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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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21.  我等の仲間
友情の崩壊ストーリーよりも、田園の美しさに見惚れた。田園っちゅうか、川沿いのあたり、川遊びとかね。白黒だと木々の色が出せなくて駄目だろうと思いがちだが、かえって光に敏感になるので美しい。冒頭から木々の並びを流す画面だった。堪能堪能。開かれた祝祭気分の仲間うちの世界、これが一人ずつ去っていくことになるんだが、完全に分解しないで、最後二人だけで友情よみがえって終わったとしても、ちっとも甘くないと思うよ。悪女にリアリティなくても、それに振り回される男のほうに説得力があるからいいのね。みんなで瓦を飛ばされないように屋根に寝たのが一番の思い出だぜ、なんてのがいい。この監督は、巨匠というより名匠という言葉が似合う。(ハッピーエンドの版もあるらしい)
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-02 10:04:56)
22.  大いなる幻影(1937)
職業軍人たちの誇りと焦りと諦め、というあたりがよく出ている。仏のほうはもう次の世代へ譲り渡そうとしている。独のほうは最後の礼儀正しさで、自分の階級をまっとうしようとしている。そしてその次の世代というのは、より残酷な世界大戦で闘うことになるわけだ(当時のルノワールが予想していたわけではなかったろうが)。各国語をそのまま使っている。ジャン・ギャバンが次の捕虜に地下の穴を伝えようとするが「ワタシフランス語ワカリマセ~ン」となる。あるいは逃走中のロマンス。互いに理解できぬ言葉で語り合う場面の哀切さ。あるいは独房でフランス語を喋りたい、と叫ぶ。戦争を言葉の面から描いたのが貴重。演芸会に至る部分はよかった。女装の男を見てみながシーンと静まり返ってしまう。あるいは窓辺での会話「子どもたちは兵隊ごっこ、兵隊は子どもの遊び」って。当時のヨーロッパの細かな情勢や文化に詳しいと、もっと面白そうな部分はある。国境も幻影だが、最後彼らが撃たれなかったのも、国境に守られたからな訳で、ここらへん皮肉なのか。そういう感じでもなかったな。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-31 09:37:40)
23.  どん底(1936) 《ネタバレ》 
普通なら理解し合えないはずの者たちが・理解し合えっこないはずと信じ込まされていた者たちが、コロッと意気投合してしまう。会った瞬間に友だちになれてしまう。なんという人生肯定。この作品で一番印象深いのは男爵だろう。「身を落とした」などという意識は微塵もない。草原に寝転がる自由を心の底から満喫し、自分の選択を全然後悔していない。理想主義的すぎるとも思えるけど、でもいい。フランス映画でよく感じる「のんき」の尊重。けっきょく今まで自分は衣装を替えていただけだ、という述懐もあった。自殺してしまう役者とペペルの対比もある。遠い夢の病院と、現実の地道な生活への一歩の違いということか。マドンナが役人に口説かれてしまいそうになるときの陽の光の美しさは、親父譲りだな。というわけで黒澤版の暗~い『どん底』とはずいぶん印象が違うが、本家ロシア人が見るとそれぞれどんな感想を持つのか、ちょっと興味がある。
[映画館(字幕)] 7点(2012-10-26 10:04:26)
24.  商船テナシチー
なんか山本周五郎の世界よ。人間が描けている、ってこういうのを言うんだろう。お調子者だが現在をいとおしむ男と、いつも自分で決められない男、そしてドキッとするような恋する女の残酷。「彼女笑ってたか」って手紙を託された男に尋ねるんだよなあ。まだ踏ん切りがついてない、っていうか、風景に別れたくないっていうか、つまり後ろ髪を引かれる思い。夢と今いる場所と。人生は厳しい。すべてのエピソードが厳粛な出発につながっていく。それは友情の限界であり、本当の人生の始まりであり、故郷を捨てることであり、記憶の一つの段落であり…。デュヴィヴィエって、情感過剰気味でクレールやルノワールより一段低く見がちなところがあるけど、やはり名を残す人だけのことはありますな。キモのところで日本人の好みとうまく重なっているのか。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-19 09:55:44)
25.  にんじん(1932)
意外とシビアなホームドラマ。不幸な家庭というものは厳として存在し、ある子どもにとっては寄宿舎のほうが助かる場合もある、ってこと。母のにんじんに対する態度、特別原因がないだけに怖い(一応夫との間が冷えてから生まれた子どもってことか)。最も緊密な関係のはずの母と子においても「どうもウマが合わない」ということは生じ得るし、家庭は和気あいあいでという理想をあんまり高く掲げるのも、いかがなものか。原因がないんだから、母も改心のしようがなく、それぞれがそれぞれの不幸を守ったまま、父と子の間に光がほの見えるだけで閉じていく。その父と子が正常に相手を呼び合うラストが感動的。「フランソワ…」「お父さん…」。初めて母に反抗するシーンもいい。それまでの仕打ちにはビクともしなかったのに、盗みの疑いで少年の誇りを傷つけられるとこたえるわけ。全体子どもの捉え方が「けなげ」よりも「したたか」で、翌年の『操行ゼロ』やトリュフォーにつながっていくフランスの伝統なんだろう。牧歌調のシーンの美しさ、偽の結婚式後の行進、長く伸びた影、自殺しようとする池、どれも清澄さがあって素晴らしい。祝宴の中で取り残されていく惨めさが、それがあってクッキリする。にんじんがいざロープに首を突っ込んだときの震えの無惨さも見事。日本ではデュヴィヴィエは『望郷』に代表されるセンチメンタルな監督という評価があるが、それだけでもないんだ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-10-12 10:09:15)
26.  愛怨峡
これは彼の演出法がいちいち納得できた作品ということで、私にとっては記念すべき一本。室内で俯瞰にするのは人物(おもに男)の弱さや卑小さを強調し、また運命といった視点も導入できる。いさかいなどのシーンは、一つ奥の部屋でしていることが多い。一部屋遠くから撮る。俯瞰と同じような効果もあるが、さらに表情を隠す効果もある。剥き出しの表情を消せる。表情が急変するところをドラマチックに見せたくないという慎み深さ、そういうところを近づいて捉えては失礼だという意識もあったか。あるいは逆に、その人物にとっては大事件でも世間には大して関係ないよ、といった客観視とも取れる。芸人たちの小屋へ貰い子に出していた赤ん坊が帰ってくるところ、ワーッと仲間たちが囲んで、母と子の姿をカメラから隠してしまう。次にカメラが脇から捉えるときは、最初の出会いの瞬間の剥き出しの喜びは消え、穏やかな慈愛の表情になっている。こういう礼儀正しさが彼の演出法にはあるんではないか。しかしインテリ男に対する作者の目の厳しさは隠さない。都会に出りゃ何とかなると出てきて、しかし何も出来ないで、女のほうがしっかりしてて、けっきょく家長に絶対服従の駄目男。男に対する厳しさは剥き出しで描いているな。
[映画館(邦画)] 8点(2012-09-29 10:02:31)
27.  五人の斥候兵
国策映画で戦争そのものを描く場合、敵が強いと国策に合わないし、敵が弱いとドラマとして成立しない、というパラドックスがある。で大局的な視野を捨てて、局所的な出来事に目を向け、そこに集中することで映画作家としての誠実を尽くそうとした、ってことはありましょうな。戦場における理想的な心意気の世界。負傷した兵が送り返されるのを嫌がり、無理して「ほら、銃ならちゃんと持てます」と言うのに対して、部隊長がその心を汲みながら「命令だ」というあたりなんか、やがて一つの型になっていくのの初めのころのケースだろう。斥候に出て行くときの不安定な(舟に据えたカメラ?)の視点なんかもいい。敵兵の表情が見えないのはうまいのかズルいのか。そのかわりときどき敵兵の視点になってトーチカから斥候兵を狙い撃ったりするシーンがあり臨場感。田坂監督の当時の言葉によると「小津君の入営がこの映画を作ろうと思った一つのきっかけだった」という。当時の小津の軍隊日記には本作がキネ旬の1位になったことを記し「それほどの作品だったかな、まだ見てないが『路傍の石』のほうがいいんじゃないか」てなことを書き込んでいる。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-26 09:39:34)
28.  暖流(1939)
最初、主人公をどの程度肯定的に描いているのかハッキリしないうちは、ちょっとイライラした。己れに疑いを持たぬ「竹を割ったような」行動派を美化していると見ればいいのか。喫茶店で紅茶注文しといて、すぐに食事に誘い出してしまうのが、当時の「男らしい」だったのか、などと。しかし途中から「女同士の義理」みたいなモチーフも浮きだしコクが出、最後には佐分利信の生き方に疑問を与えるようなラストで、これなら満足。なんとなく相思相愛の一組があるのに、思い過ごしや遠慮や義理やで、うまくいかない。決して劇的な障害があるわけでもないのだけど、うまくいかない。女二人のどちらにも肩入れしないで、均等に扱ったのがいいのかも知れない。高峰三枝子に力を入れると「いい気なものだ」式の話になってしまうし、水戸光子に力を入れると「女のガムシャラな愛」ということでちょっとギラギラしたものになってしまう(後年の増村保造はそれを狙う)。美術では当時のモダンぶりが味わい。女たちの対比も織り込んでいるのだろうが、神田の喫茶店、白と黒に染め分けていて、カップまで白と黒になっている。でも上流家庭の描写は、地に脚が着いてないというか、日本人には苦手ね。日本の戦前の上流家庭とは、案外こんなもんだった、という可能性もあるけど。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-19 10:19:59)
29.  西部戦線異状なし(1930) 《ネタバレ》 
ドイツの話だから自由に軍隊批判を出来た、ってことより、やっぱりこれ当時の世界的ベストセラーの映画化ってことで描けたんでしょう(日本ではこの映画より先に斎藤寅次郎が『全部精神異状あり』なんてパロディを作ってる)。ペンタゴンから文句言われても、原作があるんだから仕方ない、って言える。エピソード集の形をとって、反軍のメッセージが込められたシークエンスが展開し、群像ものとしても見られる。長靴が兵士の死を渡っていくエピソードなんかいい。塹壕の中で初めて敵を殺した兵士のヒステリックに赦しを請う態度から、翌朝「戦争とはこういうものなのさ」と“正しい兵士”へ“成長”していってしまう怖さ。そして突撃シーンの壮絶、無駄に死んでいくことがただただ強調され、勇敢さは微塵も感じられない。煽り立てている教師のところに戻って訴えるシーンなぞいいのだが、この映画が作られた後にも、原作の国と映画化の国とで第二次世界大戦が起こり、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、その他その他が繰り返し起こっていることの脱力のほうが、重い。戦争は嫌だなあ、という不快感は万国民共通のはずなのに、それがちょっと「国のメンツ」を突つかれると、たちまち「戦争やむなし」の大合唱になってしまうんだ。/確認のため年を調べたら、原作の発表が1929年で、斎藤の映画と同年だ。原作発表すぐに翻訳が行なわれ、すぐにパロディが作られたのか。それとも話題作ということで題名がまず伝わり、それだけで一本のパロディ映画を作ってしまったと考えたほうが、当時の活力あった邦画界にふさわしいな。
[映画館(字幕)] 9点(2012-09-04 12:35:06)
30.  唄の世の中
むかしの邦画で多いのが、主人公がレコードデビューしてハッピーエンドになるストーリー。『愛染かつら』を初め、高峰三枝子では戦後までその手の話があった。のちの木下恵介の『歌え若人達』(1963年)はその変形でゴールがテレビスターになっている。レコード業界からテレビ界へと「花形」が移ったわけだ。で本作は、小心者の岸井明が友人藤原釜足の後押しを得てレコードデビューする話。遊園地に、客の歌をレコーディングして売る商売があったのが分かる。楽しいのが新人発掘オーディションで、歌だけではなく漫才なんかもやってる(当時エンタツ・アチャコなどレコード化されていた)。ここでは永田キング(和製グルーチョ・マルクス。面白い)とミスエロ子が登場。強烈な名前とそぐわない、和服を着て、学校の先生でも似合いそうな人で、その落差で笑いを取るってようでもなく、つまり当時の「エロ」という言葉には現在感じられる湿っぽさはなかったんだろう。広くユーモラスな方面の言葉として受け取られていたよう(小津の『エロ神の怨霊』が6年前。前作『その夜の妻』を城戸四郎にほめられ褒美に温泉での休暇を与えられたが、ついでに一本撮ってきてくれ、と注文がついて生まれた作品。残ってないが資料ではコメディ)。おかしいのはところ狭しと飛んだり跳ねたりアクロバット芸をするトリオで、こういうのはレコードにいかがでしょう、とオチがつく。ラジオの時代になって、視覚に訴える「イロモノ芸」の手品師や紙切り芸人は、ちょっと悔しい思いをしてたんだろうな。サイレント映画が始まったころに、その反対のことが起こっていたように。オーディションシーン以外では、若き渡辺はま子の「とんがらがっちゃ駄目よ」が準テーマ曲扱いで聞けます。テーマは岸井の「Music goes round and round」。朝鮮の女性舞踊もあり、当時人気で川端康成もひいきにしたという崔承喜ってのはこんな感じだったのか、などと思ったり、全体、当時の芸能興行界の雰囲気が味わえた。終盤にはけっこう迫力あるカーチェイスがあり、それが行き着いたところは、二年前に完成したばかりの狭山湖ではないか? 伏水修監督。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-02 09:34:06)
31.  三文オペラ(1931)
友情讃歌ととればいいんだろうか。警視総監、泥棒、乞食の巴となっての。それらをひっくるめて、乞食の群衆の裏表の関係になってたのか。とにかく全部セットで、風景を映したシーンがないのも、舞台を意識したよう。泥棒の情婦、乞食の娘としっかりした女たちが小気味いい。男のキザ加減も見事、警官に追われても走らないし、屋根から下りてくるときでもステッキを離さない。こういうキザに徹するのを風刺としてでなくそのままで楽しむって姿勢、日本にはないけど、ヨーロッパは「007」なんか見てもあるな。紳士の文化ってのが、なんかあるんだな。あと「愛すべき泥棒たち」ってのも、あちらの文化的。日本で似たのを考えると、歌舞伎の白浪ものになるが、あれは「愛すべき」という仲間的な親しみじゃなく、やはり見上げるヒーローという距離がある。鼠小僧ってのは、江戸の町人にとってどうだったんだろう、仲間・同類って感じあったのかな。
[映画館(字幕)] 6点(2012-08-07 09:01:52)
32.  M(1931) 《ネタバレ》 
映画史上最も異様な作品。そのまま解釈すれば精神病に対する偏見の作品てことになるけど、後半の異様な熱気がそんなものでないことを示す。「時代の不安」の映画であることは間違いないが、そう簡単に言い切っちゃっていいのかい、とフィルムのほうがこちらを値踏みしてくるような落ち着かなさを感じる。子どもたちの未来を奪っていく黒い影、その性的変質が政治的変質と一つのかたまりになってスクリーンから押し出してくる。犯人が少女を見てムラムラッとなるところや、「裁判」での弁明に時間を割いて丁寧にやっているのも、単なるスリラーでない証拠だ。「心の中の悪魔が言うことをきかなかった」という犯人の弁明は、ドイツ人が十数年後に繰り返すことになる。小悪党によって変質者が裁かれ、いざ刑の執行になると、目に見えぬ官憲に踏み込まれる、という話に何らかの隠喩があるのかも知れないが、カフカに通じるような、異様さを異様なまま納得させるリアリティがあって、そっちのほうが急ごしらえの解釈など吹っ飛ばしてしまう。弁護士がさかんに「犯意のない犯行は無実ではないか」と主張するのも、これからファシズムを支えていく民衆の弁護になっており、誰かを裁くだけで済む問題ではないぞ、とドイツの未来に対して、さらには世界の歴史に対して先取りして発言しているよう。無数の解釈の可能性に覆われた、まるでカサブタだけで本体の見えぬ怪物に出会ってしまった気分にさせられる作品だ。ちなみに本作のP・ローレ、『サイコ』のA・パーキンス、『コレクター』のT・スタンプが、私にとっての愛すべき三大変態(別格扱いの『ソドムの市』の四人組とで「変態七福神」とも呼ぶ)。
[映画館(字幕)] 8点(2012-08-03 10:07:21)
33.  大地 《ネタバレ》 
忘れ難い名シーンとしては二つ。まず冒頭、老人が真夏の昼下がりに死んでいくとこ。ひまわり。友だちの老人と「もう死ぬな」「行ってきな」「天国か地獄か教えろよ」などと会話しながら、ひょいと起き上がり梨を半分ぐらいかじってから静かに横たわる。まさに「大地」という感じの堂々ぶりの人生が感じ取れる。も一つすごいのはヒーローの葬式に恐れを感じた犯人(富農の息子)が狂乱状態になって犯行を叫び始めるのに対し、農民がまったくの無関心を示すところ。この軽蔑の描写がゾクゾクッとくる。これはもうプロパガンダを越えている。生産者側の優位を描いて、わざとらしさがなくこれだけ感動的なシーンも珍しい。そしてソ連の映画は雲がいつも美しい。しかし考えようによっては「個人より集団」という思想が徹底されており、ラストで婚約者が別の男と新しい生活を始める予感で終わらせているのも、土に生きるものたちのしぶとさと言うか今村昌平的・昆虫的輪廻を感じさせもするけど、同時に個人のかけがえのなさが集団の中に埋没していくようでもあり、のちに明らかになって来るソ連の非人間的なシステムをすでに感じさせなくもない。
[映画館(字幕)] 7点(2012-08-02 10:22:14)
34.  望郷(1937)
「カスバの女」なんて歌が生まれるほど、日本には“北アフリカへのロマン”があった。『モロッコ』や『外人部隊』や本作の、映画の影響なんだろう。とくに本作はヒットしたらしい、当時の人はこの映画がいかに話題になったかをよく語る。全編に渡る異国情緒が、当時の日本のロマンチシズムとうまく重なった。フランス人がアルジェリアに抱くある種のロマンが、日本にとっての中国大陸へのロマンと重なった。息苦しくなってきた自国から見た植民地の「楽土」の感じ。最後の逃げ場所としての土地への幻想。迷宮のようなカスバの街は、上海の迷宮に重なる。身近に満州なり上海なりに渡った人は多くいただろう。そこらへん「♪ここ~は地の果てアルジェリア~」でありながら、身近にも感じられたのだ。この邦題もまた日本人をくすぐる。たしかに望郷の念がこの映画の隠し味になってはいるが、それを題であからさまに語ってしまうのは、いささか野暮であった。パリの女性を介して祖国への望郷の念が狂おしく沸き立つところが後半の痛ましさで、あくまで題は「ペペ・ル・モコ」のほうが粋なのだが、ここではっきり「望郷」としたのは、映画会社の邦題担当者の頭に歌舞伎「俊寛」のイメージが湧いたのではないか。流刑の島で一人だけ赦免状を貰えず祖国に帰る船を見送る俊寛僧都の話は、戦前の日本社会では一般常識としてあっただろう。そこらへんを突く邦題だったのではないか。太った元スカラ座の女性歌手が、若いころの写真を壁に貼ってかつての歌をレコードで聞くあたりにフランス映画ならではの味があるが、どちらかと言うと当時の日本の気分を知るに役立つ作品である。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-07-15 09:27:27)
35.  意志の勝利
演説と行進と整列。繰り返し繰り返し所属することの悦びを歌い上げ、今あなたが所属している党/ドイツという国家の確実性・正統性を保証してくれる。この時代のこの国に生まれたことは何と幸運なんだろう。大人数を捉えるときは俯瞰でその秩序正しさを描き、ヒットラーを初め指導者たちを捉えるときはやや下から見上げ偉大さを強調する。演説者を横移動でゆっくり撮るのは、ありがたい仏像を拝むときの気持ちに似通った効果を狙っているのかもしれない。ヒットラーはしばしば逆光で捉えられ、彼の黒髪があたかも純粋なアーリア民族の(彼が夢見た)金髪であるかのような錯覚を与える。ショーというものの力を最も有効に使った権力者だけのことはある。モンタージュによる作為、反復の陶酔、映像の力をフルに生かした点でプロパガンダ映像史上の一つの頂点であり、後世にも影響を残した。拍手が鳴り止まぬ熱狂を司会者の困惑で描くうまさなんて、以後の劇映画でも目にした気がする。これ東京の有楽町そごうデパート7階だったかに短期間存在した「映像カルチャーホール」ってんで見たんだけど、500円で海外のドキュメンタリーの名作を見られるいいところだった(いまはデパートそのものもない)。映画史の本に載ってるような英国サイレント期の傑作を、ここでずいぶん見られた。あれどこが運営してたのか、あれらのフィルムは今どうなっているのか、ほとんど日本語字幕が付いてたし、無駄なく活用されていればいいんだけど。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-23 09:45:48)
36.  瀧の白糸(1933)
殺しのシーン、外から家に入り襖を二度ほど開けるまでをワンカットで追っていく。グイグイと入っていく白糸に同化でき、またそれを眺めている観客にとっても迫力が伝わってくる。男に引きずりまわされるところの俯瞰。白糸の哀れさが強調され、またそれを眺めている観客に「運命」といった観念も呼び覚まされる。溝口のテクニックに二段構えの厚みを感じる。映画そのものも、溝口と鏡花の好みが二段になって重なってるようで、尽くして尽くして尽くしつくすマゾぎりぎりの悦びと、他人に再生願望を託したような自己滅却志向が感じられる。アネゴ肌で女侠気とでも言うんでしょうか、粋の典型がここにあり、こういった明治の粋を描くには、戦前の昭和がぎりぎりのタイムリミットだったのか。ラストで入江たか子の表情が次第に浄化されていくとこがいいんでしょうな。
[映画館(邦画)] 7点(2012-06-22 09:48:10)
37.  エノケンのちゃっきり金太
総集編でも残っていることを喜ぶべきなんだろうが、流れがおかしくなってしまっているのが、けっこうキズに感じる。中村是好との関係などギクシャク。なんか大筋のつなぎ合わせのほうを大事にして、ギャグとしての流れを犠牲にしたんじゃないか。滅んでいく幕府に同情的で、新興勢力の田舎ものをコケにするのが江戸っ子かたぎ。もちろん基本はこの時代の映画で親皇側を立ててはいるが、明治以降の大衆文化って、けっこう佐幕派的な心性がひっそりと生き続けている。エノケンのキャラクターは、卑屈としたたかさが同居したもので、チャップリンもそうだった。映画初期の庶民の理想像だったんだね、あんがい革命の時代ってことともどこかで通じていたか。スリのねえさんと一緒に旅していた、娘の父親探しはどうなったんだろうな。クシャミをすると是好が出てくるあの感じはよかった。
[映画館(邦画)] 6点(2012-04-30 09:35:22)
38.  妻よ薔薇のやうに
原作ものではあるが、登場人物がみな弱さを持っていて、それを肯定していくという成瀬の匂いの強い話。正妻は長野から送られてきた金で衣装をあつらえるような鈍感さを持っていながら、短歌の世界では一応名を成している歌人。外で見かけた幸福そうな一家もそれをそのまま感動できず、一度短歌に凍結してしまわないとならない性分。旦那は旦那で、もういい年なのに夢追い人。金鉱探しで一生を棒に振ってしまいそうな感じ、しかもそれをうすうす予感しているようなところもある。妾は妾でそれを見抜いていて、そっと溜め息ついたりしている(この時代、妾というものはただただ可哀想な弱者か、女狐のような悪者として描かれがちだったと思うんだけど、この英百合子はちゃんと一人の女性として立体感を持って存在していた、どちらかと言えば「可哀想」サイドだけど)。みんな不幸へ不幸へと傾いていてそれを自覚しながら引きずり込まれていく。成瀬の世界をひとことで言えば「ずるずる」。流されていく弱さを個々に見ていくとどうしようもないんだけど、しかしその弱さの総体をどこか肯定している。それが明るい印象を残している。こんな世界観ってあんまりないんじゃないか。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-26 10:09:43)
39.  グランド・ホテル
頽廃の匂いと言うほどではないが、アメリカがヨーロッパ・とりわけドイツに抱いている世紀末的な雰囲気への憧れが感じられた。子どもが大人に抱くような視線。滅びや衰退ってものの厳粛さへの過剰な評価。死が近づく病人、人気下降気味のバレリーナ、崖っぷちの会社、それらがウィンナワルツをBGMに旋回していく。当然のように犯罪も入り込んでくる。歴史を重ねてきた都市だけが醸し出せる「大人」の雰囲気。アメリカ映画が持てなかったヨーロッパ的なものを、とりわけ大事そうに画面に塗りこんでいるところが、いじらしくも楽しかった(ドイツの小説をアメリカで戯曲にしたのの映画化と聞いている)。この様式が拡大されたのが、アルトマンってことか。『グランド・ホテル』にはアメリカのヨーロッパへのコンプレックスが感じられるが、アルトマンがそれをより発展させ、混在国家アメリカに文化にしてしまった。最後に「事件」を置いてキュッと全体を締める手法なんか、『ナッシュビル』でより大規模に再現してくれた。そのアルトマンの映画が、ヨーロッパでより高く評価されたってあたり、旧世界と新世界の相互の「憧れ合い」が微笑ましく見えてくる。この手のドラマでは、人々がそれぞれの人生を担って同時に生きていることを示すため、当然のように長回しの手法が生かされてくるんだ。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-03-18 10:02:32)(良:1票)
40.  限りなき前進 《ネタバレ》 
たしかにこのフィルムの改変はひどいもので、肝心の狂っていくとこを切っちゃって、無理にハッピーエンドにし、単に上映時間を短くし回転率を上げようとしたのか、とにかく残念至極であります。おそらくあの夢の長さがバネになってるわけだから、ネッチリ狂っていったんだろう(欠落部分の字幕化を頑強に拒んでいた脚色の八木保太郎の死後、フィルムセンターでは字幕による経過の解説を加えた。恣意的な読み取りが入っては困るという脚色者の気持ちも分かるが、観客としてはやはりないよりは助かる。欄外の脚注と思えばいい)。前半の明朗スケッチは原案小津お得意のもので、これに陰りを加えるくらいなら自分で監督できただろうが、もの狂いにまで至るとなると松竹のニンではない、と日活に任せたのだろうか。子どもたちの会話、デパートの放送を使ったやり合いのギャグなど快調。でもそこに「金勘定」が忍んでくる。冒頭の轟夕起子の登場からして「日当95銭」なんだけど、明かりの下で、小杉勇が妻の滝花久子と数字をあげて余生の経済設計を立ててるあたりから、ジワジワとくるものがある。成瀬巳喜男も金勘定の好きな監督だったが、あっちは生活感を出す金勘定。こっちは勘定していくほど、実生活がもろく見えてくる金勘定。娘を嫁に出さねば…、息子へ約束したカメラ、家の費用の割り増し、などなど、これらすべて後の夢のシーンに取り込まれていく。ちょっと不気味なのは、帰ってきた娘に「雨が降ってきたのか」と聞くシーン。狂いの予兆なのか、娘がキラキラする服を着てたのか、そのあとで娘は弟に水鉄砲を浴びて(画面には出ないが)実際に服に水がつく設定になってる。まるで小杉が予見していたようで、そこらへんでも何か不気味なものがゆっくりこの家庭を覆ってきつつある雰囲気が出た。で、定年制の導入によるショック。辞令をもらった幻想。会社で重役の椅子に座るなどという欠落シーンは、きっと幻想シーンや出勤シーンなんかが生きてたんだろうなあ。几帳面に机の上を磨いてハンコを取り出すシーンがあったの。
[映画館(邦画)] 7点(2012-03-12 09:54:41)
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