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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

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21.  J・エドガー 《ネタバレ》 
自分の自叙伝を口述筆記させる冒頭に始まって、この映画は、FBI長官だったエドガー自身が語る歴史的な「事実」と、彼が決して語ろうとしなかった人生の「真実」とを合わせて描き出す。たぶん脚本家としては、この20世紀アメリカを代表する人物のひとりの、その“虚実”の皮膜をこそ浮き彫りにしたかったんだろう。そんな「事実」の“嘘”をそれこそ露悪的なまでに暴き立て、「真実」の“醜悪さ”を白日のもとにさらすことで、「J・エドガー」という人物の〈実像〉に迫り得るのだと。  けれどイーストウッドは、主人公の、そこにある虚や実などほとんど関心がないかのようなのだ。エドガーによるFBI創立や発展にいたる「事実」も、母親の抑圧的な愛情ゆえの複雑な内面や、かたくなに認めまいとしたホモセクシュアルな性向という「真実」も、ただ映像において“等価[フラット]”なものとして見せてしまう。その結果、ひとりの人物像を通して現代アメリカ史を物語る叙事的な「歴史映画」としても、偶像視された人物像のその特異な人間性を追った「伝記映画」としても、どこか曖昧な印象を与えることになったのは否めないだろう。  そう、いつの世でも精いっぱいの虚勢をはって生きざるを得なかった主人公の生きざま、その卑小な生を、映画は否定も肯定もせず、ただそのものとして映し出す。だがそれにより、観客はいつしかそんな“みじめさ”こそがこの男にとって生の所与であり、ひとつの過酷な「運命」、あるいは絶望というかたちでしかあがらえない「原罪」であることに思い至るだろう。その時、エドガーもまた極めて「イーストウッド的」な人物に他ならないのだと。  その上で、前作の『ヒア アフター』がそうであったように、イーストウッドはここでも「救済」を用意する。それは、生涯にわたって彼を支え続けその死後も彼を守り抜いた個人秘書ヘレンと、副長官クライドという2人の“守護天使(!)”の存在だ。とりわけクライドとのそれは、男同士の“老いらくの恋”という以上に穏やかさと慰安に満ちたものとして、とりわけ感動的だ。なるほど、エドガーの人生は哀れでみじめなものだった。が、そのラストに流されたクライドの涙と、ヘレンのとった行動によって、その最期の最期で「救われる」のだーー彼はじゅうぶんこの世界で「愛されていた」のだ、と。・・・この映画が用意したその“優しさ”の、何と美しく感動的なことだろう。
[映画館(字幕)] 10点(2012-04-28 13:34:56)(良:3票)
22.  戦火の馬 《ネタバレ》 
ジョン・フォードやハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュをはじめとした伝説的監督たちは、何もただ傑作・名作を創り続けてきたから偉いのではない。彼らは、“「(アメリカ)映画」はかくあるべし”という《規範》を、その作品によって指し示し“体現”してきた。それゆえに「巨匠」と呼ばれるのである。  その《規範》とは、言葉にすればとてもシンプルなものだ。それは空に浮かぶ雲、風にそよぐ草原の広がり、柵を取り囲む人々の佇まい、ぬかるむ大地に降りしきる雨、見つめあう眼差し、それがふと伏せられる瞬間の表情・・・そういったものたちを、ただフィルムに写し取り、映し出そうとするだけのことなのである。しかし、その“単純[シンプル]さ”こそが、彼らの作品にあっては奇跡のような美しさを産み出すのだ。いや、端的にそれはひとつの「奇跡」以外の何物でもない。  そしてスピルバーグがここでやろうとしたことは、間違いなく、そんな往年の巨匠たちと“同じように映画を撮る”ことだった。彼らのように、空を、草原を、雨を、丘の一本道を、走る馬たちを、どこまでもシンプルにフィルムに映し出すこと。それは、現代にあってなお映画がひとつの「奇跡」たり得るかという問いであり、挑戦だといっていい。なぜなら、もはやほとんどの「アメリカ映画」が、そういう「単純な美しさ」からはるかに隔たった場所に“在る”からだ。 今日にあってフォードやウォルシュのように映画を撮ろうとすることは、ほとんど困難な「不可能事」なのである。  けれど例えば、フランスの少女が主人公の馬に乗って草原の丘の稜線に消えていく場面や、負傷して目が見えない青年が愛馬と戦場で再会する場面などに、ぼくという観客は「ああ、フォードだ!」と感歎し、思わず涙する。まさしくそれらは、そういった「奇跡」をまのあたりにする瞬間に他ならなかったからだ。スピルバーグはあえてそんな無謀さに挑戦し、すべてに成功しているわけではないけれど(・・・馬にヒロイックな擬人化風の心理描写(!)を施したりもする本作に、往年の『名犬リン・ティン・ティン』シリーズのような「アナクロニズム」を指摘するのは簡単だろう)、 この作品で「(アメリカ)映画」を真に継承してみせた。そう、これが本当の意味での「A級映画」なのである。
[映画館(字幕)] 9点(2012-03-29 16:07:02)(良:3票)
23.  ヒア・マイ・ソング
まるで期待せずに何となく見て、それが大当たりだったときの喜び。映画ファンの至福とは、こういう時をいうんじゃないかな。そして、この映画こそそういった至福の作品ではないでしょうか。クライマックスのスラプスティックな大騒ぎも大好きだけど、伝説の歌手を探してアイルランドの田舎を主人公が右往左往するあたりの、不思議な詩情ときたらもう絶品! ピ-タ-・チェルソム監督、これ一発で生涯付いていこうと心にきめました。本当は10点満点でもいいんだけど、他のレビューでも連発してるんで、ここはグッとこらえて… 《追記》相当昔に書いたコメントだけど、我ながらなんで点数出し惜しみしているのかワカラン(笑)。もう随分と再見していないけれど、あまりの多幸感にナミダが出てきたほどだったあの時の心もちは、今も鮮明に憶えている。ネッド・ビーティ生涯のハマリ役と、デイヴィッド・マッカラムの晩年の雄姿と、タラ・フィッツジェラルド嬢のキュートさ(と、惜しげもなく披露してくれたオッパイの記憶)ともども、あらためて満点献上です!
[映画館(字幕)] 10点(2011-12-29 15:05:35)
24.  BALLAD 名もなき恋のうた 《ネタバレ》 
映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。   この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。  この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。  もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。  というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・
[映画館(邦画)] 9点(2011-09-03 13:25:05)(良:4票)
25.  地獄の女スーパーコップ<OV> 《ネタバレ》 
先ほど、『小さな恋のメロディ』のコメントを書いてたら、この映画のことを思い出した(理由は・・・問わないでください・笑)。正直なところ、確かに見事なくらいツマラナイ映画なんだけれど、同じトレーシー・ローズ主演=チャールズ・T・カンガニス監督のコンビによる『クライム・To・ダイ』なんかも見るにつけ、ちょっとした興趣をそそられなくもない。というのも、本作にしろ『クライム~』にしろ、とにかく“男”がどこまでも貶められ、唾棄され、挙げ句の果てに惨めな最期を迎えることで共通しているのだ。  この映画では、ローズ嬢が演じるタフな女刑事(には全然見えないけれど、おちょぼ口をトンがらせて精いっぱいタフぶってます。愛おしいです)をめぐって男ふたりがさやあてを繰り広げるのだけれど、いずれもが終盤あっさりと殺されてしまう! その唐突さは、ドラマの意外性を狙ったというより、どこか“男性憎悪(!)”めいた異様さを感じさせるんである(そのあたりは、もう1本の『クライム・To・ダイ』でさらに過激かつ徹底して表面化している)。そこに、元ハードコア・ポルノ女優であるローズ嬢と、同じくポルノ映画監督だったカンガニスにおける一種の“意趣返し”を見てとることはできないだろうか。  女性を商品(=モノ)化し「消費」することで成立するハードコア・ポルノ出身の女優と監督のコンビが、今度は男どもを単なる「消耗品」扱いする映画を撮る。そのことに、彼らは間違いなく自覚的だ。それはまるで、ご立派ぶっているものの、ひと皮むけば同じような“女性嫌い[ミソジニー]”な社会的伝統を暗に通底させた「アメリカ映画」への、最底辺からの皮肉であり批判であり嘲笑とすら思えなくもない。オマエらの撮る映画にしても、オレたちと結局同じじゃないか、と。そう考える時、この単なるC級アクション映画は、過激な「フェミニズム的」作品とも、メジャー作品への痛烈なアンチテーゼとも見えてくるだろう。  ・・・と、かつてトレーシー・ローズを愛した者としては、無理やりでも理屈をこねまわして、本作を前に感涙にむせぶのであります(笑)。   (点数はあくまでも個人的な思い入れゆえのものです。念の為。)  《追記》 とは言え、やはり「8」はないかな・・・と1日たって反省&自粛し、泣く泣く「5」ということで。スミマセン!
[ビデオ(字幕)] 5点(2011-07-23 18:08:18)
26.  ゲド戦記 《ネタバレ》 
映画がはじまってまもなく、信望厚い「偉大な王」が、息子である王子に刺される。王子は魔法で鍛えられたという剣を奪い、そのまま逃走してしまう。その後、王が死んだのかどうかは分からない。けれど、父王を刺した王子の年齢が、「17歳」であることを観客は知らされる・・・。  この、「父親殺し」と「17歳」という設定にこそ、監督・脚本の宮崎吾朗はおのれの“すべて”を賭けたのだな、と思う。誰からも尊敬される父親を持つ17歳の少年が、その父親を殺す。そして彼は、彼自身の心の闇から現れる「もうひとりの自分」の“影”におびえ、逃げ続けるという展開がたとえ原作にあったとしても(ちなみに、ぼくは未読です)、それは、この映画の作り手にとってはるかに切実な意味を持っているに違いない。もちろんそこに、宮崎駿という「偉大な父」を、その息子である吾朗監督が「殺す」というエディプス的な〈家族の物語〉を見出すことは簡単だろう。彼ら父子がいったいどういう「関係」だの「葛藤」を抱えてきたのか、それがこの作品にどういう“影”を落としているのかを推察するのも、興味深いのかもしれない。  が、この映画が本当にめざそうとしたのは、なぜ「17歳」の少年が「父親」を殺したか、なぜ「17歳」の少年は自分の“影”におびえ逃げ続けるのか、なぜ「17歳」の少年は命の価値を省みないのか・・・を、自らに問い、懸命に答えようとすることだったんじゃないだろうか。少なくとも吾朗監督は、その“自問自答”を、それだけをただ繰り返す。物語よりも、展開の妙よりも、「面白さ」よりも、その問いかけこそがこの映画の「すべて」なのだ、と言わんばかりに。  そこに、とりあえずの「答え」は可能でも、本質的な「答え」は不可能だろう。それは作り手たちにも自覚されていたはずだ。だから、“とりあえず”のかたちでしか終わり得なかった本作は、明らかに破綻しているし、「失敗」している。しかし、その“問い”の真摯さは、間違いなく本作の主人公の、そしてたぶん「宮崎吾朗」という作り手の抱える“心の闇”を共有する「17歳」たち(もちろんそれは、実際に17歳であるかどうかということでなく)の、心の最も深い場所に届くものだ・・・とぼくは信じる。その意味でこそ、ぼくはこの映画を断固支持したく思うのだ。  ・・・そう、「面白い」以上に大事なことが、映画にも、人生にも、きっとある。
[試写会(邦画)] 10点(2011-07-23 18:06:18)(良:13票)
27.  もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 《ネタバレ》 
前田敦子サンの熱狂的ファンらしい長男の強い要望で、ノコノコ家族3人見に行ったものの、正直まるで期待していませんでした。で、そのように“期待値”が低かった(ゴメンナサイ・・・)せいか、これがなかなかの面白さ! 何より、ヒロインの名前からの連想かもしれないけれど、あだち充の『タッチ』をどこか想わせてくれたのが、小生の世代には懐かしいというか、“胸キュン(死語)”ものでありました。たぶんそれは、よけいな恋愛エピソードや、超人的な選手たちのありえない大活躍といった展開をからませず、(あだち充の野球マンガがまさにそうだったように)等身大の「高校野球」と「高校生たちの心情」を描こうとしている、その“清潔感”ゆえにではないでしょうか。  たとえば、俊足の選手が出塁した時、一歩ずつリードするその歩調に合わせてスタンドの応援団たちが、「イチ、ニ、サン・・・!」と声を揃える。そこに実現されているのは、確かに高校野球の試合で行われていそうな応援風景であり、この映画を見ているわれわれ観客をも熱くさせるリアルな高揚感だ。あるいは、ヒロインの幼なじみであるキャッチャーの、彼女に対する思いやりと内なる“想い”のひかえめな表現ぶりの好ましさ。それは、心臓を病んで入院している女子マネージャーとエースピッチャーの語らいの場面にあっても、いくらでも濃いというか暑苦しい展開になりそうなところを、ただ2人がボールを投げ交わすだけで終わらせるあたりにもハッキリと表れている。でも、それだからこそよりいっそう深く伝わってくるものがあるのだ。  ・・・熱血よりも、熱愛よりも、そういったひかえめさや不器用さ、けれどひたむきでまっすぐな“想い”こそが、「高校野球」にはふさわしい。そういった意味でこれは、アイドル・タレントによるベストセラーの映画化という安直な企画モノではない(あ、でも前田敦子嬢は実に魅力的にヒロインを演じています。長男の目に狂いはなかった・笑)、真に「高校野球映画」と呼びうる作品になっている。そんな少なくとも作り手の“誠実さ”こそを、大いに評価したいです。  あと個人的には、あの素晴らしい『半分の月がのぼる空』の池松壮亮クンと大泉洋が、ここでも好演しているのも高得点。・・・おおっ、実はこの映画を大好きなのかも、オレ(笑)
[映画館(邦画)] 7点(2011-06-10 12:57:49)(良:1票)
28.  雨月物語 《ネタバレ》 
映画を見ていて、「どうしてここでカットが変わるんだろう」とか、「何でこのポジションからの構図なんだろう」などと思う時がある。もちろんぼくは映画を撮ったこともない、ただの観客だ。けれど、この場面ならロングショットで見たかったな、とか、ここはぜひこの女優のクローズアップを見せてほしかった! という、たぶんに勝手な物言いもまた、「映画を見る」者にとっての権利ではあるまいか。 もっといえば、こっちが思いもかけない画面を見せてくれた瞬間から、その作品に惚れ込み、心底から評価したくなるのである。  この、「世界のミゾグチ」の代表作の1本を最初に見たのは随分と昔だけれど、見る前はいささか気負っていたのが、見終わってまず思ったのは「めちゃくちゃ面白い!」ということだった。それまでにも、それ以後にも見た他の溝口作品と比べても、この映画は単純に「面白さ」において際立っている。何よりそれは、ここに実現されているのが、天才的というより職人的な部分において「完璧」な映画づくりだということに他ならない。  ・・・映画の終盤近く、森雅之の主人公はようやくわが家へと帰る。妻の名前を呼びながら人気のない家の様子をうかがう夫をカメラは追い、もう一度戸口へとパンした時、さっきまで火の気のなかった囲炉裏に火が入り、そこには田中絹代扮する妻が煮物を炊いているのだ。この場面をワンカットで実現してみせたその技巧は、確かに驚くべきものがある。けれど、それはあくまで、すでにこの世の者ではない妻を描くという「物語」の要請ゆえに実現されたワンシーンワンカットなのである。  その他においても、溝口作品に対して誰もが口にする流麗な移動撮影の長回しというより、この場面を描くならこれしかあるまいと誰もが納得する映像(=ショット)をムダなく編集していく鮮やかさはどうだ。だからこそ、この映画が100分足らずの極めて簡潔な(「B級映画的な」と言いかえてもいい)上映時間におさまったというべきだろう。  『雨月物語』は、溝口健二監督が何より優れた職人的技量をもった「物語映画」の担い手であることを、どの作品にもまして雄弁に告げるものだ。実際、映画の歴史上これほど「面白い」作品も、世界中探したってそうはないのだから。
[DVD(邦画)] 10点(2011-04-28 11:17:46)
29.  座頭市 THE LAST 《ネタバレ》 
思えば、『トカレフ』で大和武士の主人公は、佐藤浩市に撃たれて“一度死んだ”のだ。その後の物語は、“すでに死んでいる”主人公がそれと気づかず(あるいは気づかないふりをしつつ)、佐藤浩市への復讐すること、それだけのために費やされたものだった。だからそれは、奇妙な非現実感を漂わせる。そこはふたりの男だけの、殺し・殺されることだけに純化され、トカレフの乾いた銃声と、あの「カチ、カチ」という撃鉄の音だけが響き渡る世界だ。他の何者も立ち入ることはできない。それゆえに主人公の元妻で、今は佐藤浩市の子供を身ごもっているらしいヒロインすら、映画の途中で消えてゆくのである。  この『座頭市 THE LAST』でも、冒頭近くに主人公・市と所帯を持つと誓った石原さとみのヒロインが、市をかばって犠牲になる。けれど彼女が刀で刺し貫かれた時、実は座頭市も“死んだ”のではないか。あるいは、そこから彼の“THE LAST(最期)”は始まっていた。そしてラスト、一度は石原さとみの手に誘われるように海の中へと歩み入っていった市だが、次の場面で、海にたどり着けずにその手前で息絶えた姿として映し出される。あるいは、この2時間以上をかけてぼくたちが見てきた映像自体が、この、海岸手前で息絶える寸前に座頭市が見た“光景”なのではないのか・・・。そう思い至る時、この作品全体に漂う奇妙な非現実感に、ぼくたちはある戦慄と深い感動をもって納得させられるのだ。  (・・・座頭市と仲代達也扮する親分との対決シーンで、一瞬ふたりの姿が画面から消えてしまうあの場面にしてもそうだ。あそこで仲代達也は、実は市に斬られていたことを、ぼくたちは後で知らされる。いわば仲代もまた“すでに死んでいた”のである。いわばこれは、死者と死者が死闘を繰りひろげる『トカレフ』的なクライマックスの“再現=変奏”なのである)  監督デビュー作『どついたるねん』で、“一度死んだ者”としての赤井英和を主人公として以来、阪本順治監督の「アクション映画」は常にこうした死者たちの“末期の眼”で見られた世界を開示、あるいは現前させることこそが〈主題〉となってきた。この『座頭市 THE LAST』はそのひとつの到達点に他ならない。・・・ひと言、大傑作。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2011-04-26 19:29:46)
30.  ツイスター 《ネタバレ》 
何とか女から逃げようとする天才科学者と、何がなんでもその男をモノにしようとする女。女は男の人生をシッチャカメッチャカにかき回す。そんなふたりの間を結果的にとりもつことになるのが、かたや「大怪獣」で、こちらは「大竜巻」なのだった、という次第。  ・・・ローランド・エメリッヒ監督のアメリカ版『ゴジラ』は、当初ヤン・デ・ボンが監督にオファーされていたことを知る者にとって、この『ツイスター』という映画は示唆的だ。エメリッヒがどこまでヤン・デ・ボン監督の構想していた『ゴジラ』を踏襲したかは不明だが、この2本の作品、実はほとんど“同じ構造”によって成り立っている。そう、これらは往年のハリウッド映画の十八番だった「スクリューボール・コメディ」を再現したものだ。というか、その体裁[パターン]を「モンスター映画」としてしつらえたものなのである。  監督デビュー作『スピード』の大成功以来、その後どうもパッとしないといわれるヤン・デ・ボン監督の作品。だが、『スピード2』や『ホーンティング』(『トゥームレイダー2』は未見)でも、そこには古き良き「ハリウッド映画」への思い入れと、それをよりスペキュタクラーに“再現”しようとする意志を感じられないか。実際これらの監督作品にある「ソフィスティケーション」(とは、ひとりの男と女を“くっつける”展開の妙、といったくらいの意味だが)に、時代錯誤的な魅力をぼくは感じる者だ。  モンダイはそれが、観客が期待するものとは別の映画で成立させようとしてしまう、そういう意味での「(商業的な)センスのなさ」だろう。・・・たぶんこの監督は、現代的なアクション映画やSF映画なんぞより、アナクロニックなミュージカル映画あたりを撮るべきなのだと思う。  けれどこの『ツイスター』は、ヤン・デ・ボンが撮りたい映画と、観客が見たい映画との“ずれ”が少ないものといえるかもしれない。劇中に『オズの魔法使い』のヒロイン名“ドロシー”を持ち出したり、ハワード・ホークスの名作コメディ『赤ちゃん教育』あたりへの強烈な愛着を感じさせつつ、大災害スペクタクル映画としても成立している。まあ、このあたりは、確かに「スピルバーグ製作」の功績だという気がしないでもないけれど。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 18:04:23)
31.  エクスペンダブルズ
還暦を過ぎてなお「アクションスター」として健在でっせと自己アピールしつつ、他の出演者にも気配りと見せ場(特に、極悪非道な悪役を憎々しげに演じるエリック・ロバーツの楽しそうなこと!)を忘れない監督・主演のスタローン。・・・正直いって「映画」としては(少なくとも、ぼくには)ほとんど面白みを感じられなかったけれど(・・・申し訳ない、スライ!)、作り手の「人間味」を感じさせるという点においてどうしてもキライになれない。たぶん撮影現場も和気あいあいだったんだろうなぁ、というほのぼの感というか“ゆるさ”が画面からもにじみ出てくるあたりが、アクション映画としての緊迫感を今ひとつ欠いた要因だろう。でも、これは歌舞伎でいう「顔見世興行」みたいなものだと考えれば良いんじゃないか。CGまみれのアニメと大差ない昨今の「アクション大作」ではない本物のアクション映画を俺たちは担ってきたし、これからも担い続けるぜ! という心意気だけは旺盛なオヤジ・スター軍団に、(少しばかり苦笑させられつつ)乾杯!   ただ、ひとつ興味深かったのは、『ランボー4 最後の戦場』でも顕著だったけれど、監督としてのスタローンがここでも人間の“肉体損壊”にこだわっていることだ。銃撃で上半身が吹っ飛ぶなどのスプラッターな場面の数々は、リアリズム指向という以上にもっとフェティッシュというか、“深層心理”的なものを感じさせないか? あるいは、ステロイドの過剰摂取によって肉体改造をエスカレートさせ、一時は深刻な危機的状況すらウワサされたスタローン自身の、何らかのメンタリティが反映されているのかもしれない。彼の肉体美には、それとは裏腹な一種の“自己破壊衝動(!)”があったのじゃないか・・・とは、うがちすぎだろうか。だろうな。  ともあれ、役者はカラダ張ってなんぼじゃ! という「アクション映画」としての原典回帰を目論んだ、その意気や良し! これでピチピチの“戦闘美(少)女”を出演させてくれたなら、満点献上も辞さなかったのに・・・とは、あくまで当方の趣味のモンダイです。
[映画館(字幕)] 6点(2011-04-26 12:54:59)
32.  リトル・ランボーズ 《ネタバレ》 
英国映画の「男の子」たちは、いつもオトナや社会と〈葛藤〉している。階級差や家族関係、あるいは抑圧的な学校と教師たちなど、文字通り“四面楚歌[スクエア]”な現実に対して闘争、あるいは逃走し、自分たちだけの「(精神の)ユートピア」を築こうとするのだった。たとえば『小さな恋のメロディ』しかり、『リトル・ダンサー』しかり・・・。   ・・・そこにあるのは、ともに家庭に問題をかかえ、孤独だった少年たちが、いっしょに何かを成し遂げようとすることで心のきずなを結んでいく姿だ。だからこそ、スタローンの『ランボー』に熱狂し、自分たちだけで“リメイク(!)”しようとする11歳の少年ならではの奇想天外・抱腹絶倒・天衣無縫な撮影シーンは、大笑いさせられながらもあれほどみずみずしく、感動的なのである。同時にそれは、ふたりをとりまく家庭や社会や学校からの“逃避”であり、その時彼らが創ろうとしていたのは、映画である以上に、家庭や学校や教会から唯一自由になれるふたりだけの「ユートピア」に他ならないのだった。  やがて、そんなふたりだけの「ユートピア」に割り込んでくる大人びたフランス人少年の登場で、ウィルとカーターのあいだに決定的な“溝”ができる。文字通り身も心もカーターを傷つけてしまったウィルは、もう一度カーターとの心のきずなを築き直そうとするだろう。なぜなら、友だちへの裏切りこそ最も恥ずべきことであり、その回復こそが男の子たちにとって至上の〈倫理〉なのだから。  「友情はセックスのない恋愛である」といったのは、作家の橋本治だった。そのことの意味を、この映画ほど実感させてくれるものもないだろう。それは、どんな美男美女が演じる「恋愛ドラマ」よりも純粋[ウブ]で、歓喜に満ち、痛ましく、そして感動的だ。・・・この映画の原題『Son of Rambow(ランボーの息子)』の“Rambow”は、本当なら“Rambo”の綴り間違いだが、ぼくはそれを“Rainbow”と見まちがえた。しかし映画を見終わって、“ランボーの「息子」たち”は、“虹[レインボウ]”こそがふさわしいじゃないかと、思い直したのだった。そう、「男の子」であるのは、まさに虹のようにはかない一瞬であり、だからこそ美しいのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 12:45:56)(良:2票)
33.  ヒア アフター 《ネタバレ》 
思えば、イーストウッドが監督した西部劇は、常に「地獄」を描出するものだった。『荒野のストレンジャー』で、主人公の幽霊ガンマンが街を真っ赤に塗り“HELL(地獄)”と名づけて以来、彼自身が演じるガンマンは“一度死んだ者”として復讐すべき相手の前に現れ、この世界は地獄に他ならないことを体現してきたのだった。・・・そして1990年代半ば以降のイーストウッド作品は、そんな「地獄」を、現代劇のなかにも描き出す試みだったのではあるまいか。そこでは、そういった「地獄」を主人公たちが受け入れることでしか“救済”などありえない(でもそれは、もっと深い“絶望”を意味するのだ)。そんな苛酷な、あまりにも苛酷な〈叙事詩〉的作品こそが「イーストウッド映画」なのだった。  だが、この本作において、たぶんはじめてイーストウッドは「天国」について語ろうとした。それは、実際に“天国の光景[ヴィジョン]”が描かれたから、というだけじゃない。確かにマット・デイモン演じる霊媒の才能をもった男も、フランス人の女性ジャーナリストも「来世」を“見た”し、それをぼくたち観客も“目撃”した。しかしイーストウッドは、ここでそれを決して「天国」だと言ってはいない(あのモノクローム風に描かれた「来世」は、むしろ「冥府」のようではないか)。  ・・・この映画に登場する、3人の一度“死んだ”者たち。その体験ゆえに彼らは、それぞれ「死の意味」を求める苛酷な日々を送ることになってしまう。この世にありながら「来世[ヒアアフター]」を追い求め、あるいは逃れようとする彼らにとって、もはやこの世界こそが「地獄」に他ならない。  だが、それぞれ長い“「地獄」巡り”を経て、3人は運命的(まさに「ディケンズ」の小説のように!)に巡り会う。その後で、映画は“2つの抱擁”を描くだろう。ひとつはとある施設の殺風景な1室で、もうひとつは何でもない雑踏のなかでの抱擁。しかも雑踏でのそれは、男がはじめて「来世」とは別に“見た”「この世」のヴィジョンなのである。  ・・・彼とフランス人のヒロインが(もうひとりの主人公である少年の、天使[キューピッド]的な計らいによって)出会い交わす、抱擁とキス。その“幻視”の後、ふたりは雑踏のカフェに席をとり、親しげに語らう。このラストシーンこそ、イーストウッドがはじめて描いた「天国」だ。その何という穏やかさと、美しさ。
[映画館(字幕)] 10点(2011-02-22 18:08:06)(良:4票)
34.  SPACE BATTLESHIP ヤマト 《ネタバレ》 
(ラストシーンについて、激しくネタバレしています。未見の方はご注意ください)  どこまでも広がる大地にうがたれた、幾つもの巨大クレーター。その上を緑の草原が覆っている。そして、そこに立っているひとりの女と、まだ幼い男の子・・・。  この場面に、ぼくという観客は心から感動する。それは単に絵としてキレイだとか、地球の再生というドラマの大団円にふさわしいものとしてだけのものじゃない。その“緑のクレーター群”の映像は、端的にSF映画の「画(=イメージ)」として実に実に魅力的なものだったからだ。大げさに断定してしまうなら、これは今までのアメリカや他のどこの国のSF大作にもなかった、美しい、そしてSF的な「イメージ」なのだった。  正直なところ、自己犠牲だの何だのと騒ぎ立て、安っぽい悲壮感をあおるばかりの展開や演技に、同じテレビ局が製作したリメイク版『日本沈没』そのまんまじゃないか・・・と本作に少なからず失望していたことは確かだ。そもそも地球規模の危機に対し、日本人だけしか搭乗(というか、登場)しない宇宙船で立ち向かうといった不自然さからして、ここにはエメリッヒ作品程度(!)のSF的「リアリティ」もありはしない(・・・原作アニメもそうだった?)。さらに、すべてにどこかで見たことのあるような場面や設定が連続するのは、これまでの山崎作品の常だが、少なくともこれまでは、監督自身がそれらの“再創造”を嬉々として楽しんでいることの高揚感が伝わってきたものだ。しかし、今回ばかりはどうにも乗っていけない・・・   だが、【鉄腕麗人】さんの《一つでも「印象」に残る要素があれば、その映画の価値は揺るがない》というテーゼに心から賛同しつつ述べるなら、作品としての『ヤマト』は、すべてこのラストシーンによって、最後の最後にSF映画として、何より一編の美しい「映画」としてぼくを魅了したのである。そう、それでじゅうぶんじゃないか。
[映画館(邦画)] 8点(2010-12-06 20:48:17)(良:5票)
35.  ドリラー・キラー 《ネタバレ》 
アベル・フェラーラの映画は、常に「憎悪」がモチーフとなっている。何ものに対してか、彼の映画は徹底的に憎み、嫌悪し、やがてそれは狂気となって主人公を衝き(=憑き)動かして、決定的なカタストロフィを迎えるのだ。  実質的な監督デビュー作であるこの作品は、そういった“アベル・フェラーラ映画”のまさにプロトタイプにして最も鮮烈なものと言って良い。ここで主人公の画家(変名でフェラーラ自身が演じている!)が憎悪しているのは、ニューヨークという街であり、その街の真の住人ともいえるアルコールやドラッグにおぼれたホームレスたちだ。そして彼は、そのホームレスにはっきりと「自己」を投影している。それゆえ、小型ドリルで次々とホームレスたちを殺害することは、自分自身を“処刑”することに他ならない。  ・・・路上にたむろし、ゲロを吐いたりケンカに明け暮れるホームレスたちの、生々しい生態。そして、同居する2人のガールフレンドやゲイの画商、同じアパートに越してきたロックグループとその取り巻きたちによる練習風景(そのダウナーで投げやりな演奏ぶりが、妙なユーモアを醸し出すのも良い感じ)の描写に、“街(N.Y)=私(MY)”への嫌悪と憎しみに取り憑かれていく主人公の姿が、きわめて感覚的に、だが説得力をもって浮き彫りとなってくる。それがこの低予算ホラーを、特異な「アート」作品たらしめている理由だろう。  (とはいえ、映画のラストだけはメチャクチャ怖ろしい。そこで主人公は、元ガールフレンドが恋人の男と暮らす部屋に侵入し、男を殺害する。と、突然画面は真っ赤となるのだ。その後は、主人公がベッドにいるとは知らぬ彼女の、「もう寝たの?」「ねえ、もっとこっちへ来て」などという声だけが聞こえる。そして、沈黙・・・。いつドリルの音と、彼女の断末魔の悲鳴がとどろくのかと、心底震えあがってしまった。)  これでもう少し、ぼくが見たDVDの画質・音質が良ければ・・・と思わされたものの、全編にわたっての禍々しい“不穏さ”はそんな劣悪画面からもじゅうぶん伝わってくる。やはりフェラーラ、恐るべし。
[DVD(字幕)] 9点(2010-09-22 12:30:07)
36.  しあわせのかおり 《ネタバレ》 
映画の冒頭、ガスコンロに火がつく「ボッ」という音にはじまって、食材を炒める、揚げる、煮る、蒸すといった音が、調理する光景とともにーーいや、それ以上に音こそが強調されてぼくたち観客をとらえる。そしてその中華鍋をおたまで攪拌する音、中華包丁で刻む音の、何というリズミカルな響き・・・。そんな音たちの連なりの果てに、眼にも鮮やかで艶やかな料理が画面いっぱいに映し出されるのだ。  そう、料理を創ること・食べることが半分近くを占めているこの映画は、そういった「料理」を“音”によって表象する。いかに見事な音を奏でるか、それが料理それ自体の映像に、官能的なまでの〈美味しさ〉を与えることになるというわけなのである。・・・結局のところ映像は、料理の味も匂いも伝えることができない。けれどその官能性を、一種の「音楽」として聴かせることは可能だろう。音が創り出され、そのリズムやハーモニーが結果として料理を、その〈美味しさ〉を産み出す。本作が単なる「グルメ映画」と一線を画すのは、これがむしろ“音と音の響きあう”映画、まさしく「音楽映画」であるからにちがいない。  たとえば、藤竜也が演じる料理人の王さんは、その「音楽」を見事に奏でることで「名人」であることを体現し、我々を納得させるのだし、中谷美紀による主人公は、はじめはたどたどしかった“音”が徐々に「音楽」となっていくことで、料理人としての成長を実感させる。・・・クライマックスとなる食事会。それぞれ夫を亡くしたシングルマザーと妻と娘に先立たれた孤独な料理人であるふたりが、二人三脚で“ひとつの「音楽」”を創り出す料理場面は、中華鍋をふるう所作ひとつをとっても、これが一種の“ミュージカル映画”でもありうることをぼくたちにハッキリと見せつけてくれるだろう(その食事会の終わりに歌われる「ホーム・スウィートホーム」は、だからそういったふたりが奏でる「音楽」への“返歌”としてあったのだ)。  まるでホウ・シャオシエン監督の『戯夢人生』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のような、沈黙と、ひとつの乾杯で締めくくられる長いワンカットのラストまで、この一見つつましい、およそオリジナリティを主張しないかのような「地味」な映画が、実は最近の日本映画のなかでも最も「滋味」豊かなものであること。そのことこそを、ぼくは高く、高く評価したいと思う。
[試写会(邦画)] 10点(2010-09-01 17:59:32)(良:1票)
37.  半分の月がのぼる空 《ネタバレ》 
主人公の高校生・裕一は、病院の屋上ではじめてヒロインの里香と出会う。そこでは洗濯物の白いシーツが風に揺れはためき、そのシーツの合間から見え隠れする彼女。・・・運命的な出会いというにはあまりにもさり気ないこの場面は、だがこよなく美しい。  その“シーツ”は映画の中盤、里香が裕一の病室に忍び込みベッドのシーツの中で語り合う場面へと引き継がれ(・・・ほの淡い光につつまれたふたりの、何という感動的な姿!)、さらに終盤ちかく、もうひとりの主人公である医師・夏目のマンションのベランダで揺れるカーテンへとつながっていくことになる(・・・夏目は、それに導かれるようにして亡き妻との想い出の場所へと向かい、映画はクライマックスを迎えるだろう)。  ここに至って、ぼくたちはこの“風に揺れるシーツ”の変奏こそが「裕一と里香(と夏目)の物語」を支える〈仕掛け(=演出)〉となっていることに気づかされる。それは特権的なイメージの突出ではなく、あくまでこの映画の「物語」に奉仕するものとしてあったのだ。  冒頭の、自転車で夜の商店街を疾走する主人公を捉えた縦移動の長回し場面や、過去と現在が“交差”する一瞬でドラマの流れを変える鮮やかさ。さらに濱田マリ演じる看護婦の、単なるコメディリリーフ的な役回りに終わらせない味のあるキャラクターづくりなど、この映画の“巧さ”をぼくたちはいくつも見出せるだろう。けれど、それを決してあざとさやこれみよがしな技巧の披瀝に終わらせるのじゃなく、ただ、“いかにこの「物語」を魅力的に語り得るか”という語り口において機能させること。そういう作り手の“誠実さ”が、この「難病ものの純愛ドラマ」というウンザリするほどワンパターンな題材を、真に「映画」として輝かせることになったのだと思う。  そう、愛する者の死と、それを受け入れて再生する者たちのドラマなど、確かにありふれている。けれど、過去が美しければ美しいほど、現在が色褪せ耐えがたいものであるのに、それでも我々は生きていかなければならない。なぜなら、それこそが死んでいった愛する者たちからの「命令」であり、残された(=生き残った)者たちの果たすべき「責任」なのだから。・・・お涙頂戴映画は腐るほどあっても、そういう〈倫理〉を説く映画は本当に少ない。だからこそ、ぼくはこの作品を高く評価する。
[映画館(邦画)] 10点(2010-08-27 17:55:19)
38.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 
映画のはじまり近く、主人公がはじめてローラーガールズたちに出会い魅了される場面。ローラースケートでさっそうと現れるその姿を主人公が見つめる、そのまなざしひとつで映画(=物語)が動き出すことが予感され、その高揚感に思わず涙腺がゆるんでしまう。  そして間もなく、彼女はローラーゲーム・チームのオーディションを受けようと、ひとりバスに乗り込む。車窓からはバイト先の店が望め、働く親友の娘や、いつもからかって憂さ晴らしをしている新米店長の姿が見える。主人公は手を振るが、当然ながら気づかれない・・・。この場面の繊細な作り込み方に、今度は本気で泣かされてしまった次第。  田舎町で満たされない日々をおくっていた少女が、自分の進むべき道を見出して新たな世界へと旅だっていく。そんな「ありふれた物語」を監督デビュー作に選んだドリュー・バリモア。しかし主人公が、愛すべき荒くれ女たちとともにケチャップやパイまみれの大乱闘を繰りひろげ、誰もいない夜のプール内で恋人と戯れあい、ファイトむき出しのライバルチーム・キャプテンと渡り合うなかで、ついに母親と真に向かい合えたこと。たぶん、そこにドリューにとって本作を撮るべき“切実”なモチーフがあった。  監督としてのドリュー・バリモアが撮ろうとしたのは、ひとりの少女の成長物語であり、家族との葛藤と和解劇だった。主人公がチームと家族、この2つの「ファミリー」とのきずなを深めていく姿に、同じく名優一族の家と映画界という2つの「ファミリー」のなかで育ってきたドリュー自身を重ねても、あながち穿ちすぎじゃあるまい。むしろ不幸なものだった自身の10代を、この映画によってあらためて肯定的に「生き直す」こと・・・    けれども作品は、そんなメロドラマ的感傷とも無縁のまま、ある時は西部劇&スラップスティック喜劇のように、ある時はエスター・ウィリアムスの優雅な水中レビュー映画のように、ある時はハワード・ホークス監督の『レッドライン7000』のように、ある時は“スモール・タウンもの”と呼ばれる田舎町を舞台にした一連の映画のように、つまりは「アメリカ映画」そのものとして、あっけらかんと現前している。それを実現した監督ドリュー・バリモアの繊細さと大胆さ・・・。そう、これが本物の「才能」というものだ。
[映画館(字幕)] 10点(2010-08-25 15:49:16)(良:1票)
39.  血のバケツ 《ネタバレ》 
“壁の中の黒猫”にはじまって、死体を彫刻の材料にするという『肉の蝋人形』の趣向をひとひねりし、当時の流行だったビートニクの芸術家かぶれを皮肉るという、まさに安直というか、適当にデッチ上げられた感はまぬがれない(実際、使い回しのセットを用いて、しかも撮影期間はたったの5日!)。けれど、芸術家たちのたまり場となっているカフェの、さり気なく飾られた絵画やオブジェはシロウト眼にもそれっぽく、意外にも“良い趣味”をしているのだ。  プロデューサーとしてのロジャー・コーマンはとにかく“ケチ”で有名らしい。が、少なくとも自分の監督作においては、どんなに低予算であろうと美術や小道具だけは周到に作り込まれている。どうやら監督としてのコーマンは、どんなストーリーや演技よりも、その「背景」こそ重要なのだと考えている。後はそこに人物を置くだけで、ストーリーは勝手に動き出す・・・と。実際この映画でも、少し頭の弱い主人公がいかに芸術家にあこがれ、偶然の事故からとはいえ“殺人彫刻(!)”にのめり込んでいったかを、彼が働く前述のカフェと、住まいである貧しいアパートの部屋の2ヵ所のセットだけで、きわめて説得的に浮かび上がらせているのだ。  加えて、殺人現場では直接的な描写を避け、次の場面で“彫刻”という形で「死体」を見せるという絶妙のソフィスティケーション! しかもこれが、ブラックな笑いに結びつくあたりも心憎いじゃないか。主人公の異常さにではなく、むしろ人間らしい“弱さ”に注目するこのスリラー・コメディは、初期作品の頃からロジャー・コーマンが実はいかに優れた「演出家」であるかを雄弁に語るものだと思う。  ・・・しかし、すべての発端となった、あの“ナイフが刺さった猫”の彫刻。何だか妙にカワイイです(笑)
[DVD(字幕)] 9点(2010-05-27 11:10:20)(良:1票)
40.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 
映画でも文学でも音楽でも絵画でも何でもいい、有史以来ヒトは「作品」を創り、残し続けてきた。でも、どうしてわれわれは「作品」を創造するんだろう。自分の才能を世に知らしめようという野心や顕示欲? 他人の尊敬や社会的成功を夢見て? ・・・いや、ちがう。そんなものはあくまで「作り手」にとっての“問題”であって、「作品」とは無縁のものでしかないだろう。   創造の契機は、それこそ作り手の数だけある。けれど、いずれにしても、自分が“見た・聞いた・感じた(そして、考えた)”ものを、この世界の誰かと分かち合いたいという想いというか「願い」こそが、ラスコーの洞窟壁画を描いた原始人から現代のカネと欲にまみれた類のアーチスト(ですら!)に至るまで、すべての始まりであることを、ぼくは信じる。そして「作品」は、そんな「願い」に応えてくれる理想的な“誰か”が現れてくれるのを、いつまでも待っているのだ。  ・・・この映画のなかに登場する8ミリ映画は、未来からやって来たヒロインに想いを寄せる大学生が撮った、まだ音入れも終わっていない「未完成品」にすぎない。しかし、やがて未来に戻った(と同時に、過去にタイムワープした時の記憶は失った)ヒロインは、その8ミリ映画を見て、自分でも理由が分からないまま涙を流す。もはやヒロインは、彼のことを憶えてはいない。でも、そのフィルムに込められた彼の“想い”は、間違いなく彼女の心に届いた・・・たぶん、それでじゅうぶんなのだ。いかにもチャチな出来損ないの8ミリ映画は、この時、本物の「作品」となったのである。  そう、高名なヒット映画のリメイク(というより、後日談を描いた“続編”)という体裁をきっちりと遵守しつつ、ぼくにとってこれは、創造行為をめぐる美しい「寓話」そのものだ。何よりそこに生命を吹き込んだヒロイン、仲里依紗の素晴らしさ! 彼女がここで見せる驚くべき感情表現の豊かさこそ、本作における最大の「価値」でありスペクタクルである。・・・特に、映画の最後を締めくくるストップモーション。彼女が見せたその一瞬の表情こそ、まさしく“美神[ミューズ]の微笑み”以外のなにものでもないだろう。
[映画館(邦画)] 8点(2010-05-26 14:41:03)(良:2票)
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