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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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181.  日本列島
戦争中の日本の謀略機関が、そのままCIAの手に移って、いろいろ新たな謀略を企んでる、って松本清張史観の世界で、それの当否は私なんかには分からない。ある意味ではプロパガンダ映画だが、予想してたよりも面白かった。これが困る。こういう結論を先走る映画はいけない、と『謀殺下山事件』のレビューに書き込んだばかりなのだ。似たようなこと描いてて、どうしてあっちは悪くてこっちはいいのか、と問い詰められたら逃げられない。言い訳させてもらうと、なんかこっちには作者の言いたいことが沸騰してる勢いがあるんだな。平たく言えば、もっと日本人はしっかりしなくちゃ、ってアピール。映画にとってそれが作られて時代って要素は、けっこう大きいんじゃないか。二つの映画の印象の違いは、それが予定されていた観客の違いにあるみたいなのだ。本作では怒りを観客と共有できる確信があった、『下山事件』ではもう観客はただの見物人としての役割になってしまっていた、そんな違いが画面の緊張度にも出てしまうのではないか。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-14 12:23:26)
182.  日本侠客伝 絶縁状
不思議なもので、明治から昭和の戦前までを舞台にした仁侠映画はもうほとんど歌舞伎のノリで楽しく見られるのに、本作のように戦後になるとどうも引っかかる。健さんの“いいやくざ”なんて戦前だってフィクションだと思うんだけど、そういうウソがある程度時代風俗でごまかせるのか。戦後の“いいやくざ”は、だからかなり抽象化されて感じられる。「やくざだが暴力団じゃねえぜ」って、向こうのほうでもことわりを入れてるし。老親分の伊井友三郎が(いいねえ、このシトは)、抽象化された任侠道の体現者となっているわけだ。ドラマの大枠は戦前も戦後も変わらない。悪いやくざに渡辺文雄がいて、いいもんの脇に菅原謙二がいて、殺され役に藤山寛美がいて、と揃ってる。でもやっぱり素直に楽しめない。テーマにエレキの音が混ざってもいたなあ。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-08 12:21:59)
183.  殺し(1962) 《ネタバレ》 
原作はパゾリーニで、たしかにチンピラやごろつき、兵士たちなど社会の底辺の鬱屈が次々と描かれていくあたりに、その気配がある。でも空間の捉えかたに、アントニオーニを一番感じた。広場や造成中の土地のガラーンとしているウツロな広がりの感覚。映っているものよりも、それが抱えている空虚のほうが印象に残る風景。いやいや、これはアントニオーニの影響というより、ベルトルッチの個性かもしれないぞ。後年、紫禁城にあれだけ人を詰めても、広場のウツロさが際立っていたもの。間違いなく彼の個性なのは、ダンス好き。女二人のダンスシーンがもうあり、ラストもダンス会場での逮捕となる。共同脚本のうち、ダンスのある部分は監督本人だろうと勝手に推測する。
[地上波(字幕)] 6点(2008-03-02 12:20:53)
184.  香華
木下恵介における母は、親としての母よりも、家族の軸としての母としてより重要だった。「二十四の瞳」の生徒と女先生もそのヴァリエーションだったわけ。でも本作では、あくまで娘と母との関係が中心。家なしでやっていこうとした娘(岡田茉莉子)と母(乙羽信子)との葛藤の話。家族の軸になろうなんてこれっぽっちも思っていない母をめぐって、家という枠から脱した一代記ものドラマがドロドロと展開するところが、木下としてはかなり異色作である。家から浮いてしまった女性だから、あれまで墓に固執したということで、家のモチーフは底に潜んではいるのだけれど。
[映画館(邦画)] 6点(2008-02-06 12:16:44)
185.  ガートルード
昔、日本語字幕なし・あらすじの配布なし、という厳しい条件下で鑑賞した。この人の映画はいつもそうだけど、照明がまだらで、室内なのに木洩れ日の下にいるような奇妙な世界になる。人物は闇の中から立ち現われ、闇の中へ消えていく。幽明の世界とでも言うんでしょうか。そのなかで登場人物たちはなかなか目を合わせない。向かい合ったときは切り返しになって、同一画面の中では向かい合わない。一人が一人を見てると、見られているほうは正面を向いていることが多い。なんか小津みたいだが、ぜんぜん質感が違い、環太平洋の温帯と北欧の空気の差か、こちらははるかに冷たい。終わりのほう、実際は向かい合っていても、女のほうが鏡に映っているために、画面では二人が並んでいる格好になる。それぞれが相手を背景にしてしまい、孤立してる感じ。なにせ言葉が分からないので、そんなことばかり見てましたっけ。
[映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2008-01-30 12:17:56)
186.  越後つついし親不知
みんなでクヨクヨする映画。貧しい風土をなんとか変えていこう、ってよりは、みんなでクヨクヨしてるんだなあ、という感慨にひたることで満ち足りてしまう国民性。菜の花畑、子守りをしているときの立ち木、など回想シーンが美しいのも邦画の特徴。今しか知らない人は信じられないかもしれないけど、佐久間良子ってすごくかわいかったの、昔。石橋蓮司がセーター着た青年で登場してきたときに、場内にざわめきが起こったことを記憶している。資料によるとこれが石橋の映画デビューらしい。同じ今井監督の「にごりえ」で子役で登場し、やはり場内にざわめきを生じさせたような記憶もうっすらとあるのだが、これはあまり自信がない。
[映画館(邦画)] 6点(2008-01-21 12:11:02)
187.  無理心中 日本の夏
この映画の大島モチーフとしては「通り魔」がひとつあるけど、もひとつ「西洋人に対する日本人」てのもある。大島作品に登場する西洋人は、しばしば弱者の形をとって現われる。「飼育」と「戦場のメリークリスマス」では、捕虜だった。黒船以来、西洋に対してコンプレックスを抱き続けてきた日本人の前に、西洋人が弱者として置かれたときの日本人のとまどい、みたいなものが描かれた。遠巻きに眺めたり、かえって居丈高になったり、どうも普通にコミュニケーションがとれない。まあそれは西洋人に限らず、大島にとってのもう一つの重要な外国、朝鮮半島の人々に対してもそうなのだけど。で、この映画のアメリカ人通り魔をどう捉えればいいのか。社会からあぶれていた日本人連中が、日本人を殺してきた通り魔にすり寄っていく心理、どうもこのすり寄りは強者の殺人鬼に対してというより、警察に追いつめられた弱者ゆえのようなのだ。ここらへんの屈折がうまく生きて、強者と弱者が立場を入れ替えながら作る輪がもっと大きく広げられたら、この映画、重要な作品になったかもしれない。暑い夏の夜の熱気に包まれた戸田重昌のセットが重厚、田村正和が美少年で笑える。
[映画館(邦画)] 6点(2008-01-17 12:23:54)
188.  戦争は終った
スペインとフランスの距離、現場の視点と現場から離れたところでの視点のずれ、みたいなこと。反フランコ闘争の現場であるスペインでは、ゼネストが不発に終わるだろうことは見えている。しかし現場から離れたフランスの亡命者たちには、理想が先行しちゃっているのでそれが分からない。現場との距離に抽象化が正比例してしまう。このギャップは仕方のないことなのか、克服する手はあるのか、いう問いかけを感じた。それは学生たちの過激主義にも通じていく問題。取るべき行動を封じられると、ただ理想を純化していくしかないのか。これは60年代の熱い問いだったが、たとえばいま現在のイスラム世界で生々しく立ち上がっている問いでもあろう。
[映画館(字幕)] 6点(2008-01-15 12:18:14)
189.  新宿泥棒日記
いま大島作品で一番再見したい気分が高まっている映画。60年代後半の新宿の風俗をドキュメンタリー的に見なおしたいって気持ちも多分にある。時代を離れて批評するのではなく、時代とともに一度流されてみようとした映画だから、こう時がたってこそ、タイムカプセルを開けて見るような意義が生まれてくるフィルムかもしれない。一番記憶に残っているのは、夜の紀伊国屋のシーン、本を買えない女店員(?)の抑えられていた望みなのか、読みたい本の多数の「声」たちが、じわじわと滲み出し重なってきて、夜の書店のなかにこだましていくところ。この監督、ムッツリと俺は硬派だって顔していながら、けっこうリリシズムを不意に溢れさせるところがあって、そこが私は好きだ。唐十郎がかわいい。
[映画館(邦画)] 6点(2008-01-13 12:22:44)
190.  天草四郎時貞
佐藤慶は、横からの光で陰影が出てこそ生きる顔。白黒映画向き。いっぽう大川橋蔵は、こうこうとしたライトの下でこそ映える顔。カラー映画向き。この白黒映画は、主演俳優にとっても監督にとってもつらい組み合わせだったんじゃないか。でもまったくつまらないかというと、そうでもなく、革命論としてああだこうだ思考している部分は濃い。ラストで「日本の夜と霧」を小さくしたようなディスカッションシーンがある。みんなの心が一つの意志で固まり同じ目的に進むというような、革命の機が熟するとき、ってのは永遠に来ないのではないか、という問題が提示される。分裂と離反を繰り返してこそ革新的であり続けられるのだとしたら、革新的であることが革命を向こうへ向こうへと押しやっているのではないか、というパラドックスがある。急進派と慎重派を両極とした幅広い団結は可能か、そのような団結に意義はあるのか、といった問題にもなってくる。そういう面倒くさいことは映画でなく本でやってくれ、という意見もあろうが(おそらく大川橋蔵もそう思っただろうが)、60年代とはこういう時代だったのだ。「日本の夜と霧」から「白昼の通り魔」へとつながる革命崩壊三部作とでも呼ぼうか。
[映画館(邦画)] 6点(2008-01-05 12:23:39)
191.  雨の午後の降霊祭 《ネタバレ》 
強い妻と弱い夫の話と思わせておいて、ここからがネタバレの核心ですが、実は妻の弱点を包み込んでいる夫の愛がラストで明らかになる、ってところがポイントの話だったと思う。大昔に見た映画で、白黒ならではのしっとりした質感は思い出せるのだが、あとは不確か。いま日記の記述をひもといてみると、「妻への一途な愛・献身」とか「絶望的な企てに加担していく悲劇」とか「愚行ゆえの神々しさ」などと記されている。「妻の死を願うまでに思いつめているのにズルズル犯行を続けていくあたりのアッテンボローの演技が見もの」だそうだ。「アーサーのイメージがも一つ弱いのが、スリラーとしてみたときに弱点になる」そうだけど、このアーサーってのが何なのか思い出せない。死んだせがれの霊だったか。無責任な書き込みで申し訳ない。レビューなしの作品で見たことある映画だと、つい埋めたくなってしまうもので。
[映画館(字幕)] 6点(2008-01-04 12:21:34)
192.  人も歩けば
若水ヤエ子はもっと評価されていいのではないか。なんとなくズーズー弁で笑いをとるだけの二流どころの印象だった。岡本喜八の「結婚のすべて」だったと思うが、結婚相談所員の役で出てきたときの演技がなかなかでオッと思ったことがあり、本作でも、金持ちふうの着物でとがった眼鏡かけ、探偵金田一小五郎につきまとう役で、むっつりすればするほどおかしい。この人はズーズー弁より、眉間にシワよせた不機嫌顔で笑いをとっていたのだ。この名前もしかして、水谷八重子のもじりだったのかな。
[映画館(邦画)] 6点(2007-12-07 12:22:53)
193.  日本春歌考
これむかし名画座で見たときは、すごく褪色して真赤になったフィルムで、日の丸が普通の赤い日の丸になってたの。雪の中を行く黒い日の丸がどうのこうの、という評を読んでたから、たぶんこうだろうと、想像で色を赤から黒に変換して見たものでした。今回DVDでちゃんと見ました、黒い日の丸。やっぱり想像するのと実際に見るのとでは違います。そしてこの映画のテーマが、どうもそういう想像することと現実との落差みたいなものだったようで、それなら本作を鑑賞するにふさわしい貴重な体験でもありました。吉田日出子・宮本信子のセーラー服・いまや演出家として著名な串田和美の学生服、などが見られるのも貴重な体験であります。
[DVD(邦画)] 6点(2007-11-15 12:16:54)
194.  恋と涙の太陽
主人公はヘリコプター操縦士の橋幸夫、古風な漢方薬店のせがれ。家に対しては革新的な立場から文句を言っているが、女医倍賞千恵子と見合いをする段になると「女だてらに」の保守派になる。この翌年に作られた日活の『夢は夜ひらく』では横浜ドリームランドが登場したが、本作は富士急ハイランド。大型レジャー施設が客を集めようとし始めた時期だった。妹が早瀬久美(新人の但し書きつき)、芸者が山東昭子で三枚目役。恋のライバルに香山美子、これが漢方薬に通じる古風な日本舞踊の世界の人。樹海の中のわざわざ開けたところで倒れていて橋に発見される。待田京介がチョロチョロ出る悪党。味わいとしては橋がホテルで香山と話し合っていたとき突如歌いだす瞬間のときめき。出来ることならバックの楽団なりコーラスなりが慌てて登場してきて欲しかった。
[映画館(邦画)] 5点(2013-11-26 09:45:32)
195.  眠狂四郎 女地獄 《ネタバレ》 
伊藤雄之助の竹光浪人がいい。自分の腕だけに自信を持ち、大きく吹っかけて売り込もうとしている。真刀を持たねばならなくなったとき、三両の刀を買う。「お侍さんならこの十両のが」と刀剣屋の亭主に言われても、七両ぶんは腕で補う、と言う。狂四郎と対決し刀を合わせるとポロッと折れ、三両は三両か、憮然と呟く。最後は竹光で狂四郎と向かい合う破れかぶれのどうしようもなさが、雄之助の真骨頂で、浪人の身分のやりきれなさが迫って本作唯一の見どころ。あと脇役は田村高広や水谷良重、お家乗っ取りの悪役が小沢栄太郎に安部徹と盛りだくさんなのだが、かえって焦点が散ってしまって、さらに刺客登場の前にいちいち女人が現われて狂四郎にしなだれかかってくるのが、最後は馬鹿馬鹿しくなり、大きな失点。あの馬鹿馬鹿しさを「これでいいのだ」と認められる心の広さがあったら、本シリーズの良い観客になれそうなのだが(60年代末のエロっぽいサイケな空気は味わえた)。狂四郎のキャラクターと時代劇の大枠とがしっくり合わないのがこのシリーズのつらいところで、親思いのお姫様という大枠の設定(お家の存続)を否定し切れてない。狂四郎のキャラクターは、木枯し紋次郎につながっていったのだろうか。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2013-11-15 09:33:05)
196.  眠狂四郎 炎情剣
安部徹と西村晃がひそひそ話し合ってれば、もう時代劇定番の情景、慈善の相談には見えない。しかもその悪い奴らは裏切りあっている世界でもある。目新しさはなくとも、時代劇の情景としてしっくりくる。西村晃の顔を見ているだけで嬉しくなれる。なのに、権力の被害者や善人が出る場面になると、こそばゆいと言うか、思わず顔を背けたくなるほど恥ずかしい。中原早苗と姿美千子(中原さんも当時はこっちの側の人間だったんですね)。ここらへんが緩いので、いくら狂四郎がニヒルぶっても、シャープさに欠けてしまう。土下座して助けを懇願する下人を見捨てたクールさも、ぬるくなってしまう。烏の群れが飛び立つ図柄の襖絵とか、にわかの面をつけたままの襲撃者とか、美術や小道具は凝ってるのに。チャンバラもぬるめで、撮影許可得るまでに面倒な申請書が必要そうな寺の回廊使っているが、そこ狭くて活劇には窮屈そう。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2013-10-19 09:23:24)
197.  宇宙大怪獣ドゴラ 《ネタバレ》 
宝石ギャングにかなりの比重がかかっているのが、子どものときは不満だった記憶がある。建物を壊すところ目当ての子どもには、橋だけってのは厳しい。でも怪獣・怪物・怪人に悪漢が絡むのは東宝ではごく自然なことであり、ギャングどもがみな(若林映子も含め)揃ってサングラスをかけている愛嬌を、子どもは味わい切れなかったのである。ダンディな悪漢天本英世がよい。権威の博士は中村伸郎だった。選択的に酔っ払いだけが浮いたり、悪漢が浮き上がったりするのは、けっきょくよく分からなかったが、石炭を吸い上げる場には、怪獣映画としての面白味があった。このころは火力発電所以外でも都市部で石炭が積まれている場所があったんだ。蜂の毒が弱点てのにエセ科学的なこじつけが欲しいところ。哀しいのは、映画で「宇宙大怪獣」と名乗ったのは、このドゴラとギララの覇気のない二匹(ニ頭?)だけだったらしい。
[DVD(邦画)] 5点(2013-09-18 09:42:59)(良:1票)
198.  勇気ある追跡 《ネタバレ》 
J・ウェインの西部劇ってんで漠然と想像してたよりもっと後の作品で、おじいさんになっていた。リメイクを見てたんだから分かりそうなものだったのに。映画全体がもう来たる70年代の気分を醸している。小屋で怪我してた小悪党はD・ホッパーで、『イージー・ライダー』と本作と完成はどちらが先だったんだろう。悪党はR・デュヴァルだし、マティやった娘は次に『いちご白書』の活動家の女学生になる(年長者に口答えする本作のイメージからつながる)。なんせアポロ月着陸の年、ベトナム反戦と学園紛争の年で、ウェインは過去の人になりつつあった。あるいはなっていた。そういう時代を背景に思って見ると、この映画の挽歌的味わいが深まる。ロケが荒野ではなく、冬へ向かう大自然で美しい。映画そのものはリメイクを先に見てしまったせいもあるか、スカスカ感があり十分に楽しめなかったが、最後にダゲット弁護士が姿を見せるあたり、アメリカ映画シナリオ術の手堅さは残っていた。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2013-05-19 09:28:06)
199.  美しさと哀しみと(1965)
人間に厚みが感じられないのは、川端作品を監督なりに無機質的に捉えようとしたってことか。日本的な湿り気を除いて(原作読んでないけど、もともと川端作品ってそれほど湿ってないな)、モダンに再生させようとしたら、ただ薄っぺらになっちゃった、って感じ。要になる作家が単なる俗物にしか見えず、音子さんの嫉妬が馬鹿馬鹿しいものになってしまう。それが狙いなのかな。息子の山本圭なんか、ほんとただの馬鹿扱いで可哀想なくらい。おそらく加賀まりこの静と動の対照が見どころの中心だと思うが、周りがこれだからあんまり生きてこない。こういうドラマはみな視野が狭い登場人物ばかりだから、その狭い内輪を一つの宇宙に感じさせなくちゃならないのに、そうなってないから、みんなウジウジしてるだけになっちゃう。そうやって全体を批評しているわけでもなく中途半端。長回しの多用(女二人の会話)や超望遠(橋の上の会話)などあり。カラーフィルムは褪色しちゃうとどうしようもなく濁る。
[映画館(邦画)] 5点(2013-04-17 09:36:48)
200.  遥か群衆を離れて(1967)
ポランスキーの『テス』に心ふるわせた人間なんで、同じトマス・ハーディ原作、同じ堂々とした上映時間ってのに期待して見たら、ただ長いだけだった。原作知らないんで、罪がハーディにあるのか脚本にあるのか分からないけど、登場する人物がキチンと像を結んでくれない。とりわけヒロイン、パキパキしたはりきり娘かと思うと、アレーッと淑女のように気絶したり、隣人にバレンタインカード送るいたずらしといて、でも言い寄られると「困るわ」って言う無責任ぶり、そのことを映画は非難しているようにも見えない。してたのかな。偶然の皮肉がこの世を動かしていくってのが「テス」の根本思想だったが、出世作らしい本作でも、このいたずらや結婚式場間違えたりが、ドラマを動かしていた。そこらへんハーディのドラマとして筋は通っている。女中ファニーの物語は「テス」の原形のようでもある。T・スタンプが「テス」のアレックだ。ちゃらんぽらん男とクソ真面目男に挟まれたヒロインの物語として、本作は『テス』と同じ構造になっている。ただテスでは男によって女が不幸にされたが、こっちは女が周囲の男に不幸を撒き散らしていた。これが映画化された60年代ってのは女性の地位向上が叫ばれており、原作読まずに勝手に想像するのだが、ストーリーの「小娘が農場主をやる」って部分を拡大して脚色しイビツになったのではないか。浜辺の祭の場なんかは面白かった。それにしてもこの題名は何を言ってるんだ?
[CS・衛星(字幕)] 5点(2012-12-19 10:23:31)
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