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高橋幸二さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 25
性別 男性
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21.  千年女優 《ネタバレ》 
千年生きるという予言は現実にはありえないが、女優としてなら可能だ。成就することのない虚構世界の恋を、千代子は千年の時空を超えて演じ続ける。 ■千代子は宇宙船のシーンで、ヘルメットに映った呪いの老婆の目の下に、黒子があることに気づいた。永遠に続く因果の呪いを彼女にかけたのは、彼女自身だったのだ。 真の恋の相手には永遠に巡り会えず、スクリーンの中の虚構の恋を永遠に続けることを己に課したという筋書きは、ファンにとっても「永遠の恋人」という虚構であり続けることに通じる。ロケット基地が蓮の花の形をしているのは、彼女がスクリーンの中で永遠に輪廻し生き続けることを象徴しているのだろう。 ■映画はまさに虚構である。時代や舞台が頻繁に変わるのはそれが虚構であることの証左であり、芝居の中にカメラマン二人が入り込むのは彼らがファンだからだ。源也は千代子の熱烈なファンだからこそ、彼女を追っかけ、ピンチには手を差し伸べる。千代子が演じたシーンは、蜘蛛巣城や無法松の一生など映画のオマージュに満ちている。「映画を愛するとはこういうことだ」と、監督が語りかけているかのようだ。 ■「あの人に老いた姿を見られたくない」としてスクリーンから引退した千代子は、まさに映画女優の象徴であり、「ファンに老いた姿を見られたくない」としてスクリーンから引退し鎌倉に隠棲した「永遠の処女」原節子がモデルだという。
[インターネット(字幕)] 6点(2015-05-16 10:29:40)(良:1票)
22.  イングリッシュ・ペイシェント 《ネタバレ》 
ハナとカラバッジョの二人がカナダ人という設定は、イギリスの分国であるからなのはもちろんだが、カナダの持つ国際貢献のイメージをハナに重ねたものと思われる。主要な登場人物である二人が、フランス語を母語とするケベック人であることがさりげなく示され、国家の枠組みにとらわれないコスモポリタンとして登場していることは、元カナダ在住の小生には興味深い。■恋人キャサリンの命が危機に晒されているのに、彼がイギリス国籍でなく姓がドイツ風だという理由で必要な援助を受けられず、それどころか捕らえられ連行までされれば、裏切りたくもなるだろう。ところがキャサリンが死んだことで、裏切りは意味を失くす。自分も死のうと決意するが、飛行機が墜落したあとも死に切れず、記憶をなくした彼は皮肉にも「イギリス人の患者」と呼ばれる。■本作は「不倫を美化しているから受け容れられない」という意見が多いが、主人公らの恋を不倫に設定したのはわざとだろう。なぜなら、不倫は二人にとって夫と友人を裏切る行為であり、それが国を裏切る行為と対比されているからだ。■戦争は国家のために命を捧げる行為だが、アルマシーは不倫相手の命を救うために国家機密を売り、その結果多くの市民と軍人を戦禍に巻き込み、友人と不倫相手の夫を自殺に追い込み、その部下もスパイ容疑で拷問されるという惨事を招く。だがそれほどの犠牲を払ったにもかかわらず、キャサリンは息絶えてしまう。それが、作者が背徳者の二人に与えた報いである。■キャサリンは遺書に「いとしい人、あなたを待っている。外に出れば日差しが強すぎる」と綴った。背徳者の二人には、日の当たる世界に出るのは厳しすぎ、日陰に隠れる生活が相応だと暗示している。だがアルマシーを許したカラバッジョと、誰にでも無償の愛を注いだハナは、最後にアルマシーが見ることのなかったまぶしいばかりの朝を見た。恋人との仲を修復したカラバッジョと、その車に乗り込むハナが、全身に日の光をいっぱいに浴びる映像が大変美しく、彼らに輝かしい未来があることを強く予感させる。それから車は画面の右へ、そして飛行機は画面の左へと消えてゆく。ハナとカラバッジョには現実世界での幸福が、そして背徳者の二人には「地図のない世界」での自由が示される。対称的な両者の人生は、偶然にただ一度交差し、そして反対方向へと向かったのだ。
[地上波(字幕)] 6点(2014-07-06 10:20:30)(良:4票)
23.  ツナグ 《ネタバレ》 
■女子高生の嵐は、学芸会の主役を親友の御園に奪われてしまう。傷ついた嵐は、彼女がいつも自転車で通う道に水を撒き、凍らせて怪我させようと企む。ところが御園は本当に転倒し、車に撥ねられて死ぬ。 ■嵐は、同じクラスの歩美君が生きている者と死者を逢わせる「ツナグ」をやっていることを知り、御園が自分のしたことを知っていて誰かに話されると困るので、一度しか降霊できないルールを逆用し、自分が御園に逢えば彼女はほかの人に逢えなくなると考えた。 ■だが降霊した御園は、何も知らないようだった。嵐は告白できないまま別れる。最後に「歩美君に伝言を聞いて」と言われた嵐は、歩美から「道は凍ってなかったよ」と聞かされる。御園は何もかも承知で、嵐が切り出すのを待っていたのだ。御園は本当は歩美に逢いたかったのに、嵐に謝罪のチャンスを与えてくれたのだった。事態を悟った嵐は、歩美に「朝まで御園のそばにいてあげて!」と叫ぶが、夜明けが来てしまう。死者が降霊できるのは夜明けまでなのだ。 ■まず初めに、降霊してきた御園は歩美に「そのコート、かっこいいね」と言った。すでに死んだ御園にとって、それが口にできる精一杯の愛情表現だった。ところが嵐も歩美にツナグの依頼をしたとき、同じことを口にしたと御園は聞かされる。御園は主役の座だけでなく、歩美のことも嵐に奪われると察知した。御園は別れ際に、歩美に「歩美君は悔いがない生き方をしてね」と言う。死者はその運命を受け容れ、この世に未練を残してはならないのだ。 ■物語は最後に、学芸会「櫻の園」のシーンに至る。嵐演じるラネーフスカヤ夫人は、生家の没落を受け容れられず、ロパーヒンに「行かないで、お願い!」と懇願する。しかし最後には運命を受け容れ、「私の青春、私の幸福。さようなら」と生家に別れを告げ、娘に名を呼ばれると「今行きますよ」と言う。この台詞は本来なら、御園が言うはずだった。「行かないで、お願い!」という台詞は、歩美が着くまで消えないでいてほしい、それが邪悪な思いを抱いて逢おうとした自分のせめてもの償いだとする嵐の心情であり、「私の青春、私の幸福。さようなら」という台詞は、この世への執着を捨て旅立って行く御園の心情と、見事な相似を成している。死んだ者と生き残った者が、それぞれの運命を受け容れて「今行きますよ」と前に進んで行く、その橋渡しをするのがツナグなのだ。
[地上波(邦画)] 6点(2014-05-11 20:04:29)
24.  星を追う子ども 《ネタバレ》 
 キサーゴータミーは、愛する息子に死なれてしまった。彼女は息子の死を受け容れることができず、遺体を抱えながら「この子に効く薬を下さい」と言って回っていた。  彼女はブッダの元にも訪れ、同じことを言った。するとブッダは言った。 「芥子の種をもらって来なさい。ただし、一人も死者を出さなかった家からでなければならない。」  彼女は9日後に戻って来て、言った。 「私はシュラバスティの全ての家を回りました。しかし、一人も死者を出さなかった家は一軒もありませんでした。」  ============   新海誠は「秒速50センチメートル」で、「さよなら」と書いた手紙を渡すことができず、少年の頃の思いを大人になるまで引きずる主人公を描いた。  本作では主人公のアスナが、少年シュンと親しくなるが、彼の唐突な死によって引き裂かれる。しかし地下世界を旅して、森崎先生の亡き妻リサの霊が体に入ると、アスナの霊は肉体から追い出され、死後の世界に行く。そこには死んだシュンとペットのミミがいて、束の間の再会を果たすが、シュンの弟シンがクラヴィスを破壊すると、リサの霊はアスナの体から抜ける。すると死後の世界にいるアスナは、シュンの霊に「行くんだね」と言われ「うん、さよなら」と告げて、元の肉体に戻る。  人には別れがあり、死は避けられないという現実を受け容れることで、人は大人になっていく。「さよなら」と告げるセレモニーを通して、自分にも相手にも別れを言い聞かせることが必要なのだ。  ゆえに、死者の復活を本気で願う森崎先生は、大人になりきれていない。彼は、復活した妻リサにも「さよなら」を告げていない。現実世界を拒否した彼は、地下世界を永遠にさまようことになる。  新海誠はこの次の作品「君の名は。」でも、ガールフレンドが村ごと消滅したのを、タイムラグを利用して丸ごとなかったことにする物語を描いている。彼はいつになったら大人になれるのだろう。   「喪失を抱えて生きることが人の宿命だ」というのが本作のテーマであることは明白だが、それを視聴者にアピールすることには失敗している。主人公には確固たる意思はなく、常に流されていて、常に男に助けられている。何のために地下世界に来たのか動機が曖昧だし、生死の門が崖の下にあるとわかっていても、そこを降りるだけの勇気もなければ、動機もないように思える。最後に現実世界に戻った彼女に、成長したような形跡も見られない。  イザナギ・イザナミの神話をモチーフにした「掴み」は興味深いが、主人公に意思や魅力が乏しく、せっかくのテーマを寓話にまで昇華できていない。キャラクターの造形が某社にそっくりなのはご愛嬌。
[CS・衛星(邦画)] 4点(2020-02-13 14:22:36)
25.  デビルマン 《ネタバレ》 
 原作では、デーモンに憑依されたミーコが、スケバンに脅されおびえるが、服を着て醜いデーモンの姿を隠していても、彼女の内心の怒りに体が反応してしまい、胸から酸を噴射してスケバンを溶かしてしまう。ここではデーモンに憑依された醜い者が善で、人の姿をした者が悪と、善悪と美醜が見事に顛倒しているのである。   それゆえ映画の中でのミーコが、醜い姿をあらわにして怒りを表現するのではなく、翼が生え、魔力を使えるはずなのになぜか日本刀を振り回して(キルビルかよっ!)、スーパースローで残像がスクリーンに映える。そこでススム君が言う。「おねえちゃん、きれいだね」。きれいなものをきれいというなら、それは何事もないだろう。醜悪極まりないものを「きれいだ」ということこそ、「デビルマン」としての意味があるのではないか。役者が渋谷飛鳥では「胸から酸を噴射」は無理だったのだろうか。日本刀ならせめて全身返り血を浴びて帰って来てほしかった。命を守るために戦う女は美しい。    原作にないラストシーンには、多くの批判がある。曰く、デーモンが滅びるほどの最終戦争で、どうして女と子供だけが生き残るのか、と。建物は一切なく、見渡す限り一面の瓦礫。二人とも顔が煤けていて、最終戦争というより、火災現場から脱出してきたようである。最終戦争というからには、女の命としての髪はすべて抜け、皮膚は赤くだだれケロイドだらけになっていなければおかしいだろう。   「どんなことがあっても、生き抜くのよ」。生物はもはやミーコとススム君の二人だけしかいないようだ。選択の余地はない。ミーコはここで醜い裸体を晒し、年端のゆかぬススム君を性行為にいざなうべきである。被爆してDNAは損傷し、しかも彼女は半分はデーモンであり、どんな子供が生まれてくるか想像もできない。それでも命をつないでゆかねばならない。「おねえちゃん、きれいだね」という台詞は、ここで言うべきであろう。それでこそ、エログロを愛した永井豪への最大級の敬意となるのだ。   「悪を倒すための暴力は正当化される」というのが原作者永井豪の突きつけたメッセージだとすれば、「生に対するあくなき執念だけが正当化される」というメッセージを突き返すことができたら、本作は屈指の名作となっていたに違いない。
[DVD(邦画)] 3点(2008-07-29 07:29:15)(良:5票)
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