伝統が培ってきた中流階級の美点が、エマ・トンプソンに結実している。上流階級の洗練も英国の自慢だろうが、こういう愛すべき人物を育てた中流階級も自慢させてほしい、という感じ。ここには対立のドラマのダイナミズムはないが、そのかわり一点から緩く渦を巻き、そしてそれぞれの居どころへ静かに落ち着いていく上品な舞踏のような味わいがある。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-10 12:09:48)(良:2票)
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