41. ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ
ふと気がつくと、自分のSNSのタイムライン上には、本作の公式アカウントや、主演女優たちの投稿、そして“彼女たち”のファンのリポストが溢れていた。 能動性と受動性が相まったその情報の流入状態は、まさに“推し活”時のそれであり、「ああ、そうか」と気づく。“ちさまひ”は、既に私の“推し”なのだなと。 これまで、アイドルに対する“推し活”は経験していたけれど、映画やアニメや漫画の作品に登場するキャラクターを“推し”とする「感覚」が今ひとつよく分からなかった。 演じている俳優や声優の“ファン”ということであれば分かりやすいけれど、実在しない架空のキャラクターに対して、尊び、応援するという「状態」がピンときていなかったのだと思う。 のだが、本シリーズ3作目を喜び勇んで劇場鑑賞して、ようやくその「感覚」と「状態」を自分自身のものとして実感した。 作品自体も国産アクション映画として充分すぎる程に面白かったのだが、それ以上に、主人公である“杉本ちさと”と“深川まひろ”の言動そのものが愛おしくて尊かった。ネットスラングで言うところのまさに“てぇてぇ”を、自身の声として初めて発したくなった。 この映画シリーズの世界観らしく、ストーリー展開は良くも悪くもグダグダでユルユルなのだけれど、そんな世界観の中で、二人の女子殺し屋コンビがひたすらにキャッキャとふざけ合い、そしてひたすらに真剣に殺し合うという究極のアンバランスが、“刺激的”を越えてもはや心地いい。 無論そこには、両主演の女優たちの演者としての表現力と、卓越したアクションが確固たる説得力として存在している。 どこまでが台本通りのなのか分からないダラダラとした会話劇を、その会話の性質のままダラダラと演じてなお、そのダラダラとした空気感に我々観客を引き込むということは、実は普通のことではない。 髙石あかりと伊澤彩織の両女優の相性の良さと、映画世界内外を包括するような“バディ感”がその奇跡的な空気感を創出しているのだと思う。 そして、絶対的なアクション描写。スタント出身の伊澤彩織の体技はもはや言わずもがな。実際のところ、彼女は現時点で国内No.1の“アクション女優”だろう。 真田広之の「SHOGUN」によって時代劇をはじめとする日本の娯楽映画文化に注目が集まっている今、もっとこの国の映画界は“伊澤彩織”という才能を重宝し、世界に打って出るべきだと強く思う。 一方の、狂気性と猟奇性が滲み出る髙石あかりのアクション表現にも益々磨きがかかっていて、本作のアクション映画としての質を更に高めていると思えた。 前作「2ベイビー」では、コメディ要素に偏りすぎた印象が強く、主人公たちの「殺人」描写があまりにも希薄でおざなりだったことが大きなマイナス要因だったのだけれど、本作ではコメディ描写はしっかりと押さえつつ、“殺し”は“殺し”として変な忖度なく描き抜いていることが素晴らしかった。 この奇妙な映画世界の中で「殺し屋」として生きる彼女たちのアンビバレントと、それに伴う“陰と陽”が表現されていたと思う。 また、本作においてもう一つ特筆すべきは、最強の敵役を演じた池松壮亮だろう。 個人的に彼の出演作の演技に対してはどちらかと言うと否定的な印象が多く(「シン・仮面ライダー」を筆頭に……)、本作のキャスティングにも懐疑的だったのだけれど、ズバリ「最高」だった。 陰キャで異常な生真面目さを有する孤独な殺人者のエキセントリックな狂気性を見事に体現していた。きっとこのキャラクター性は、俳優池松壮亮の本質にも合致していたのだろう。伊澤彩織と対峙するアクション性も申し分なく、想像を大いに越えて“ハマり役”だったと思う。 ただ一つ苦言を呈するならば、オープニングクレジットとエンドクレジットをもっと凝ってほしいということ。アバンタイトルからのアガるオープニングクレジットや、映画の余韻を爆上げするエンドクレジットがあれば、本作はもっと推し活冥利に尽きる愛すべき作品になっていたと思う。 映画公開と同時に放映されているテレビドラマ版も含め、コンテンツとしての可能性は益々広がっていると思うので、引き続き精力的に“推し”ていきたい。 [映画館(邦画)] 8点(2024-10-13 00:40:52) |
42. ウルフズ
夏頃に購入したApple製品の特典で、Apple TV+の“3ヶ月間無料視聴”が付いているのを知り、年内限定で登録してみた。 ちなみに、動画配信系のサブスクは、既にU-NEXT、Amazonプライムビデオ、Netflix、Disney+と契約しており、完全に飽和状態なので、追加でサービス利用する余地は全く無い。 まず、ブラッド・ピットとジョージ・クルーニーのW主演の娯楽映画(しかも監督はジョン・ワッツ)が、Web配信のみの公開となっている事実に、映画ファンとしては何とも言えないモヤモヤ感を覚える。 どうやら製作を行ったApple Studioと配給を行うソニー・ピクチャーズとの間で、ビジネス的な“調整”が生じたようだが、ハリウッドの大スター二人が揃い踏みするこの手の映画が、その出来栄え以前の問題で劇場公開中止となってしまうことは、とても不幸なことだ。 そこには、映画産業のパワーバランスのみならず、我々観客側の“劇場離れ”が確実に影響していることは明らかであろう。 鑑賞前は、Apple TV+の加入者増加のためのある種の“撒き餌”映画なのだろうと思っていて、実際にその通りではあるのだろうけれど、作品自体は想像以上に真っ当な娯楽映画だったと思う。 業界随一の“揉み消し屋”としてしのぎを削る二人が、ダブルブッキングによって同じ現場に遭遇してしまったことから始まるクライムアクション&コメディ。 ストーリーのテイストや性質的には、過去のハリウッド映画で幾度もなぞられたものにも見えるけれど、そこは御大二人の圧倒的なスター性が独自性を生み出している。 ブラッド・ピットもジョージ・クルーニーも、二人とも60歳を越えて、本作においても“老化”への自虐ネタが随所に挟み込まれるが、それでも世界屈指の“イケオジ”ぶりは流石で、公私とも旧知の間柄である二人のやり取りを見ているだけでもしっかりと楽しい。 90年代以降、彼らが主演する数々の映画に心湧いてきた世代としては、映画世界内外を包括したメタ的要素も多分に加味され、そういう部分も含めて本作のエンターテイメントを心から堪能できたと思う。 とても楽しい映画だったので、当初の企画通り続編も期待したいけれど、願わくばスターたちの映画がきちんと劇場公開され、しっかりと動員されるように、映画産業の最末端を担う一観客として、健全な映画鑑賞に勤しみたい。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-10-13 00:40:14) |
43. 憐れみの3章
或る週末、とてもおぞましくて、気味悪い程に支配的で、あまりにも意味不明な映画を観た。 エンドロールを呆然と見送りながら、殆ど何も理解できていないまま、かろうじて一つの事実には気付いた。 上映時間の164分間、私は暗闇の中で、困惑と好奇が入り交じる感情と共にニヤつきを絶やすことが無かったということに。 そう、結論から言うと、私は、本作に対して明確な「拒否感」を感じつつも、確実に本作の“虜”になっていたのだと思う。 それは、「支配」をテーマにしたこの映画の目論見に、まんまとハマってしまったということだろう。 個人的に、今年(2024年)は、ヨルゴス・ランティモス監督の「哀れなるものたち」に囚われて続けていると言っても過言ではない。それくらい、年初に観た同作は強烈で特別な映画体験だったと言っていい。 その監督、そして同じ主演女優(エマ・ストーン)の最新作が同年に公開される。そりゃあ多少得体が知れなくとも、公開と同時に劇場に足を運ばざるを得なかった。 前述の通り、人間同士の関係性における様々な支配関係を主軸にして、3つの奇妙な物語が綴られる。 エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォーをはじめとする限られたキャストが3篇通じて異なるキャラクターを演じる作劇構造、登場人物たちの奇異な心理描写を軸にした物語構造は、この作品が極めてミニマムで低予算な映画であることを示しているけれど、描き出されたその映画世界はその是非はともかくとして、“ディープ”の一言に尽きる。 当初の構想では、同様の短編が10篇からなる構成だったとも聞くので、本当はもっと果てしなく、常人には理解も表現もしがたい深淵が広がっているのだろう。 あれこれ語って理解したつもりになる程に、自分自身の浅はかさが露呈してしまいそうになる。 ここは一つ、1話目でジェシー・プレモンスが演じる男同様に、己の無力さと、絶対的支配による抱擁と陶酔を甘受しつつ、3話目のエマ・ストーン同様に終わりなき奇怪なダンスを心の中で踊り続けるべきだろう。 [映画館(字幕)] 8点(2024-09-29 11:44:02) |
44. セーヌ川の水面の下に
本作のタイトルのみを見た人のうち、一体どれだけの人が、このフランス映画の正体が“トンデモサメ映画”であることを感じ取れるだろうか。 日本語タイトルだけがふざけているのかと思いきや、原題も同じく「Sous la Seine」、まったくもってどうかしている。 “どうかしている映画”であることは間違いないが、本作は“サメ映画”の映画史的な文脈に沿った見事なB級パニック映画だった。はっきり言って、「絶賛」したい。 トライアスロンの国際大会が行われるパリの象徴であるセーヌ川に、太平洋に生息していたはずの巨大ザメが出現するというザ・トンデモ展開が、まず馬鹿みたいで楽しい。 主人公が海洋汚染を研究する海洋学者だったり、パニックの引き金となる行動を起こすキャラクターが自然環境保護を訴える過激な活動家だったりと、意識の高さと低さが混濁するキャラクター設定もユニークだったと思う。 そして何と言ってもパリ五輪開催の同年にこの映画をぶつけてきたことは、あからさまなオリンピック批判であろう。その是非はともかくとして、アグレッシブなその姿勢は嫌いじゃない。 とはいえお世辞にも完成度の高い映画とは言い難い。 ストーリー展開も、キャラクター設定も、映像表現も、極めて類型的であり、セーヌ川に巨大ザメが大量に出現するという設定以外に特筆すべき点はほぼ無い……映画のラスト5分までは。 ラストの顛末、オチが、本作の“トンデモサメ映画”としての価値と独自性を爆上げしている。 それは環境破壊による海洋汚染を引き合いに出した本作に相応しい終末だった。 きっとこの映画の世界線では、700年後、宇宙飛行士のチャールトン・ヘストンが「鮫の惑星」に降り立つだろう。そして、上昇した水面からわずかに飛び出たエッフェル塔の先端を発見して咆哮することだろう。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-23 10:56:27)(良:1票) |
45. 終わらない週末
今世界は、疑心暗鬼に満ちている。 自分以外の“他者”が、いつ、いかなる理由で「攻撃」をしてくるか分からない時代。人々は常にビクつき、防衛本能をフル稼働せざるを得ない。 どうしてこんな世界になってしまったのか。国家レベルから、一個人レベルに至るまで、私たちは息を詰まらせて苦悩している。 或る家族が急に思い立ったバカンスを過ごすためロングアイランドの別荘地に向かうところから本作は始まる。当然のことながら、何の危機感も感じていない普通の家族が、突如として「異変」に放り込まれる。 この唐突さこそが、今この世界に孕む危機の本質なのだろう。 災害にしても、パンデミックにしても、戦争にしても、テロにしても、一般市民に対する実害は、何の前触れも無く突然降りかかる。無論、適切なタイミングなど計ってくれるわけもなく、休日だろうが、深夜だろうが、徹夜明けだろうが、私たちは、今この瞬間にも命の危機を突きつけられてもおかしくないのだ。 いずれにしても、いざそういう状態になってしまったとき、人間はどのような対応を迫られるのか、そしてどのような対応ができるのか。 本作に登場する二つの家族の人間たちはみな善人であり、恐怖に包まれパニックに陥りながらも、人間らしい言動に努めているけれど、それでも発言や行動の端々にその人の本質が表れる。 自分や家族を守るための虚偽や卑怯や暴力は、一体どこまでが罪なのだろうか。 終盤、“隣人”の恐怖を象徴するような存在としてケビン・ベーコンが登場するけれど、果たして彼の言動を誰が断罪できるだろうか。彼にも娘がいて、守るべき家族があるのだ。 私自身、家を持ち、守るべき家族がいるけれど、本作で描き出されたような「分断」が本当に起きてしまったとき、どのような思考で、どう行動できるのか。自分自身に対して、それこそ疑心暗鬼になってしまう。 恐怖の正体が見えないとても居心地の悪い映画世界は、冷戦時代に製作された数々のスリラー映画を彷彿とさせた。 それは冷戦時代に世界に蔓延していた危機感、焦燥感が、今現在の世界と社会に重なることを雄弁に物語っている。 平穏な「週末」が、世界の「終末」に直結するかもしれない只中で、今私たちは生活している。 本作が、何十年か後、「こんな時代もあったね」という教訓や思い出話と共に“発掘良品”的に鑑賞される日が訪れることを心から願う。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-09-23 10:54:07)(良:1票) |
46. グランツーリスモ
同名の“ゲーム”はプレイしたことはなく、ゲームファン向けに製作されたプロモーション色の強い映画なのだろうと高をくくって、劇場公開時は完全にスルーしていたのだが、ネット界隈の各映画レビューの評価がこぞって高く、気になっていた。 個人的に自宅リビングのテレビを買い替えたので、グレードアップして大きくなった画面での初の映画鑑賞を何にするか思案した結果、本作をチョイス。結果、最適な選択だったと思う。 まず端的な所感としては、想像以上に王道的なスポ根映画であり、レーシング映画だったなと思う。 “ゲームの映画化”という表面的なレッテルを貼ってしまっていたのか、もっとリアリティを度外視したぶっ飛んだ映像表現だったり、破天荒なストーリー展開が繰り広げられるのかと思っていが、しっかりと地に足のついた映画世界が構築されていた。 よく考えてみればそれは至極当然のことで、本作は実際にゲーマーからプロレーサーになった実在の人物ヤン・マーデンボローを描いた作品であり、現実の彼の成功譚をベースにして描いているのだから、リアリティラインが「現実」から逸脱することなく、真っ当に描き出されていたのだと思う。 併せて、ゲームに対して門外漢の僕には、「グランツーリスモ」というゲームの性質そのものに対する無理解が大いにあったのだと思う。 すなわち、このゲームは単なるレーシングゲームではなく、“レーシングシミュレーションゲーム”であるということ。 劇中主人公の台詞でも言及されている通り、このゲームは現実のレースを極限まで追究し、仮想現実に近いゲーム世界を構築していくことで、全世界的な人気シリーズになったということを、レースゲームと言えば「マリオカート」しかやったことがない僕は全く理解していなかった。 この題材自体が、実は極めて現実的で堅実なものだったということを、本作を実際に観てようやく理解した。だからこそ本作はとても王道的で真っ当なスポーツ映画として昇華されていたのだと思う。 また、スポーツ映画としての王道をしっかりと敷いた上で、唯一無二のレーシングシミュレーションゲームの映画化という要素を最大限活かし、映像的にも創意工夫をこらした表現が成されていた。 レース中における主人公や競争相手の車体の位置や順位、ラインをゲーム的に表現し、直感的な分かりやすさを実現したことは、この映画だからこそ可能な映像表現だった。 評判通り、満足度の高いレーシング映画だったとは思う。ただしその一方で、映画ファンとしては一抹の消化不良も残る。 それは本作の監督があのニール・ブロンカンプであるということ。 「第9地区」で一躍世界的成功を収め、その後も良い意味でも悪い意味でもアクの強いSF映画を生み出しているこの映画監督の作品として、本作はあまりにも“フツー”過ぎた。 実話ベースの映画製作において極端な“コースアウト”は無論避けるべきだったのだろうけれど、それでももう少しアクの強いキャラクター造形や、歪なストーリー展開が、この映画監督であればできただろうし、本当は彼自身やりたかったアプローチがあったのではないか。 才気ある映画監督が、スケールアップするキャリアの変遷に伴い、様々なしがらみによって低迷していくことはとても多い。ニール・ブロンカンプ監督がこの先再び自身のアイデンティティを貫く独創的な映画世界を構築できるかどうか、彼自身クリエイターとしての“分岐点”に立っているように感じた。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-22 08:32:55) |
47. ビートルジュース
ティム・バートン監督作として無論認識はしていたし、印象的な作品ジャケットのビジュアルも記憶に焼き付くほど目にしてきた作品だが、この度初鑑賞。ハロウィーンをひと月後に控える初秋に観るには適したホラー・コメディだった。 ティム・バートンのフィルモグラフィーから見るに、本作は彼にとって最初のヒット作と言えるようで、明らかに低予算ながらもしっかりとこの奇才監督の世界観が反映されていた。 味わい深いミニチュアによる画づくりや、奇怪なクリーチャーの造形、そして“ガイコツの花嫁”など、彼がこの後に生み出す膨大なクリエイティブの源泉が、本作において既に満ち溢れていた。 正直なところストーリー展開を楽しむというよりも、次々に飛び出してくる奇々怪々のユニークやおぞましさを純粋に堪能すべき映画世界であり、その点においてもティム・バートンの創造の源という印象が強い世界観だと言えよう。 キャスト的にはやはりマイケル・キートンのエキセントリックなキャラクター表現が印象的。この名優のキャリアとしても、本作の出演がその後のキャリアアップの契機となっているようで、スタンダップコメディアンらしい“しゃべくり”を駆使して、強烈な怪演を見せている。 個人的には、若きアレック・ボールドウィンの風貌も印象的だった。近年の恰幅の良さからは目を疑うようなスマートな風貌は、まるでクリス・ヘムズワースとクリス・エヴァンスのアベンジャーズコンビを足して2で割ったような印象を覚えた。 そしてもちろん、少女時代のウィノナ・ライダーのアイコニックな魅力も、本作に華を添えていた。 想像以上に楽しい映画世界だったので、公開間近の“まさかの続編”も観ようと思う。 僕自身は、本作に対して完全な“にわか”だけれど、36年の年月を経て果たされるビートルジュース(マイケル・キートン)とリディア(ウィノナ・ライダー)の邂逅は、世界中の映画ファン、ティム・バートンファンの胸を熱くさせることだろう。 P.S.本作の日本語吹き替え版では、ビートルジュース役を西川のりおが演じたらしい。何だそりゃ、観たすぎるやろ。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-21 08:38:10) |
48. 101匹わんちゃん
物心ついた頃から、ディズニー映画は録画されたVHSが擦り切れるほど観てきた。 「白雪姫」から昨年の最新作「ウィッシュ」に至るまで、ディズニー長編アニメーション映画の主だったところはほぼほぼ鑑賞してきたのだけれど、どういうわけか「101匹わんちゃん」を四十路を越えた今に至るまでスルーしていた。 幼少時に母が用意してくれたビデオコレクションの中に、本作が含まれていなかったことと、「単に101匹のダルメシアンが騒動を繰り広げる映画だろう」という表面的な先入観が、歳を重ねるほどに興味が離れる要因となっていた。 先日鑑賞した、本作に登場するヴィラン“クルエラ”の若き時代を描いた実写映画「クルエラ」が、自分の想像以上にフェイバリットな一作となったので、ようやくそのオリジンの鑑賞に至った。 ディズニーアニメ映画史の時代的には、「眠れる森の美女(1959)」と「王様の剣(1963)」の間に位置する本作。この両作は逆に何度も観た作品だったので、まず本作の作画の風合いにとても懐かしさを覚えた。 そしてこの時代のディズニーアニメーションの芸術性の高さに、改めて感嘆した。 無論すべてが手描きの作画であり、現代のアニメ技術の精巧さとはまったく別物、その性質は乖離している。だからこそ生まれる“画”そのものの味わい深さが堪らない。 言語化が難しいが、とても芸術性の高い“絵本”が動いている感覚で、アニメーションであることを認識しているはずなのに、映し出されるその現象がとても不思議に思える。そこには、まさにディズニー映画による“マジック”が存在していることを実感した。 全編通してアニメーションのクリエイティブは素晴らしいが、特に白眉だったのは、「明かり」の表現。当時のロンドンの街並みの中で光るネオンサインだったり、一つ一つの住宅に灯される明かりの表現が今の感覚で見ても、とても素晴らしく、見事だった。 そして当然ながら、“101匹のダルメシアン”を一匹一匹を個性的に描き分けて、同時に躍動させるそのアニメーション力にはシンプルに舌を巻いた。99匹の子犬たちが雪崩のように逃げ回り、走り回るシーンなど、現在に通じるディズニーアニメの真骨頂だと思う。 また、主人公のダルメシアン家族をはじめとする動物たちのアクションが楽しい作品ではあるが、人間のキャラクターの造形や言動も娯楽性に溢れていた。 やはり前述のヴィラン“クルエラ”を筆頭に、悪党一味たちの描写が特に見事だった。ダルメシアンたちを執拗に追い詰めるその恐ろしさと、随所に見せる本質的な滑稽さのバランスがこれまた素晴らしかった。 長きディズニー映画史の中でも「名作」という呼称に相応しい作品だったと思う。 「ピーターパン」や「ダンボ」と同様に、幼少時からVHSを繰り返し観ていたならば、きっと本作もフェイバリットな一作になったに違いない。 [インターネット(吹替)] 8点(2024-09-21 08:35:10) |
49. クルエラ
ずっと観ようと思っていた本作をようやく鑑賞したことで、エマ・ストーンは個人的に今年最も印象的な俳優となった。もともと大好きな女優の一人だったけれど、今年のはじめに観た「哀れなるものたち」の“ベラ”の衝撃性は今なお薄れることなく、本作 の彼女のパフォーマンスがそのインパクトをさらに複合的に増強させたと思う。 ディズニー映画は古典も含めて小さい頃から“ほぼすべて”と言っていいほど鑑賞してきていたのだが、なぜか「101匹わんちゃん」については未鑑賞のまま四十路を越えてしまっていた。 さらには、本作の一応の後日談と関連づけられるグレン・クローズ主演の「101」と「102」も完全スルーとなっていて、必然的にディズニー映画のヴィランを代表する一人でもある“クルエラ・ド・ヴィル”というキャラクターに対する知識がほとんど無かった。 そのことが、観よう観ようとこの数年間思いつつ、つい後回しにしてしまっていた要因かもしれない。 長々と言い訳めいたくだりを綴ってしまったが、つまるところ、もっと早く本作と“クルエラ”というキャラクターを堪能するべきだったという話である。 近年ディズニー映画やアメコミのヴィランを単独で描いた作品は数多く製作されているけれど、ヴィランの前日譚として、これほどまでにエキサイティングで、ファッショナブルで、エモーショナルな映画は他にないと思えた。 何を置いても、“クルエラ”というディズニーヴィラン界きってのアイコンを演じたエマ・ストーンの表現と立ち振舞のすべてが最高だった。 本作は、過酷な運命を背負った少女が、悪意と虚栄まみれのこのクソ美しい世界で生き延び、成長し、自らが孕む才覚と狂気性のみで“生き残る”という人生賛歌だと感じた。 エマ・ストーンはその主人公像を、あらゆる表情と、あらゆる声色と、あらゆる出で立ちで体現し、映画内外の大衆を魅了している。彼女の存在を観ているだけで終始心の震えを覚える感覚。そこには映画世界を超越した絶対的悪女の「支配力」があった。 後悔と絶望、希望と復讐を経て、元々“エステラ”という名だった少女は、“クルエラ”として文字通り“生まれ変わる”。 ブラック&ホワイトの奇抜な髪色は、アンビバレントな彼女自身の人間性と、闇と光、汚れと美が混濁するこの世界そのものを象徴するものだった。 おそらくは、本作を鑑賞した人たちの心象も、相反していたり、全く異なる感情を持つこともあるだろう。実際、アニメ映画の実写化だったり、勧善懲悪のダークヒーロー映画だったり、究極のファッション映画だったりと、様々な側面を持つ作品である。 いずれにしても、その「多様性」こそが、本作が導き出すテーマの本質なのだと思う。(そのテーマ性も「哀れなるものたち」に通ずるものを感じる) 兎にも角にも、僕にとっては、個人的な趣味趣向にダイレクトに突き刺さるフェイバリットな一作となったことは間違いない。 [インターネット(字幕)] 9点(2024-09-16 00:06:03) |
50. 犯罪都市 THE ROUNDUP
韓国が誇る世界的豪腕俳優、マ・ドンソクが、ビジュアル的な印象そのままに腕っぷしのみで凶悪犯を叩きつける型破りな刑事を演じるアクション映画第二弾。 前作の流れや脇役・端役のキャラクターたちもそのまま踏襲し、二作目にして“ジャンル映画”としての立ち位置を確立している。 このあたりのテイストが、昭和時代に量産された日本のジャンル映画の娯楽性ととても類似してて、昭和娯楽映画好きとしては大変楽しい。時代が違っていれば、日本の警察組織やヤクザ組織から菅原文太や高倉健が登場しそうだ。 世界的に“アクションスター”というポジションが軽視され、脇に追いやれ気味である昨今、個性的にすぎるキャラクター性を発するマ・ドンソクという俳優の存在感は、やはり唯一無二であり、貴重だと思える。 今作でもそんな豪腕俳優が、文字通り所狭しと暴れまくる。ベトナムの狭いアパートの一室での攻防や、路線バス内での最終決戦など、この俳優の巨躯に対して敢えてあからさまに狭い舞台設定をチョイスしているのがまた面白い。 とはいえ、主人公自身はあくまでも所轄の警察署の一刑事に過ぎないので、対峙する悪役も超凶悪ではあるけれど、それほど巨悪というわけではない。故にストーリー的にも極端に大仰にならないことが本シリーズの特徴でもあろう。 ストーリーを振り返ってみれば、所轄刑事と地元のヤクザものとの丁々発止に終止するのだけれど、鑑賞中はそれを忘れさせる「圧力」に圧倒される。 無論その「圧力」は、主演俳優のそれがそのまま映画世界全体に反映されていることに他ならない。 シリーズ作も続々製作されているようなので、豪腕俳優の活躍をまだまだ楽しみたい。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-09-08 23:46:35) |
51. 落下の解剖学
男は事故死したのか、自殺したのか、それとも殺害されたのか。その真相は、主人公である女性(作家であり妻であり母親)の胸中で静かに眠る。 まさに「真相は藪の中」。黒澤明監督の「羅生門」よろしく人それぞれの見え方や、考え方、捉え方によって、複数の「真実」めいたものが浮かび上がっては、食い違い、先の見えない藪の中に追い込んでいく。 “羅生門方式”でストーリーが展開される作品だが、個人的には、1961年の日本映画「妻は告白する」を思い出した。登山中にザイルを切って夫を死に追いやった妻の行為が、やむを得ない事故だったか、故意の殺人だったかを追求するサスペンス映画で、主演の若尾文子の演技が強烈だった。 今年鑑賞した韓国映画「別れる決心」や、西川美和監督の「ゆれる」も、同様の手法で、主要人物が孕む「本心」が、捜査や裁判を通じて詳らかにされ、真相が明らかになるという展開は共通している。 ただし、本作の場合、そういうストーリー展開の性質は類似しているけれど、本当に描き出したいテーマはまったく異なっていたとも言える。 そこには、一人の女性が孕む「本心」以上の、彼女を取り巻く人間関係や家族関係の本質、もっと言えば現代社会の本質的な病理がにじみ出ていたように感じた。 人間一人ひとりが抱える本心や感情は、決して一つの側面で捉えられるものではない。人間同士分かりあえているつもりでも、交錯しているのはほんの一点で、大部分は乖離し、平行線を辿るのが常なのかもしれない。 本作において、フランス語と英語が行き交う法廷劇は、真実と疑念が交じっては行き違うこの社会の構図を巧みに表現していたのだろう。私自身は、語学力の乏しい日本人なので、その様を字幕で追うしかなく、おそらく本作の脚本の根幹的な価値を汲み取りきれていないのだろうなと、少し悔しい思いがした。 交わらない価値観は、事件の“第一発見者”である主人公の一人息子が視覚障害者であることでも、巧みで描き出されている。 彼が見えていないものと、彼が感じ取れるもの、そして導き出された“より良い”結論。その変遷こそが、この映画のストーリーの肝でもあり、他の映画にはないソリッドな情感と、言葉に言い表せない余韻を生み出しているのだと思う。 前述で例に出した過去の類似作の多くが、男女の愛憎を描き出しているのに対して、本作がたどり着くテーマ性が全く異なるのも、まさにその息子の存在に所以する。 対象となる事件のあらまし、そして法廷劇の争点は「夫婦」の関係性に焦点を当てられるけれど、そのもっと奥に存在していたものはこの家族全体が抱えていた綻びだった。 主人公の“母親”は、終始一貫して息子を愛する気持ちを表現していて、もちろんそれは彼女の「本音」だろうけれど、果たして深層心理にそんざいしていた感情はどういうものだっただろう。息子に対して何か疎ましい思いや、嫉妬、ジレンマみたいなものがなかっただろうか。そもそも、この母と子には健全な“絆”があっただろうか。 映画を振り返ってみると、各シーンの端々に、彼らの親子関係に小さな疑念を覚える言動や空気感が見え隠れしていたことに気づく。 いずれにしても、この母と息子は、きっと元には戻れない。それぞれが“藪の中”の真実をひた隠し、別々に眠り、人生を歩んでいくのだろう。主人公はそれすらも実は覚悟していたようにも思えてくる。 そして最後に、この物語の真実を最も如実に表してた存在に気づく。飼い犬の“スヌープ”である。 冒頭の現場検証時、そして最後のカット、彼が“主人”として認識し、寄り添っていた対象がが誰だったか。それは、本作の“支配者”を暗に指し示していたのかもしれない。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-09-08 00:50:24)(良:1票) |
52. バニー・レークは行方不明
《ネタバレ》 長年観たかった映画をようやく鑑賞。兄妹の哀しき異常性がおぞまくしも切ない。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2024-08-16 23:46:10) |
53. リメンバー・ミー(2017)
“死後の世界“を描いた作品は、古今東西多々あるけれど、メキシコ文化のそれは新鮮で芸術的だった。 ディズニーは近年、多様な人種や民族をルーツに持つ主人公を創造し、新たな価値観や世界観を携えた物語を多数生み出している。それは“大帝国“ディズニーだからこそ取り組めるクリエイティブであり、今追求するに相応しい使命だろう。 秀麗なアニメーションによる映像美は見事だったけれど、描きされるストーリーとキャラクター造形は、鑑賞後よくよく考えると、類型的で浅はかな印象が残った。 特に腹に落ちなかったのは、「悪役」とされるキャラクターにおけるアンバランスさだった。 結果的に主人公の曾々祖父さんを殺したヴィランであることは間違いないし、断罪されるべきキャラクターであるけれど、同時のこの悪役キャラクターの存在が、主人公の音楽に対する憧れやリスペクトの象徴であった事自体は揺るぎない事実だ。 かつてバディだった曾々祖父さんの音楽を盗用した盗人であり、殺人者ではあるが、この悪役がプレイヤーとしては超一流であったことは否定できない。 そうなってくると、死後の世界まで押しかけて、その悪事を陽の下に曝け出す事自体が、なんだかすっきりしない。功罪の振れ幅があまりにも大きすぎて、一人のキャラクターの中に収めるには無理があるように思えた。 この悪役自身、大鐘に押しつぶされるという実はかなり残酷な死に方をしているわけで。 もう少し適度なバランスのキャラクター設定があったのではないかと思える。 [地上波(吹替)] 6点(2024-08-16 23:44:43) |
54. ミニオンズ フィーバー
本来の主人公グルーを差し置いて、すっかりと世界的なキャラクターとして定着した“ミニオンズ“。一昨日開幕したパリ五輪の開会式においても、割と長尺の時間を使って、開会式用にオリジナル制作されたミニオンズのアニメーション場面が映し出されていたことからも、このキャラクターたちが確固たる“世界的地位“を得ていることは明らかだろう。 本作は、グルーの幼少期の1970年代を舞台にして描かれる。人々のサイケな服装や、オールディーでキュートなデザインのガジェットが溢れていて、本シリーズの造形や空気感にとてもマッチしていたと思う。 ミニオンズたちが誘拐された少年グルーを救い出すために、カンフーマスターに師事してハチャメチャなアクションを繰り広げる様もユニークだった。 そもそも鑑賞者が理解できる言語を有さないキャラクターが主役の映画なので、ストーリー性を求めること自体ナンセンスだと思うが、それでもミニオンズたちのユニークな言動のみで「娯楽」を構築し、ストーリーを紡ぎ出していたと思う。 このあたりのアニメーション表現は、「トムとジェリー」の時代から、スラップスティック・コメディを追求してきたアメリカアニメの真髄だろう。 少年グルーがなぜこれほどまでに悪事に信奉しているのかは、相変わらず不明確だけれど、黄色い謎の生物たちが織りなすエンターテイメントの力のみで押し通す力技は嫌いではない。 [地上波(吹替)] 6点(2024-08-16 23:43:13) |
55. アステロイド・シティ
結論から言うと、好きな映画だと言っていい。 メインストーリーを極彩色豊かな劇中劇として映し出し、舞台劇のように描き出した現実描写を挟み込んだ入れ子構造は、意図的に難解で、映画世界に没頭しづらい。 けれど、その感情移入のしづらさそのものが、本作におけるウェス・アンダーソン監督の思惑でもあり、最終的には彼の生み出した世界に心地よく包みこまれていたことに気づく。 30年以上に渡ってハリウッドの第一線で、偏執的なまでの自分の世界観を描き出し続けるウェス・アンダーソンのクリエイティブがとにかく素晴らしい。 1955年のアメリカ南西部の砂漠の中の小さな街を舞台にしたストーリーテリングには、当時のアメリカ社会を投影した様々な要素が盛り込まれている。 エスカレートしていく冷戦を背景にした軍拡前提の科学者育成、女性蔑視が色濃く残る社会や、その中で苦悩する人気女優。揃いも揃って風変わりな登場人物たちが、実は孕んでいる人生模様の中で、そういった要素が、割とダイレクトに表現されていた。 映画作品の文脈として特に興味深かったのは、同時期に製作・公開されたであろう「オッペンハイマー」との類似性だ。 砂漠の中の小さな街“アステロイド・シティ”の舞台設定は、「オッペンハイマー」で原爆開発のために作られた街“ロスアラモス”ととても似通っていたし、キャラクターたちの人生観においても、共通要素があったと思う。 公開時「オッペンハイマー」と対峙するように話題となった「バービー」の主演マーゴット・ロビーが出演していることも興味深い関連性だろう。 と、時代設定を背景にして色々な社会的要素を詰め込み、宇宙人も登場するハチャメチャな映画世界ではあるけれど、その一方で本質的なテーマはシンプルだ。 詰まる所、主人公である父親とその長男である息子の視点を主軸にした、妻(母)を亡くした父子の喪失とリスタートの物語だったのだと思う。 おそらくは、主人公の父子も、劇中劇を演出する監督や脚本家も、ウェス・アンダーソン監督自身の自己投影であり、やっぱり本作は首尾一貫して、彼の極めてパーソナルな心象風景を描き出した映画世界だった。 描き出された時代背景や、物語構造を推察して様々なテーマ性を考察することも一興だろうし、思考を止めてただただお洒落な映画世界をファッション誌をめくるように堪能することも、本作の正しい観方だろう。 脳天気なコメディにも見えるし、シニカルなブラックコメディにも見えるし、社会性を踏まえた重い悲劇のようにも見える。鑑賞者によっては、傑作にも、凡作にも、駄作にも見えるだろう。 そういった様々な側面を踏まえて、とても懐の深い映画だと思える。 [インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 10:12:35)(良:1票) |
56. マッドマックス:フュリオサ
衝撃の“Fury Road”からはや9年。究極の“行きて帰りし物語”を文字通り牽引したキャラクター“フュリオサ”の前日譚は、世界中の映画ファンが待望していたことだろう。 前作でシャーリーズ・セロンが演じた、この映画史上に残る女性キャラの若かりし時代を、今度は、現在のハリウッドを代表する“ミューズ”の一人と言って間違いないアニャ・テイラー=ジョイが演じる。そりゃあ、高揚感は是が非でも高まるというもの。 結論から言ってしまうと、ずばり主演女優アニャ・テイラー=ジョイの“眼力”で押し通した映画だった。 前作に引き続き圧倒的に破天荒な終末世界が展開されるけれど、最終的に印象に残ったのは、各シーンにおける彼女の“眼差し”のみだったと言っても過言ではない。だが、それで良いし、それが良かったと思える。 前作がただただシンプルに行って帰ってくるストーリーだったように、本作はその表題に相応しく、あらゆるものを奪われ失った一人の少女“フュリオサ”の「復讐心」のみを表現した映画だったと思う。 故郷から引き離され、母を奪われ、人生を奪われ、そして腕を奪われたフュリオサが、復讐心の一念のみで生き続け、仇とこの世界に対して逆襲をしかける。そのシンプルで、ある意味純粋な感情が、主演女優の眼差しに宿り、明確なエンターテイメントして確立されていた。 アニャ・テイラー=ジョイは、全世界のボンクラ映画ファンが期待を最大限高めた役柄に対して、その眼差し一つで見事に応えてみせたと思う。 彼女のファンとして、とても満足度の高い映画であったことは間違いない。そして、「マッドマックス 怒りのデスロード」の前日譚としても申し分ない作品だった、とは思う。 ただその一方で、「ああ、紛れもない前日譚だったな」という印象は拭えない。それはこの作品の立ち位置として全く問題無いことではあるけれど、前作以上の映画的パワーがあったかというと、そこは当然ながら「NO」と言わざるを得ない。 本作をIMAXシアターで鑑賞したその日の夜、前作「マッドマックス 怒りのデスロード」を自宅で再鑑賞した。 劇場鑑賞以来9年ぶりの鑑賞だったが、やっぱりその強烈すぎる映画世界に改めて驚愕した。 ああ、そうだ、こんなにもイカれた映画だったと思い出した。 すると、昼間に観たこの最新作の印象が極端に薄まってしまっていることに気づいた。 前作と同じくジョージ・ミラー監督が手掛けた同じ世界観の映画作品のはずだし、製作規模的にも極端に目減りしている印象はないのだが、何か絶対的な“物足りなさ”を覚えていた。 それが具体的に何なのか明確には言語化できないけれど、前作と直接比較した所感としては、作品に対するもう一歩踏み込んだ「情念」や、ディティールに対する偏執的な「執着」が、ほんの少しだけ希薄に感じられた。 そう、詰まる所、前述の“イカれ”具合そのものが足りていなかったということなのかもしれない。 自宅で鑑賞した前作のBlu-rayに収録されていた特典映像を観ていくと、ジョージ・ミラー監督をはじめとする製作陣が、本当に嬉々として、自分たちが大好きな世界観の創造に没頭していることがよく分かる。 無論、本作においてもその情熱に陰りは無かっただろうけれど、全世界でカルト的人気を築いたオリジナルシリーズから30年の時を経て、製作された前作には、もっと無謀で、もっと純粋なチャレンジ精神が溢れかえっていたのだろう。 とはいえ、繰り返しになるが、「前日譚」として本作のテイストと仕上がり自体は、正解であり、成功していると思う。 御大シャーリーズ・セロンに負けず劣らず、若かりしフュリオサを体現してみせたアニャ・テイラー=ジョイは見事だったし、もっと彼女のフュリオサを見たいという気持ちは強い。 前日譚に続編があっても全然問題ないと思うので、引き続き彼女がこの先どう人生を送り、闘い続け、“Fury Road”へ向かう「決心」へと繋がっていくのか。是非観てみたい。 [映画館(字幕)] 8点(2024-06-02 18:37:48) |
57. デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章
《ネタバレ》 原作漫画の第一巻を購読したは、ちょうど10年前。その後単行本を6巻まで買い進めたところで、購読がストップしていた。そして今年アニメ映画化された本作の「前章」を鑑賞。前章で描かれたストーリー展開は、ほぼ原作で読み進めていたところまでだったが、ラストは映画独自の前倒し展開もあり、「後章」への期待が最大限に高まっていた。 「後章」の鑑賞前に、未読だった単行本の残りを最終巻まで読み切ってしまおうかとも逡巡したけれど、「前章」のアニメ映画としての出来栄えは想像以上に素晴らしかったので、このまま原作漫画の結末を知らぬまま、映画作品としての「後章」を堪能しようと思い至った。 ……実はこの映画レビューを書き始めた時点では、既に単行本を最終巻まで買い揃えて、原作を読み終えている。 そのことを踏まえて、映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」に対する結論をまず言ってしまいたい。 正直、「残念」の一言に尽きる。 アニメーション作品としての全体的なクオリティは、「前章」と同様に精度が高く素晴らしいと言っていい。作画的な素晴らしさは勿論、やっぱり特筆して良かったのは、二人の主人公を演じた幾田りら&あのちゃんの表現力だろう。漫画作品のアニメ化として、そのクリエイティブにおいては間違いなく成功していたと思う。 だからこそである。もう一度言うけれど、「残念」だ。 浅野いにおによる原作漫画を読み終えた後では、この「後章」に対して、「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の漫画世界を描ききっているとはとてもじゃないが言い難い。 単行本の最終巻(12巻)を読み終えた瞬間、ちょっと整理がつかない「呆然」とした脳裏の中で渦巻いたものは、独創的なSF青春群像劇の帰着に対する充実感と、映画の結末に対する圧倒的な不可解さだった。 映画の結末は原作と異なるということは知っていたし、漫画と映画という性質がことなる媒体において表現方法やアプローチに差異が生じてしまうことはある程度仕方のないことだとは思う。 それにしても、何故、どうして、原作漫画の最終巻をほぼ丸ごとカットしてしまうという「暴挙」に至ってしまったのか。 原作漫画の後半の顛末を未読状態で「後章」を観終えた後も、「ああそういう終わり方なのか」と、いくばくかの尻切れトンボ感はあった。 世界の終末と多元宇宙を描き、大風呂敷を広げたストーリーの収束としては、やはり物足りなかったし、この映画の結末をハッピーエンドと捉えるべきなのか、それともバッドエンドと捉えるべきなのか、とてもモヤモヤした感情が残った。 原作漫画ではもう少し納得のいく結末があるのかもしれないと読破し、前述の「呆然」に至る。 そこにあったのは映画の結末に物足りなかった“ストーリーの収束”どころではなかった。 少女から大人になる“彼女たち”の過程における“ありえたかもしれない未来”、または、“今この現実の裏側に何層にも存在する別の現実”、そのすべてに存在する“彼女たち”の刹那的な輝きが溢れ出していた。 見紛うことなき世界の終末と、一人の少女の中に存在する多元宇宙の中で、無限に広がる彼女たちの絶望と希望に打ちのめされた。 それは、この物語が終始描き連ねてきた醍醐味であり、「見事」と言っていいSF的な帰着だった。 というわけで、原作漫画を読んでしまい、その結末に衝撃を受けてしまった以上、それを「無視」してしまったこの映画を評価するわけにはいかなくなった。 どういう意図や経緯で、「後章」の結末に至ってしまったのか、そうせざるを得なかったのかは知る由もないけれど、もし可能性が少しでもあるのならば、「新章」として原作の結末をこのアニメーションで描ききってほしい。と、切望する。 [映画館(邦画)] 6点(2024-06-02 18:36:00) |
58. シティーハンター(2024)
体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。 男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。 苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。 また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。 兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31) |
59. 劇場版 からかい上手の高木さん
「からかい上手の高木さん」は、原作を長らく漫画アプリで無料で読んでいたのだけれど、四十路を超えた立派なおじさんである私は、次第に二人が織りなす甘酸っぱさと眩しさにたまらなくなってしまい、先日ついに単行本を購入し始めた。 動画配信サービスでも観られるTVアニメシリーズも気になってはいたのだけれど、アニメシリーズを観る習慣があまりないので、スルーしてしまっていた。 この劇場版で同作のアニメーションを初めて観て、瑞々しい二人の日常がアニメで観られる事自体は嬉しかったけれど、世界観の性質上、やはり長編作品には向いていないかもなという印象を覚えた。 原作自体がショートストーリーの連作なので、やっぱりアニメシリーズで展開される方が適していたのだろう。 授業中に教師の目を盗んでコソコソとするやり取り、放課後に一緒に帰る時間、休みの日に偶然出会った束の間、そんな短くて他愛もないささやかな“時間”を、丁寧に描き、連ねているからこそ、原作漫画は、何にも代え難い“価値”を創出しているのだと思う。 私自身の中学生時代に、彼らのようなキュートな記憶は無いはずだけれど、それでも遥か遠くに過ぎ去った大切な時間に思いをめぐらし、高木さんの“からかい”に対して西片目線でドギマギするのも悪くない。 [インターネット(邦画)] 5点(2024-04-28 23:39:41) |
60. ドミノ(2023)
《ネタバレ》 「インセプション」や「マトリックス」をはじめ、“既視感”は否定しないけれど、ロバート・ロドリゲス監督らしい良い意味でも悪い意味でもB級テイストに振り切った映画作りには潔さを感じるし、好感が持てる。 巨匠監督の作品や超大作に出演すればしっかりと存在感を放つ役どころを演じる一方で、こういうジャンル映画でもある意味きちんとそのレベルに合った主人公像を演じるベン・アフレックは、やっぱり信頼できる映画俳優だと思う。 娘の“眼力”一発で、すべてを納得させてみせたことで、このトンデモ映画はちゃんと成立している。 [インターネット(字幕)] 7点(2024-04-28 00:10:35) |