1. 僕たちは世界を変えることができない。 But, we wanna build a school in Cambodia.
《ネタバレ》 アカルイミライな現代の「僕たち」がカンボジアの子供達の為に学校を建てようと奮闘する姿を捉えた半分ドキュメンタリーっぽい青春映画。なかなか面白く観ることができた。満ち足りない大学生活の中で何かをしたい。そうだ!カンボジアに学校を建てよう!その為の資金をパーティによって集めよう!動機は単純で、発想は唐突である。彼らは募金だけではなく、実際にカンボジアという国を知る為に視察(ロケ)にも行く。そこで、カンボジアが長期の内戦によって辿った悲惨な歴史、クメール・ルージュによる70万~300万人と言われる大虐殺の実態、戦争の負の遺産(地雷原やHIVの蔓延など)によって今でも苦しめられている人々の姿を知る。 そこには、ベトナム戦争を背景にアメリカと北ベトナムの対立を軸としたカンボジア内戦の経緯があり、共産主義政党クメール・ルージュの台頭と中国の介入、毛沢東主義者ポル・ポトが行った大虐殺の実態がある。(都市居住者、技術者、知識人が財産をはく奪、農村で強制労働させられ、最後には処刑される。映画『キリング・フィールド』に詳しい) その後、ベトナム軍介入によるポル・ポト政権の崩壊と中越戦争による中国の敗退を経て、今度はソ連を後ろ盾としたベトナム軍による支配が続くことになる。80年代後半から、ベトナムの開放路線による駐留軍の撤退があり、東西冷戦の瓦解と共にようやく内戦が終結する。今、ネットで検索すれば、その辺りのことを調べるのにさほど時間はかからない。 実話をベースにした映画である。実際の主人公たちは、その後も継続して学校の維持やボランティアに関わっているという。素晴らしいことである。映画自体はかなり軽い作りになっているし、最後の『青空』は自己満足的ですごく違和感があったけれど、結局のところ、この物語は、若者達が自己実現とか、自分探しなどという幻想からボランティアを始めつつ、自立や自助が難しい世界の実態を知ることで、共生・共存、公共の意識に目覚めるという至極真っ当なお話であると僕には感じられた。というか、そう信じたい。実際、その動機が主人公たちとカンボジアの人々との間に築かれた人間関係所以であるのは事実だが、そもそも、それが世界というものの基本だと僕は思う。 [DVD(邦画)] 8点(2012-07-16 10:39:01) |
2. 亡国のイージス
ガンダム世代によるガンダム的戦争小説。これが僕の原作評価である。戦争がテクノロジーとメカニックにより支えられたシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)であるのと同時に、そこで一瞬にして消え去る生命に対して、その大量死を否定し、生のリアリティを確かめずにはいられない、ある意味で非戦場的な感情劇こそが現代の戦争小説なのである。それがある種のヒューマニティとテロルの論理との葛藤によって支えられる安直な思想劇であること。イデオロギーや理想に支えられる世界という観念、革命という精神の観念劇は物語の浮間に露ほども顔を見せず、行動は私怨により支えられる復讐劇であって、全ては各個人の生きる意味と意志に還元される。これは良くも悪くも我々の世代の戦争観であり、現実である。つまり戦争が絶対的外圧として描ききれない、平和な時代の無精神な戦争観こそがこの戦争冒険ノベルズの核なのである。「これが戦争だ」という台詞に漂う不可思議で不明瞭な違和感、それはマンガ的な非現実感であると同時に湾岸戦争から9.11に至る現代の戦争で僕らが感じた現実感そのものでもあるのだ。 とはいえ、僕が原作をなかなか面白く読了したのは、自身もガンダム世代だからだろうか。原作者がガンダムから戦争を学んだという言説を僕らはリアリティをもって受け止めることができるのだ。 さて、映画であるが、まずこの映画化に際して注目すべきは、監督が阪本順治であることだろう。阪本順治と言えばやはり『トカレフ』である。あの奇妙な人間闘争劇、剥き出しの個人が放つ乾ききった殺意や愛憎は、この監督ならではの現代感覚であった。この妙にウェットな戦争大作を阪本がどう料理し、映像化するか、興味はその一点に尽きるとも言えたのである。 結果から言えば、この監督の味わいは完全に原作に飲み込まれてしまったというのが僕の感想である。この映画の中に『トカレフ』の「あの」主人公たちはいない。原作への忠実さにダイハード的な冒険色を前面にうち出した映像はなかなか見ごたえがあり、そういう意味では、原作の冗長さを的確に纏めた上手い映画だと思う。役者達の演技も素晴らしかった。それだけに、もっと乾いた視線で登場人物たちの人間性を抉り取り、僕らに切実なる違和を投げつけてもらいたかったというのが正直なところでもある。それだけの力量を持つ監督だけに少し残念であった。 [映画館(字幕)] 8点(2005-08-27 08:23:41)(良:1票) |
3. ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。 8点(2004-09-04 00:32:33) |
4. ホテル・ニューハンプシャー
「ホテルニューハンプシャー」とは喪失の物語である。家族、或いは父親が真っ当な存在としてのあり方を模索しながらも、結局はそれが永遠に失われてしまったことが語られているのだ。熊とは正にその真っ当さの象徴だったのではないか。この物語の中で、本物の熊が冒頭で殺されてしまうのは、家族としての真っ当さの死を象徴しているのだろう。そして、擬似の熊はその喪失の代替的な役割を担っており、彼らが常に失われたものへの快復を切実に求めていることの証しなのである。父親はその失われたものを快復しようとホテルニューハンプシャーの経営を始めるが、家族はそれぞれに不具を抱えており、さらに新たな喪失にも見舞われてしまう。彼らは、それでも家族としての或いは生きていくことの真っ当さを求めることを諦めず、喪失感の中で彷徨<その象徴がウィーンであろう>し続けるが、結局のところ、彼らは何処に辿りついたのだろうか。もちろん何処にも辿りつかない。村上春樹の小説「回転木馬のデッドヒート」の有名なプロローグは、その現代的な喪失感を的確に表現している。「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。」 この映画<或いは小説>は、僕らにこう考えることを教えてくれる。それは一種の方法論として。それでも、僕らは意志し、生きていく。それしかないのだと。 10点(2004-02-28 23:35:06) |
5. 暴走機関車
この映画全編に漂う切迫感には、ある種のノスタルジックな感傷を伴う。確かに演出にはこれといって特徴的なところもなく、凡庸といっていいのかもしれない。しかし、僕はこの作品に昨今の災害系のアクション映画にはない悲壮な意志を感じた。それは切実なるヒューマンな意志なのである。暴走機関車が雪原を爆走するラストは、とても絶望的に映るかもしれない。しかし、この作品に通底するヒューマンな意志を感じる限り、それは同時にこの世界に微かに光るポジティブな一本の道筋を指し示しているように思えるのである。僕には確かにそう思えた。だから僕はこの映画が好きなのだ。 8点(2004-02-09 01:47:34) |
6. 火垂るの墓(1988)
この物語は、戦争で死んでいったであろう多くの少年少女達の名も無き史実を、美しくも残酷な童話に仮託した一種の鎮魂歌と見るべきでしょう。だから僕らは、この物語にもっと素直に感動していいと思う。戦争という現実は、語りえる以上に悲惨なものだし、僕らがそのすべてを知ることはできない。戦争とは、歴史であるとともに、歴史の喪失でもあるのですから。世に様々な戦争を描いた物語<戦場、戦後含めて>がありますが、本来そこには戦争に関わった人々の数だけのナラティブがあり、その多くは既に失われているということを僕らは知るべきなのでしょう。そういう意味で、この「火垂るの墓」という作品は、その美しさも残酷さも含めて、失われた物語の小さな灯火として見るのが正しい姿だと思うのです。戦争映画にも様々な視点があり、様々な表現がある。しかし、僕らはそれらの作品によって、現実の一端を想起することができるだけなのです。そのことを忘れてはならないと思う。 8点(2003-12-29 20:00:17)(良:6票) |