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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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41.  逆転のトライアングル
とどのつまり、人間社会というものは、「格差」とそれに伴う「階層」を取り払うことなんてできない、ということを本作の終着点における虚無感は物語っている。  現代社会において、全世界的に“格差の是正”が問題提起されていたり、幅広い要素での“ポリティカル・コレクトネス”がともすれば病的なまでに声高に叫ばれている昨今ではあるけれど、果たしてそこに本質的な理解と実行力が伴っているのか。 結局、聞こえの良い言葉を一種のトレンドや、免罪符のように振り回して、個々人の立場を正当化しているだけではないのか。 この映画の痛烈な批評性と、度を超えたブラックユーモアは、そういう現代社会の実態を痛々しく丸裸にしている。  俗世の象徴とも言える豪華客船に乗船した様々な“階層”に人々。彼らの中に、真に中立的で、公正な人間は存在しない。 本作の舞台となる豪華客船や無人島がこの世界の縮図を表している以上、それはすなわちこの世界に中立公正な人間は存在しないということの証明であろう。 したがって、本作を鑑賞したすべての“社会人”は、それぞれの信条や立場において、ものすごく居心地の悪さを感じることだろう。  ヨーロッパの映画(スウェーデン・フランス・イギリス・ドイツ合作)らしく、多様性に富んでいると同時に、ものすごく振り切ったブラックユーモアの連続がときに痛すぎる程に痛快で無慈悲なコメディ映画だった。 船が難破して無人島でのサバイバルが始まらなくとも、人間社会のヒエラルキーなんてものは、時代や価値観の変化によって突如として逆転するものだ。 その逆転が生じたとき、人間は己の中に確実に存在する“闇”を目の当たりにする。 それは、皆等しく業の深い人間には避けられないことなのかもしれない。   映画作品として意欲的すぎるシニカルさを称賛する反面、全体の構成としてはややバランス感に欠けている印象も拭えない。 主人公のカップルのみに焦点を当てたプロローグ的な一章目の描き方や、ヒエラルキーのあらゆる階層が“同乗”する豪華客船上を描いた二章目の作りは興味深かった。が、無人島が舞台となる三章目は、テーマに対する回答と帰着を描いているわりにはやや冗長に感じてしまい、よくあるシチュエーションでもあるので新鮮味が薄れてしまった。 ラストのオチを踏まえると、無人島パートはもっとスマートに、端的な愚かな人間たちの有様を描いてよかったように思う。  他の文化圏でリメイクされたならば、同じストリーテリングであったとしても、また別のどす黒いユーモアが新たな“闇”を浮かび上がらせるだろう。 虚しく、愚かしいことだけれど、それはそれで観てみたいなと、業深い人間に一人として思ってしまう。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-08-15 00:29:36)
42.  ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE
“Actor”とは文字通り“Action”を追求し表現し続ける“生き方”であることを、今年61歳になるハリウッドスターは、証明し続ける。  1996年にトム・クルーズ自身の手によって製作された「ミッション:インポッシブル」シリーズの最新第7作。 27年余りの年月を経て、主人公イーサン・ハントを体現し続ける稀代のスター俳優は、“演者”としてのボーダーラインをとうの昔に超えてしまい、本作では文字通り境界のその先に我が身を放り出している。 数ヶ月前にYou Tubeで公開された本作最大のスタントシーンのドキュメント映像を見たときには、トム・クルーズの“映画馬鹿”としての気質を重々理解していた上でも、思わず「馬鹿かよ」と口に出さずにはおられず、ニヤつきが止まらなかった。  これまでのシリーズ作同様に、アクションシーンのアイデアを起点としてストーリー展開が構築されるスタイルは本作も変わらず、むしろさらにそのコンセプトが加速している。 163分の長尺の上映時間ほぼ目いっぱいに展開される数々のアクションシーンは、どれも驚きと娯楽性に溢れていて、そのアクションの過剰なエンターテインメント性に対して、ストーリーテリング自体が振り落とされないように必死にしがみつているような印象すら覚えた。 特に本作は、シリーズ初の二部構成の“前編”ということもあり、多少のストーリー的な説明不足感や、真相や伏線回収はあえて放置して、ひたすらにアクション描写に振り切っているようにも感じた。  ただその一方で、描き出されるテーマとほぼイコールの存在として描き出される本作の「敵」は、この2023年の映画としてあまりにもタイムリーであり、トム・クルーズの映画プロデューサーとしての視点の確かさにも感服する。 劇中“それ”と呼称され、全世界へ支配力を強める神のごとき存在として対峙する“AI”との戦いは、まさに「デッドレコニング(=推測航法)」の主導権を巡る戦いであり、すなわち人間とAIにおける未来の覇権争いへと繋がっていく。  無論、来年公開予定の続編がただただ待ち遠しいが、本作の各シーンでセルフオマージュされた「ミッション:インポッシブル」第一作からまた見直しつつ待つことにしよう。 ただひとつ、“彼女の死”がフェイクであることを願いながら。
[映画館(字幕)] 8点(2023-07-23 22:06:26)
43.  君たちはどう生きるか(2023)
少し唐突な印象も残るくらいにあっさりと映画が終わった。 その時点で、とてもじゃないが言語化はまだできておらず、一抹の戸惑いと、何かしらの感慨深さみたいなものが、感情と脳裏を行き交っている状態の中、少しぼんやりとエンドロールを眺め見ていた。 すると、「作画協力」として、今やこの国のアニメーション文化を牽引する錚々たるスタジオの名前が整列するように並んでいた。 他のアニメスタジオが作画協力に名を連ねること自体は、さほど珍しいことでもないのだろうけれど、スタジオジブリ作品、そして本当に宮崎駿の最後の監督作品になるかもしれない本作のエンドロールにおけるその“整列”には、何か特別な文脈があるように思えた。  そしてはたと気づく、ああそうか本作の「真意」は、クリエイティブの極地に達した創造主からの、新たな創造主たちに向けたメッセージだったのだなと。  宮崎駿、その想像と創造の終着点。 そこには、彼がこの世界に生まれ落ち、いくつもの時代を越えながら吸収してきた数多のクリエイティブの産物で溢れかえっていた。 彼が吸収したものが、いくつものアニメーション作品の中で具現化され、一つ一つの「世界」となって、積み木のように積み上げられていったことをビジュアルによって物語っているようだった。 そしてその世界は、「崩壊」という形で、時を遡って、何も生み出していない無垢な自分自身に継承される。それはまるで、クリエイターの根幹たる魂が「輪廻」していくさまを見ているようだった。   宮崎駿が生み出した「世界」そのものは、創造した自分自身の手によって崩壊という終焉を経て、無に帰す。 ただし、同時にそこからは、色とりどりの無数のインコが飛び立っていく。 この色とりどりのインコたちこそが、エンドロールに名を連ねた新世代(ジブリ以降)のアニメスタジオであり、新たな創造主たち(=クリエイター)を表しているのだろう。  “声真似”をするインコを用いたのは、どこか“ジブリっぽい”アニメ作品を量産しているクリエイターたちへの皮肉めいた批評性、というか明確な“イヤミ”もあるのかもしれない。 その一方で、宮崎駿自身がそうであったように、先人たちの数多のクリエイティブを吸収し、真似て、発信しようとするプロセスは、必然であり、正道であることを暗に伝え、激励しているようにも思えた。   あらゆる側面において、極めて意欲的な作品だったと思う。 ただ、本作においいて、宮崎駿というクリエイターの本質とも言うべき“支配力”や“エゴイズム”が、全盛期同様に満ちていたかというと、そうではなかった。 クリエイティブという活動そのものの性質や限界を考えると、それは至極当然のことだろう。 むしろ、クリエイターとしての限界のその先で生まれた作品だったからこそ、本作はそれに相応しい「崩壊」や「終焉」をエモーショナルに描き切ることができたのだと思う。  創造と崩壊、巡り巡ったその先に、君たちはどんな「世界」を創るのか。 様々な解釈はあろうが、それは、「夢と狂気の王国」築き上げ、積み上げ続けた一人の狂気的なクリエイターの、決して優しくはないが、力強いメッセージだったと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2023-07-20 12:47:44)(良:1票)
44.  ザ・フラッシュ 《ネタバレ》 
エンターテイメントとしてのシンプルなエキサイティングさで言うならば、本作の娯楽性は、この2〜3年でトップクラスだ。 クライマックスで映し出される“異様”なビジュアルの通り、まさに破綻し混濁したストーリーテリングを、あらゆる側面から申し分ないボリュームで描き出している。 その上で、最終的にはきっちりとこの世界観に合致したテーマ性と哲学性、さらには普遍的な感動を浮かび上がらせみせたちょっと奇跡的な映画だったとすら思える。  当初のDCコミックのユニバースとして製作されていた“DCエクステンデッド・ユニバース”は、紆余曲折、すったもんだを経た上で結果的に頓挫する格好となってしまったようだ。 なんだかんだ言って「ジャスティス・リーグ」は、劇場公開版も、ザック・スナイダー版もスーパーヒーロー映画として「アベンジャーズ」にも勝るとも劣らないエンターテイメント性を備えていたと思うし、その前後に製作された「ワンダー・ウーマン」、「アクアマン」の単体作品は傑作だったと断言できる。 ベン・アフレックが演じたバットマンも、ヘンリー・カヴィルが演じたスーパーマンも、そしてもちろん本作でエズラ・ミラーが演じたフラッシュも、一癖も二癖もあるとても魅力的なスーパーヒーロー像を体現していただけに、もう事実上“ジャスティス・リーグ”として再結成されないことはとても残念に思う。 がしかし、それと同時に、その決して纏まりきらず、我の強い圧倒的「個性」こそが、DCコミックのスーパーヒーローたちの真髄だったのではないかと思える。  そして、その個性と個性がぶつかり合うことで起き得る混濁や化学変化や消滅(すなわちインカージョン)こそが、本作「ザ・フラッシュ」が描き出した世界観にメタ的に繋がっているように思えた。  この世界は常に無数の現実と、それらに連なる無数の可能性連続の中で、フェナキストスコープ(回転式アニメ)のように存在していて、誕生と消滅を繰り返し続けているということを、本作は、極めてダイレクトな映像表現と、超高速ヒーローのひたすらの疾走によって映し出している。  最愛の母が死んでしまった少年がスーパーヒーローとなり、“ジャスティス・リーグ”の一員として世界を救うユニバースもあれば、同時進行の別次元では、母の死は免れたけれどスーパーマンもバットマンも現れず、異星人に地球が征服されてしまうユニバースも確実に存在するということ。  それがすなわち“マルチバース”ということに他ならないが、本作はそれを更にメタ的に踏み込み、この世界に“実現した映画”と、この世界で“実現しなかった映画”を大胆に絡み合わせて、あまりにもユニークに我々に見せてくれている。  そういう、無数の運命の無限の可能性と同時に、一つの運命の不可逆性にも気づき、対面した主人公の“決断”が、非常に悲痛であり、故にスーパーヒーローに相応しいエモーショナルを生み出している。 全編通して娯楽大作らしい大スペクタクルを映し出しながらも、その主人公の最後の葛藤を描き出すシークエンスは、とてもありふれた“ある場所”で描き出されていることも、本作のテーマの本質に相応しい演出であり、素晴らしかったと思う。  ズッコケ演出のオープニングクレジットから始まる、貫かれたコメディ演出にも、優れたバランス感覚と「娯楽映画」そのものに対する意地を感じた。 マイケル・キートンの大活躍を観ながら、「そういえば“あの人”も一瞬バットマンだったよなー」という全映画ファンの思惑に呼応するラストカットも実に小気味いい。  “トマト缶”の位置を変えた影響が、ハリウッド屈指の映画人同士の立ち位置をあべこべにしてしまったのかしら?とメタ的空想を巡らせると、益々面白い。
[映画館(字幕)] 9点(2023-07-01 00:19:45)
45.  名探偵コナン 緋色の弾丸
休日、子どもたちが観ていたので、横目で見ていたら、結局最後まで観てしまった。 振り返ってみれば、実に10年ぶりのコナン映画鑑賞。  「名探偵コナン」は単行本を連載開始当初より買い続けていて、既刊全巻保有をなんとかキープしている。 が、とっくの昔に購入自体が「惰性」になってしまっており、新刊を購入するたびに、妻とともにアンチトークを繰り広げるのがお決まりとなっている。  通常回からかなり“トンデモ”要素が強まってきており、キャラクターたちの時代錯誤な台詞回しも手伝って、ツッコミどころ満載の漫画になっているわけだが、映画化になるとそのトンデモぶりはさらに強まる。  本作の最強ツッコミポイントは、何と言っても赤井秀一による、名古屋ー東京縦断超絶射撃だろう。 あらゆる物理的法則や常識を超越した“弾丸”は、すべての殺人トリックをなきものにするメチャクチャな展開だった。  まあしかし、漫画作品同様、大いにツッコミながらこの世界観を楽しむのが、正しいあり方なのかもしれない。
[インターネット(邦画)] 4点(2023-06-24 23:54:11)
46.  怪物(2023)
「怪物」と冠されたこの映画、幾重もの視点と言動、そして感情が折り重なり、時系列が入り乱れて展開するストーリーテリングは意図的に混濁している。そして、その顛末に対する“解釈”もまた、鑑賞者の数だけ折り重なっていることだろうと思う。  本当の“怪物”は誰だったのろうか? そもそも“怪物”なんて存在したのだろうか? 詰まるところ、私たち人間は皆、脆くて、残酷な“怪物”になり得るということなのではないか……。 鑑賞直後は、自分一人の思考の中にも、様々な感情や気付きが入り混じり、形を変えていった。  ただ、僕の中で、しだいに導き出された明確な「事実」が一つある。それは、この社会の中で一番“怪物”に近く、一番“怪物”になる可能性が高いのは、やはり「親」であろうということ。  本来人間なんて、自分一人を守り通すことだけでも必死で、余裕なんてあるはずもない。 でも、ただ「親」になるということだけで、問答無用に自分自身以上に大切な存在を抱え、それを「守り通さなければならない」という「愛情」という名の“強迫観念”に支配される。 微塵の余地もなく、自分の子を守ることも、正しく理解することも、「親なんだから当たり前」と、自分自身も含めた大半の親たちは、思い込んでいる。  でも、その“私はこの子の親なんだから”という、自分自身に対する過信や盲信が、得てして「怪物」を生み出してしまうのではないか。 一人の親として、本作を観たとき、最も強く感じたことは、誰よりもこの僕自身がモンスターになり得てしまうのではないかという“恐れ”だった。   したがって、本作の登場人物たちにおいても、最も「怪物」という表現に近かったのは、安藤サクラ演じる母親だったと、僕は思う。  彼女は、愛する息子の変調を憂い、いじめやハラスメントを受けているに違いないと奔走する。 シングルマザーとして息子を心から愛し、懸命に育てる彼女の姿は、“普通に良い母親”に見えるし、実際その通りだと思う。 意を決して学校に訴え出るものの、校長をはじめとする教師たちからあまりにも形式的で感情が欠落したような対応を繰り返される母親の姿は、とても不憫で、まさしく話の通じない“怪物”たちに対峙せざるを得ない被害者のように見える。  しかし、視点が変わるストーリーテリングと共に、物語の真相に近づくにつれ、母親が「怪物」だと疑っていたものの正体と、本人すらも気付いていない彼女自身の正体が明らかになっていく。 彼女は明るく、働き者で、息子の一番の味方であり理解者であることを信じて疑わないけれど、実は、夫を亡くした経緯がもたらす心の闇を抱え続けている。 そのことが、無意識にも、息子に対して“普通の幸せ”という概念を押し付け、アイデンティティに目覚めつつある彼を追い詰めていた。 最初のフェーズでは、紛れもない“良い母”だった彼女の言動が、視点が転じていくにつれ、自分が“奪われてしまったモノ”を、一方的に息子の未来で補完しようとしているようにも見えてくる。  “普通に良い母親”が、実は抱えている心の闇と、我が子に対する無意識の圧力と、或る意味での残酷性。 母親のキャラクター描写におけるその真意に気がついたとき、目の前のスクリーンが大きな“鏡”となって自分自身を映し出されているような感覚を覚えた。 無論、“普通に良い父親”の一人だと信じ切っている僕には、安藤サクラが演じる母親を否定できる余地などなく、只々、身につまされた。  人の親になろうが、学校の先生になろうが、人間である以上、心には暗い側面が必ず存在する。 その側面がたまたま互いに向き合ってしまったとき、人間は互いを「怪物」だと思ってしまうのかもしれない。   長文になってしまったが、ちっとも纏まりきらず、語り尽くせぬことも多い。 子役たちの奇跡的な風貌、田中裕子の狂気、坂元裕二の挑戦的な脚本に、亡き坂本龍一の遺した旋律……。 鑑賞にパワーはいるが、何度も観たい傑作だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-06-24 22:56:54)
47.  クリード チャンプを継ぐ男
名作「ロッキー」の新章として、各方面からの激賞を聞き及びつつも、気が付けば8年の歳月を経てようやく鑑賞。既に人気シリーズと化し、劇場では第三弾が公開されている状況。  観れば間違いないんだから、観ればいい。 にも関わらず、なかなか鑑賞に至れなかった最たる要因として、あまりにも容易にストーリー展開が想像できてしまうということがあった。 年老いて隠遁生活をしているロッキー・バルボアの前に、かつての強敵(と書いて「友」)アポロ・クリードの息子が現れ、師弟として絆を深めつつ、稀代のボクサーとして大成していく……というストーリーテリングが、鑑賞前からくりっきりと脳裏に広がっていた。 無論、それこそが「ロッキー」に通ずるまさしく“王道”であることは理解していたが、王道なのであれば逆にこの先いつ鑑賞しても満足するだろうという思いも働いてしまい、今に至ったのだと思う。  実際に鑑賞し、率直に感じたことは、想像以上に想像通りな王道サクセスストーリーだったということ。  ボクサー王者アポロの私生児として辛い幼少期を過ごした主人公ドニーが、アポロの正妻メアリー・アンに引き取られるところから物語は始まる。 自身がチャンピオンの息子だなんて露知らず、愛する母にも先立たれ、孤児院で喧嘩に明け暮れる孤独な少年の心情は、とても悲痛だ。 この少年がボクサーとしての血統と才能に目覚め、少年から大人へと成長しながら、自ら人生を切り開いていくという王道的プロットは、想像しただけで十分に胸熱だ。  ところが、少年ドニーの登場シーンはその冒頭のみで、次のシーンでは、既に筋骨隆々の大男に育ったドニーもといマイケル・B・ジョーダンが登場し、メキシコの場末のリングとはいえ、強者としての片鱗をいきなり見せつけてしまう。さらに本業は、一流証券会社勤務、実家は大豪邸、地元のジムの先輩ボクサーにはスパーリングに挑む代償として高級車のキーを放り投げる始末。 その様からは、少年ドニーからほとばしっていた反骨心とハングリーさはすっかり消え去っていて、正直なところ、彼がボクサーへの道に固執する理由がぼやけて見えてしまったことは否めない。 無論そこには、亡き父に対する憧れと、呪縛のような血脈があることは明らかだけれど、“トントン拍子”過ぎる展開に対して、乗り切れないとまでは言わないが、少し俯瞰した立ち位置で見ざるを得なかった。  “トントン拍子”は、ロッキーとの師弟関係の構築、恋人との都合の良い出会い、大物ボクサーからのビッグマッチのオファーへと、わりと終盤まで淀みなく続くが、2つの試合シーンで、文字通りリングの只中へと一気に引き込まれた。 文字通り息をつく暇も与えてくれない圧倒的なファイトシーンが、本作をボクシング映画の新たな金字塔へと引き上げていることは間違いなく、それはやはり「ロッキー」の新章として相応しいストロングポイントだったと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-06-03 01:00:52)
48.  NOPE/ノープ 《ネタバレ》 
恐怖映画が苦手なので、気鋭のジョーダン・ピール監督の最新作として話題性と評判を各方面から聞き及びつつも、なかなか鑑賞に至れなかった。が、この類の作品は、経年するほどネタバレ要素も含めて面白みが軽減してしまうものなので、意を決して鑑賞した。 苦手な恐怖映画として身構えて見進めたけれど、そんな苦手意識を一蹴するとびきり“ヘンな映画”だった。  この手のスリラーは、恐怖の対象として登場する「?」の正体があらわになるまでが、ある意味映画の推進力が及びピークであり、その正体が明らかになった時点で一気に興ざめすることも避けられない。 だがしかし、本作はそんなジャンル映画の宿命すらも織り込んだ上で、大仰で馬鹿げた展開を堂々と貫き通している。おかしな映画ではあるが、それは映画を知り尽くした者のクリエイティブだと思えた。  ジョーダン・ピール監督作「ゲット・アウト(2017)」でも主演したダニエル・カルーヤのギョロッとした目の演技が終始印象的で、彼の周辺に巻き起こる不穏な現象に対するめくるめく様々な感情が巧みに表現されていた。 またその目の演技による、見る、見られるの描写は、本作のテーマである「見せ物」という娯楽への功罪にも繋がっていた。 ティム・バートンの「エド・ウッド」の劇中で、「ハリウッドは人を噛んで吐き捨てる」という台詞があった。本作において、未確認飛行物体が吐き捨てた5セント硬貨によって亡くなった主人公の父の悲運は、まさにその台詞を象徴する描写であり、この映画は全編通して、ハリウッド、ひいてはショービジネス全体の罪と罰を描き出しているのだと思える。  兎にも角にも、奇妙なスリラー映画として中盤までを牽引しつつも、そこまでの恐怖感をいい意味でひっくり返すかのごとくSFモンスターパニック映画へ急旋回する本作のストーリーテリングは極めて独特で、やっぱり“ヘンな映画”と結論づけるのがふさわしい。  決戦前夜の食卓に並ぶ缶ビールがなぜかキリンビールの“一番搾り”であったことも謎すぎたが、これは単にプロデューサーと監督が“一番搾り”好きということだったらしい。 そんな意味のないディティールに何か不穏さや意図を感じせるこも、本作が噛みごたえがある映画であることの証明だろう。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-27 23:45:39)(良:1票)
49.  花束みたいな恋をした 《ネタバレ》 
この2年あまりの間、いつ観ようかいつ観ようかとずうっと思いつつも、そのタイミングを逸し続けていた恋愛映画をようやく観た。 巷の評判から想像はしていたけれど、やっぱりものすごく堪らない映画だった。  公開当時、最初にこの映画の予告をテレビCMで観たときは、何とも甘ったるいタイトルと、人気の若手俳優を配置した安直なキャスティングに対して、なんて安っぽい映画なんだろうと嘲笑してしまった。 実は個人的に、菅田将暉と有村架純という本作の主演俳優の両者をあまり好んでいなかったこともあり、全く興味を持てなかった。 ただその直後、脚本が「最高の離婚」「カルテット」他数多くのテレビドラマの傑作を生み出している坂元裕二であることを知り、各方面からの評判が耳に入ってくるようになり、次第に「あれ、まずいな」と思うようになった。さてはこれは「未見」は不可避な作品なんだろうと。 そうして鑑賞。僕は結婚をして12年以上になる。「恋愛」という概念からはもう遠く離れてしまったれっきとした中年男性の一人としても、本作が放つ短く淡い輝きは、儚く脆いからこそ、忘れ難いものとなった。   最初のシーン、カフェに居合わせた主人公の二人が、同じ価値観のもとにある行動を起こそうとしてふいに目を合わせる。 そのさまは、誰がどう見ても恋の“はじまり”に見える。 そこから紡がれる二人の5年間の恋模様と到達点が、美しく、切なく、愛らしく描き出される。 決して、特別な恋愛を描いた作品ではない。 本作の終盤でも描き出されるように、世の中のあらゆる場所、あらゆる時代において、まったく同じように若い男女は出会い、花束みたいな恋をする。 ただし、その恋は、両者の成長や変化と共に形を変え、次の全く別のステージへと両者を促す。 花束は、次第にしおれて枯れてしまうこともあろうし、別の場所で根をはることもあろう。  彼らの道のりはとても美しかった。あと一歩だった。 それ故に、あまりにも瑞々しくて輝かしい新しい“花束”を目の当たりにしたとき、もうあの時と同じには戻れないということを思い知り、届かない一歩の大きさを痛感したのだ。  はじまりは、おわりのはじまり。 有村架純演じる絹は、自らの恋のはじまりに、その言葉を思い浮かべる。 菅田将暉演じる麦は、自らの恋の終わりのその先に、ささやかな奇跡を見つける。  そう、この映画の終わりが、“おわり”なのか“はじまり”なのかは、実は誰にも分からない。
[インターネット(邦画)] 9点(2023-05-22 10:59:04)
50.  ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3
銀河の果てにゴミ屑のように捨てられたアウトローたちが、三度宇宙の危機を救うため“最後”の戦いに挑む。 2014年の“Vol.1”公開時は、スーパーヒーロー不在のこの寄せ集めチームが、MCUの中でこんなにも愛すべき存在になるとは思いもよらなかった。 だが、この愛すべき馬鹿者たちは、シリーズを重ねるほどにその愛着を深め、70~80年代のヒットチューンをガンガンに響かせながら、ノリと歪な絆でその存在感を唯一無二のものにしてきた。  そんな彼らの文字通り銀河を股に掛けた冒険も、ついに今作で終着を迎えた。 もっとシリーズ化を続けてほしいのはやまやまだし、それが可能な世界観ではあるのだけれど、もはや致し方あるまい。 この映画世界の紛れもない“創造者”であるジェームズ・ガンが、MCUからDCへ去ってしまうのだから。 何のしがらみもない無責任な映画ファンの一人としては、MCUで「ガーディアンズ~」の続編を作り続けて、DCで「スーサイド・スクワッド」の続編を作り続けてもいいじゃん!と思ってしまうが、そういうわけにもいかんだろう。 ここは、ジェームズ・ガンをクリエイティブのトップに招き入れたDCコミックスの英断を褒めるしかない。  “創造者”による最後の作品だけあって、本作には、ジェームズ・ガン本人の人生観が如実に表れていた。 過去の失敗により、一度は業界から「追放」を余儀なくされ、新進気鋭の絶頂から叩き落された。 まさにそれは、母親の死の直後に宇宙の荒くれ者たちに攫われたピーター・クイルしかり、非道な改造を施されたロケットやネビュラしかり、家族を虐殺されたガモーラやドラックスらしかり、彼らが絶望の淵で、必死に“生”にしがみついた様に重なってくる。  “クソガーディアンズ”の面々と同様に、ジェームズ・ガンもまたどん底から仲間たち(=世界中の映画ファン)から引き上げられ、「再戦」の機会を得られたという事実が、本作の展開を更に胸熱なものにしていることは間違いない。  そして、その経緯を彷彿とさせる台詞を、ガン監督のカムバックを真っ先に先導したデイヴ・バウティスタ演じるドラックスが発することが益々感慨深い。 敵キャラのアダム・ウォーロックに向けた「やり直せばいい」という台詞は、バウティスタがガン監督に向けた思いそのままだったろうし、圧倒的強者ではあるが幼く愚かしいアダムのキャラクター造形そのものが、ガン監督による自己投影だったに違いない。  シリーズ全編通して、ブラックジョーク満載の悪ノリを交えつつ、サイケで破天荒な本作の世界観やキャラクターたちが、世界中の映画ファンに愛されたのは、その根幹に普遍的であまりに真っ当な人間のドラマが存在し、グルートの枝葉のように優しく、力強く張り巡らされていたからだろう。  ジェームズ・ガンが離れる以上、シリーズの続編はもう製作されるべきではない。 でも、映画自体は生まれなくとも、“クソガーディアンズ”の冒険はこれからも、宇宙の果てのどこかで続いていく。 それを想像するだけで、僕たちはずっと楽しい。
[映画館(字幕)] 8点(2023-05-12 23:33:16)
51.  ブラックアダム
DCコミックスきってのダークヒーローに我らがドウェイン・ジョンソンが扮する。 そりゃあハマるに決まっているし、俳優単体の存在感のみを捉えたならば、数多のアメコミヒーロー映画の中でも指折りの「説得力」を示したと言っても過言ではないだろう。 DC精神全開のケレン味に振り切った描写は、スペクタクル性に溢れ、その絶妙なバカさ加減(好物)も含めて、さながらインド映画の超大作を観ているようだった。  ただ、その主演俳優のドハマリぶりの一方で、新鮮味は皆無だったことも否めない。 MCU、DCと、これだけアメコミ映画が飽和状態の中にあって、あまりにもオーソドックスで豪腕ド直球なストーリー展開が、本作のテイストに相応しいことは理解しつつも、やはり退屈だったことは否定できないところ。  マイナス要因だったのは、主演俳優のド直球なハマりぶりに呼応というか、依存するかのように、周辺のキャラ設定や描写までもが、あまりに工夫なくチープだったというところだと思う。 ダークヒーローの一種のバディとなる少年や、その母親で学者のキャラクター性が類型的で魅力に欠けていたり、主人公と共闘するヒーローチームの面々のオリジナリティが弱かったことが、本作の魅力を底上げすることができなかった大きな要因だろう。  「アイアンマン3」でトニー・スタークを救った少年だったり、トム・ホランド版「スパイダーマン」でマリサ・トメイが演じたメイおばさんのような愛すべきキャラクターを登場させることができていたならば、本作自体がもっと愛すべき作品になっていただろう。  MCUのような世界観の完成度は皆無で、その代わりにケレン味あふれる描写で瞬間的な沸点を追求するDCのアプローチは決して嫌いではない。 次作でこのダークヒーローと対峙するのは、スーパーマンか、それともシャザムか。いずれにしてもこの路線をさらに追求する形でエンターテイメントのクオリティーを爆上げしていってもらいたい。
[インターネット(字幕)] 6点(2023-05-09 15:10:02)
52.  キル・ボクスン
「ジョン・ウィック」を皮切りに、「ポーラー 狙われた暗殺者」「ブレット・トレイン」など、“サラリーマン社会”のように企業化され階級付された“殺し屋業界”を描いた娯楽映画がこの数年量産されている。 日本でも、「ベイビーわるきゅーれ」や「ザ・ファブル」がその系譜であり、レベルの高いアクション性と、ある種の“ファンタジー”の中での殺し屋たちの悲喜こもごもの群像劇が楽しい作品が多い。 本作「キル・ボクスン」も、まさしく韓国産の殺し屋業界映画であり、このジャンルと韓国映画の相性をきっちりと見せつけている。  韓国映画では、強烈なバイオレンス描写を見せるとともに、どこか気の抜けた台詞回しや、登場人物たちの言動とのギャップが、映画作品としての独特の味わいとなっていることが多い。 それは韓国という国の社会風俗や、思想、教育倫理を根底にしたアイデンティティであり、韓国映画が唯一無二の娯楽性を生み出している大きな要因だとも思える。  韓国映画が描き出す“殺し屋業界”は、極めて激しく暴力的であると同時に、生々しい滑稽さが、空想上の“リアル”を導き出していた。 「先輩」の命令は絶対である揺るぎないタテ社会の中での、殺し屋業界の面々の人間関係がまず面白い。 業界における伝説的エースである主人公を、畏怖と共に敬愛する“同業”の飲み友達が集まる居酒屋だったり、所属する殺し屋会社の訓練生たちからの尊敬の眼差しだったりと、他の国の同ジャンル映画には無かった人間模様が新鮮でユニークだったと思う。 ただし、だからといって殺し屋同士で馴れ合うばかりではなく、いざその“対象”となれば、躊躇なく殺し合うシーンへと転じる急激な変調が、アクション映画としての見事な抑揚を生み出していたとも思う。  韓国映画として、アクションシーンのクオリティの高さはもはや言うまでもない。アクションシーンのパターンやそれに伴うカメラワークのアイデアがとにかく豊富で、「ジョン・ウィック」のように決して銃弾が飛び交うような派手なシーンが多いわけではないにも関わらず、137分の時間が飽くこと無く過ぎ去っていく。  無論、殺し屋稼業と思春期育児を行き来するシングルマザーの主人公を描いたストーリーテリング自体が上手く展開していたことも本作のオリジナリティを高めていたと思う。 殺し屋としての苦闘以上に、15歳の我が娘との距離感や教育に苦悩する主人公描写こそが、本作の要であり、主人公を演じたチョン・ドヨンは両極端の人間性を絶妙なバランス感覚で、説得力をもって演じ分けていた。  冒頭の日本人ヤクザとの対決における片言日本語描写はご愛嬌。 組織内で主人公と並ぶ手練れとして名前だけ登場する“カマキリ”が、続編への布石であることを期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-09 15:08:11)
53.  ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー 《ネタバレ》 
昨年前作を観て、主人公であるJK殺し屋コンビが織りなす空気感と世界観にすっかり魅了されてしまった。 ほぼ「無名」と言っていい髙石あかりと伊澤彩織という二人の若い女優たちが体現する特異な“殺し屋像”は、国内外のボンクラ映画ファンたちを虜にしたに違いない。 特にスタントマン出身の伊澤彩織は、圧倒的な体術とアクションスキルによる“説得力”を全身に帯びつつ、朴訥とした“らしさ”があまりにも魅力的だった。  そんな作品の続編が公開され、珍しく地元の映画館でも公開されるというのだから、仕事を終えた終末の夜、隣町までレイトショーを観に行った。  前作の良さがある部分においてはしっかりと引き継がれ、またある部分においては大きく欠落してしまっている続編ではあった。 まず感じたのは、作品全体のテイストが必要以上にユーモアに振られすぎている感があったなということ。  女子高生上がりの殺し屋を主人公にしたコメディであることは前作から勿論変わらないけれど、前作には殺し屋稼業を描くバイオレンス性や狂気性が明確に存在し、それに伴う大きな“振れ幅”が魅力的な映画だったと思う。 言い得て妙だけれど、本作は殆どコメディに全振りしていて、明らかにその振れ幅が少なくなってしまった分、逆にアンバランスな印象を受けてしまった。  それに付随する形で、最も「難点」だったのは、“殺し”描写をあからさまに避けすぎてしまっていること。映画作品を取り巻くどの部分に対する配慮があったのか無かったのか知らないけれど、いくら笑えてライトなコメディ映画であっても、本作が“殺し屋映画”である以上、全編通して主人公たちに明確な殺人描写を与えなかったことは、大きすぎるマイナス要因だった。  業界トップクラスの一流のアサシン(暗殺者)である主人公たちが、その反面高校を卒業したばかりの「女子」であり、社会経験や社会性の無さも相まって右往左往する“ギャップ”こそが、本作の最大の面白味であるべきで、魅力的な彼女たちのキャラクター性にただ依存してしまったことは、逆に彼女たちの魅力を半減させてしまっている。 前作よりも少し年を重ねて「女子」から「女性」へと変化していくリアルな生活感を追いつつ、しっかりと殺し屋としてのステータスや経験値、そしてバイオレンス性も高める彼女たちの生き様を追求して見せてほしかったなと。  ただそれでも、髙石あかりと伊澤彩織が二人きりで表現する女同士のキャッキャ感と絶妙な空気感には、やっぱり魅了され、それだけで三杯飯が食える。 益々アクションの鬼と化している伊澤彩織には思わず身悶えてしまう。  描き出される世界観は、まさに日本版「ジョン・ウィック」であり、そもそも破茶滅茶な設定なのだから、もっともっとイカれてカワイイ狂気的なファンタジーを貫いて、さらなる続編に期待したい。 (新登場する落ちこぼれ兄弟コンビとの“対バン”構図は非常に良かったので、再登場求む)
[映画館(邦画)] 7点(2023-04-07 23:35:50)
54.  Winny
ある時、TikTokのフィードに流れてきたショート動画で、「金子勇」という天才プログラマーの存在を知った。それは本当につい先日のことで、恥ずかしながら私はその時までこの人物のことをまるで知らなかったし、彼が生み出した「Winny」というソフトウェアがもたらした功罪を、まったく理解していなかった。 この一個人の「無知」と「無関心」も、本作で描き出される“不世出の天才プログラマー”の運命を狂わせた一因なのではないかと、映画を観終えて数日経った今、思いを巡らせる。  本作は、ある理由もあり、ことさらに自分自身の無知と無関心に対して、痛烈に突き刺さる作品だった。  本作では主人公である金子勇氏の「Winny事件」と並行して、同時期に発覚した愛媛県警の裏金問題と、その告発者となった現職警官の苦悩が描かれている。 ちょうどこの時代に、私は地元(愛媛県)の放送局でカメラアシスタントのアルバイトをしていて、本作で吉岡秀隆が演じた警察官・仙波敏郎氏の自宅での取材に同行したことがあった。 そして、取材を担当していた記者やカメラマンの無責任な陰口を聞きつつも、特に何の感情も持たずに、仏壇に線香をあげる現職警官の厳つい横顔を見ていた自分自身の姿がフラッシュバックと共に蘇った。  そう、本作で描かれた事件の一端は、まさに自分の目の前でも繰り広げられていたのだ。 もっと言えば、私自身、Winnyそのものではなかったと思うが、類似するファイル交換ソフトを興味本位で利用して映像や音楽のダウンロードを試してみたこともある。 何が言いたいのかというと、無自覚で無知な大衆の一人であった私は、自分が目の当たりにしている物事の本質を何も分かっていなくて、それを理解しようともせず、ただ漠然と事件を眺めていたのだ。  無論、当時20代前半のフリーターだった私が、何ができた、こうすべきだったとおこがましいことを言うつもりはない。ただ、これらの事件に対する世間のスタンスは、学歴や職種、ステータスに関係なく、ほぼ同じようなものだったのではないかと思う。つまり、社会全体が、無知で無関心だったのだ。  “事件”に対して、大衆の一人ひとりが無知を恐れずに、ソフトウェア開発の本質をもっと正しく理解しようとして、自分たちの社会にとって何が有益で、何が不利益なのかということをもっと積極的に関心を示していたとしたら、国家権力による一方的な横暴は結果的に起こり得なかったのではないか。  劇中、主人公本人の台詞の中でも表現されていたが、時代に対して、このソフトウェアの開発が早すぎたのか、遅すぎたのか。もしくは、日本の社会そのものがあまりにも“時代遅れ”だったのか。 今この瞬間も、「捏造」という言葉があいも変わらず飛び交い、そのあまりにも酷い体たらくぶりに辟易してしまうこの国のあり方に対して、この映画が提示する批評性は、辛辣に突き刺さる意義深いものだったと思う。  アメリカなどでは、こういう現実社会の事件を取り扱った作品は極めて豊富で、何か題材となり得る事件が 起きたならば間髪入れずに映画化してしまうけれど、日本映画でこの手の作品が、しっかりと娯楽性を保ちながら製作されたことは稀だし、とても喜ばしい。  主演の東出昌大は、実在の天才プログラマーを見事に演じきっていたと思う。 裁判中でありながら、溢れ出るアイデアのあまりプログラミングに没頭してしまう主人公の姿は、ソフトウェア開発者としての彼の純粋な姿を雄弁に表していた。 だからこそ、その貴重な時間と機会を奪ってしまったこの事件の顛末は、何も体質が変わっていない社会に対して改めて重くのしかかる。
[映画館(邦画)] 8点(2023-04-07 23:33:20)
55.  シン・仮面ライダー
まず、ある種の清々しさを含めつつも、本作に対しては個人的にきっぱりと「駄作」だったと言いたい。それも近年まれに見る「超」がつくほどの。  庵野秀明による、「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」の大トリ第四弾。 「シン・エヴァンゲリオン」はまったくの門外漢なのでまた観ていないが、2016年の「シン・ゴジラ」を皮切りに、2022年の「シン・ウルトラマン」、そして本作「シン・仮面ライダー」と、大いなる高揚感と期待感をもって鑑賞してきた。 なんと言っても、「シン・ゴジラ」で表現された新時代感とそれに伴う畏怖感は衝撃的で、ゴジラ映画を全作観てきた者として、圧倒的にエキサイティングだった。  一方で、昨年の「シン・ウルトラマン」の時点でおやおやと思う節はあった。 製作者たちの溢れ出る過去作に対する「愛情」を感じる反面、僕自身は乗り切れなかった。 嬉々として繰り広げられる良く言えば“独特”、悪く言えば“陳腐”な映像表現、映画表現に対して、「あ、ふーん」、「あ、そうなんだ」と引いたスタンスを取らざる得ず、なんとも困惑してしまった。  そして、この「シン・仮面ライダー」の“世界観”を目の当たりにして、一つのことが明確になった。 「シン・ゴジラ」にあって、「シン・ウルトラマン」、「シン・仮面ライダー」に無かったモノ、それは僕自身の過去作品対する「愛情」という名の「耐性」だったのだろう。  個人的な遍歴として、玉石混交の全作品を観てきた「ゴジラ」映画シリーズに対して、「ウルトラマン」も「仮面ライダー」も、僕は過去のオリジナルシリーズを殆ど観てきていない。 故に、今回の各映画作品に対して僕が求め期待するものと、オリジナルシリーズを偏執的なまでに愛し表現し続けてきた製作者たちが見せたいものとが、乖離しすぎていたのだと思う。   と、自分にとって本作が本質的に“合わない”映画であり、「仮面ライダー」に対する無知を認めつつも、やっぱり客観的に見て酷い映画だったなとは思う。 「シン・ウルトラマン」はそれでもまだ“乗り切れなかった”という印象であり、特撮映画としての見応えと、娯楽映画としての楽しさも随所に存在していた作品だった。 が、しかし、本作は正直“耐え難かった”という印象を拭えない。久しぶりに鑑賞中に“しんどさ”を感じてしまい、思わず席を立ちたくなった(無論そんなことはしないが)。  個性的でユーモラスな怪人たち(チープで陳腐)、昭和感を感じさせる俳優たちの朴訥な演技(お遊戯会レベルの某演技)、映像技術の低さを工夫で補うカメラワーク(見づらく気持ち悪い)。 それらは、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」がテレビ放映されていた当時のつくり手たちが、限られた制作環境や時代性の中で、必死に“面白いもの”を生み出そうとした結果の産物だろう。  それらを観て育ち、感銘を受けて映画制作やアニメ制作の世界に入ったクリエイターたちが、過去のオリジナル作品対しての“リスペクト”をふんだんに盛り込むのは良い。 ただ、だからといって当時の映像表現やアイデアを現代技術でそのまま再現して、「仮面ライダーといえばこれでしょう」と悦に浸るのは、あまりにも安直だし、クリエイターとしてダサすぎるのではないか。 そんなものは、過去作へのリスペクトを笠に着た“クリエイティブ”の怠慢であり、放棄だと思ってしまった。   自分の想像以上に本作を称賛する人たちも多いようなので、やはり作品に何を求めるかによって、映画の価値なんてものは大いに振れるものなんだなと思い知る。 だからこそ、しっかりと自分の感情に沿った評価をしていきたいと思う。 “10点”の映画は年間数本出会えるが、その逆は数年に一つ出会えるかどうか。振り返ってみると実に8年ぶりの“0点”を捧げよう。
[映画館(邦画)] 0点(2023-03-17 23:17:45)(笑:1票) (良:2票)
56.  エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
“あなた”を理解したいのにすべてが混沌として理解不能。これは全世界、いや全宇宙すべての母娘と夫婦と家族と隣人、そして「私」自身の物語。   評判に違わず、なかなか“トンデモナイ”映画だった。 文字通りに破茶滅茶であり、映し出される各シーン、各カットの性質はチープで下品でグロくてワケわからんのに、結果的に心が充足し、涙が溢れている。 古今東西のあらゆる映画のオマージュが乱れ打たれる描写に対して“既視感”を覚えつつも、気がつくと、まったく新しい映画世界に放り込まれていた。それは、まさしく“新しい”映画のマジックと言っていい。  自宅兼用のコインランドリーと税務署のみで繰り広げられる極めてミニマムな舞台設定が、無秩序に広がる多元宇宙と、めくるめく精神世界を自由闊達に描き出していた。 近年“マルチバース”というキーワードが市民権を得ているが、藤子・F・不二雄の漫画で育ってきたものとして、この映画が描き出したそれは“パラレルワールド”という言葉のほうがしっくりくる。(F先生の短編漫画の傑作「パラレル同窓会」を読んでいると、本作の世界観と真理がもっと腑に落ちやすいだろう)  ともあれ、漫画よりもマンガ的な本作の表現方法はちょっと常軌を逸していて、決して万人受けする類いの映画ではないことは明らかだ。僕自身、そのフリースタイルぶりに半笑いを通り越して唖然としてしまった瞬間があることも否めない。 ただ、そのあまりに自由な振れ幅こそが、本作が表現するマルチバースもといパラレルワールドの本質だとも思える。  何もかもがうまくいかないストレスフルな生活を送る世界線もあれば、ふとしたきっかけでカンフー映画の世界的スターになるきらびやかな世界線もあり、一方では指がソーセージの世界で同性愛に思い悩むことも、子供が作った拙いボロ人形で終わる人生も、はたまた生物が存在しない世界の“石ころ”として日々を送る世界線もあり得るということ。 そして、その無限に分岐した世界線は、すべて繋がっていて、今この瞬間も、均衡(バランス)を保ち続けているということ。  「私」が今この人生を歩んでいるからこそ、同時に成されていないすべての可能性が存在し、そのすべては平行して流れ続けている。 ラストで主人公は、互いの気持ちをぶつけ腹を割った娘と別の道を歩むことを「選択」しかける。きっとその瞬間、それをそのまま選択した宇宙(バース)も生まれたのだろう。でも、この映画で映し出されている主人公はその選択を回避して、恥ずかしがる娘を抱きしめる。 それが「正解」ということではないし、その先が必ずしも「幸福」という話でもない。 ただそういう無数の選択の連続の上に、私たちのこの世界線は存在しているということ。そしてそれは唯一無二であるということ。  僕自身は、今年42歳になる。当然満足できることばかりではなく、年齢に応じた不安やストレスは尽きることはないけれど、相対的に見れば充分に“マシ”な世界線を生きているのだろうと思う。 決して裕福ではないけれど、家族がいて、好きな映画を見て、写真を撮って、お酒を飲む。そういうことをわりと自由にできるこの日々は、もはや代え難いとも思える。  ぽっかりと穴が空いたベーグルをそのまま食べるか、チーズを一枚はさむか、ハムをはさむか、ベーグルが見えなくなるくらいに何もかもを盛り込むか、もしくは食べきらずに途中で捨ててしまうか。 実際、それをどう食べるかは人それぞれだし、その人の自由だ。でも、そのベーグルが一つしか無いことが、変わることはない。 ならばやっぱり、たとえお腹いっぱいなることがなかったとしても、せめてやさしい気持ちで美味しく食べたいなと、至極普通のことを思うに至った。   分かっちゃいたけど、容易に語り尽くせるタイプの映画ではない。それこそパラレルワールドの数だけ、この映画に対する僕の感想も存在するのだろう。 1992年の「ポリス・ストーリー3」のミシェル・ヨー、1994年の「トゥルーライズ」のジェイミー・リー・カーティス、自分自身が小学生の頃に何度も見た両作で、主人公の世界的アクションスター以上の印象を残した二人の女優が、30年の年月を経てこのような形で共演(名演)したことにも、個人的に大きな感慨深さを覚えた。
[映画館(字幕)] 10点(2023-03-05 23:26:17)(良:1票)
57.  アントマン&ワスプ:クアントマニア
“フェーズ4”の作品群は、良い意味では極めて多様性に溢れ、悪い意味ではあまりにも世界観を広げようとしすぎるあまりこれまでの各フェーズと比較するとまとまりが無かった。 MCUという大河のシリーズとはいえ、元来は各作品とも独立した映画であることが前提なので、“まとまり”を求める必要は本来ないのかもしれないが、“ビッグ3”が牽引して「エンドゲーム」で大団円を迎えた“フェーズ3”までの流れがあまりにも奇跡的だったので、どうしてもそういうことを感じてしまう。  昨年(2022年)も「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」を皮切りに「ドクター・ストレンジ/MOM」と「ソー:ラブ&サンダー」を勇んで劇場に足を運び、それぞれ楽しんだけれど、前述の世界観の肥大とそれに伴う情報量の“拡散”に対して、やや疲弊感を感じてしまったことも事実。 結局今の所まだ手を出し切れていないが、「Disny+」で立て続けに配信されたスピンオフの各ドラマシリーズを全く追いきれていないことも、それに拍車をかけている。 ついには「ブラックパンサー」の続編を劇場鑑賞スルーしてしまうなど、自分の中で確実に“MCU離れ”が生じ始めていた。  “フェーズ5”の第一弾となるこの「アントマン&ワスプ」の続編に対しても、二の足を踏んでいたが、結果的には劇場鑑賞しておいてよかったなとは思う。 正直なところ「大満足」というレベルの作品ではないけれど、“フェーズ5”の入り口として重要な情報が多い作品であったし、何よりもやっぱり“アントマン&ワスプ”というヒーローカップルの活躍は痛快だった。  「アントマン」の過去作が公開された時と同様に、この小さき者はいつだってMCUという大河における停滞と混濁に痛快な風穴を開けてくれる。 「量子世界」というミクロの先のもう一つの果てしない宇宙を舞台にした映画世界は、イマジネーションに溢れ、そこにアントマンというキャラクター性が表す個性がユニークに発揮されていたと思う。  ただし、量子世界の造形美そのものは、美しく神秘的であった反面、明らかに“スターウォーズ”オマージュの要素が強く、また「アバター」等にも類似していて、必然的に既視感があったことは否めない。 現代のエンターテイメント全体のトップランナーであるMCUの一作だからこそ、そこは“見たことがない”映画世界と価値観を創出してほしかったとは思う。  物足りなさについて加えると、今後の“ラスボス”として初登場した“カーン”という強大なヴィランが、結局何者なのかが分かりづらかった。 節々の台詞で“におわせ”はしているものの、つまるところ彼は何を成し遂げたいのか、そして時間の終末に何を見たのかが、今後の展開を踏まえた意図的なものであることを理解しつつも、あまりにぼやけ過ぎていたように思える。  もう少し、このヴィランが時間そのものを支配している存在であることを映像表現として伝えるべきだった。カットになった未公開シーンでは、ホープやその他キャラクターのあり得たかもしれない“未来の姿”を見せるような展開もあったという。 時間軸が入り混じった新たな価値観を含めたこのヴィランの恐怖を表現できていたら、それこそ近年のSF映画の傑作「メッセージ」のような既存の概念を覆す深淵のドラマが表現できたのではないか。  また、演じるジョナサン・メジャースの演技は称賛されているようだが、個人的な所感ではキャラクターとしての厚みを感じられなかったのが正直なところだ。(少々わざとらしい演技プランも興を削いだ) 彼が今後の展開のキモとなるのは間違いないし、文字通り様々な「顔」を見せてくるのだろうから、その変貌ぶりも含めて期待していきたい。  そして、本作における最大の“欠落”は、マイケル・ペーニャが演じていた“ルイス”の不在だろう。 彼の存在と軽妙な言い回しが、過去作における代え難い娯楽性であったことは明らかだったので、冒頭かラストの1シーンでも登場させて欲しかったというのは、ファンの共通した思いに違いない。   とまあ、クドクドと不満要素多めになってしまったが、ヒーロー映画として面白くないなんてことは決してなく、充分に楽しめた。 エヴァンジェリン・リリーとミシェル・ファイファーの熟女母娘が、めちゃくちゃ美しく、格好いいだけでも、個人的な満足度は担保されている。  エンドロール後のクレジットをワクワクしながら待ち、登場したキャラクターを見て、「ああ、やっぱりDisny+に引きずり込まれるのか?」と神妙な面持ちになったことは否めないけれど。
[映画館(字幕)] 7点(2023-03-03 23:56:03)(良:1票)
58.  犯罪都市(2017)
“張り手”一つで傍若無人なヤクザどもを制圧するという説得力。 こんな刑事を演じられるのは、世界を見てもマ・ドンソクしかいないだろう。 文字通りの圧倒的な“腕っぷし”を唯一無二のアイデンティティとして、韓国映画を飛び出して世界的にも愛され、ついにはMCUにも進出したこの俳優の魅力を存分に堪能できる作品だった。  2004年に実際に起きた事件を題材にした、まさに韓国版「県警対組織暴力」。 実録的な映画世界だけあって、描き出される登場人物たちの描写が、警察側もヤクザ側も絶妙に生々しく、滑稽な様が、映画としての面白味を生んでいる。 韓国映画総じて言えることだが、演じる俳優たちの顔つきの実在感が、映し出される世界の空気感のリアルを生み出しているだとも思う。  時に目を覆いたくなるバイオレンス描写も繰り広げられる中で、ドカンと構える主演俳優マ・ドンソクの存在感のみが圧倒的な娯楽に振り切っていて、ちょっと他の犯罪映画や暴力映画には無いエンターテイメント性に繋がっている。  凶悪なヤクザの面々を豪腕で叩きつけつつも、女性や子供には弱く、どこかドジでおっちょこちょいなマ・ドンソクそのものを愛でるべき作品だろう。 昨年公開された続編も早速観ようと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-03-03 23:55:21)(良:1票)
59.  バビロン(2022)
“映画史”そのものが混濁とした映像の渦となって映し出されるラストシーン。 映画という表現の「革新」と「核心」を目の当たりにして、積年の感情が満ち溢れる主人公を大写しにしたラストカットで、スクリーンに映写された画面がぴたりと止まった。 3時間に渡って映画がもたらす魔法と虚構、そして狂気を見せつけられてきた私は、その“フリーズ”状態に困惑しつつも、デイミアン・チャゼル監督による何らかの意図だと信じ切って、体感にして10分以上、そのまま静止したスクリーンを観続けた。 暗がりの中、他の観客がみな席を立ち、ひとり取り残される格好となっても、その真意を探ろうと、映画世界を思い返しながら、微動だにせず凝視していたところ、おずおずと劇場スタッフが現れた。  なんと、映画館側の映写トラブルだった。 映画館に通うようになって30年以上経つが、こんな経験は初めて。こんなことが、この映画の、このラストカットで発生するとは。 無論、映画館側の失態であることは明らかで、今後無いようにしてほしいが、これはこれで稀有な映画体験だったと思う。残念な気持ちも無くはないが、何かの奇跡が働いて、イカれた映画世界に取り残されてしまったような感覚も覚えた。   「世界で最も魔法に満ちた場所」  ブラッド・ピット演じる無声映画時代の大スターは、映画製作の現場(セット)を「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と言う。それは、本当に間違いないことだ。 どれほど狂気と非常識が渦巻いていても、フィルムに写し込まれた虚構がもたらす感動が、そのすべてを凌駕する。 その様はやはり「魔法」という言葉が相応しい。  だがそれが「魔法」である以上、非情な“リミット”と共に解けてしまうことも必然。シンデレラは夢のような一夜の後、冷酷な継母の元へ戻らなければならない。 まさしく栄枯盛衰。本作が、かつてメソポタミアに存在した世界最大の古代都市の名称を冠されていることは、そのあまりにも盛大な虚構の儚さを、ダイレクトに表している。  だがしかし、だ。 たとえ魔法のような“一時”であったとしても、そこで輝くことの業と意義を、この映画は奇声のごとく叫ぶ。 ゴシップ誌の記者が諭すように、一瞬だろうとなんだろうと、一度フィルムに焼き付けられた輝きは、時代を超えて残り続け、生まれてもいない見ず知らずのどこかの誰かに感動を与え続ける。 そう、それが「映画」なのだと。   冒頭のイカれたパーティーに象徴されるように、正直、というか絶対的に、“綺麗”な映画ではない。 “文字通り”クソとゲロに彩られた汚物まみれの映画であることは間違いない。 作品的も支離滅裂な要素が多々あり、全世界的に渦巻く賛否両論も多分に理解できる。 でもね、その汚物まみれの映画世界を描きぬいているからこそ、これほど“映画愛”に満ち溢れ、逆流しているような映画も他にないと思える。  「映画」を構築するすべてが、嘘や欺瞞、虚栄と虚構で成り立っているという本質を、この映画に登場するすべての人物、作品の作り手、そして我々鑑賞者の全員が「理解」している。 それでも、私たちは、映画を作り続け、映画を観続け、映画を愛し続ける。  「映画」はクソだ!でも、なんて素晴らしい! “奇跡的”にも、時間が静止した10分間のラストカットで、私はその映画愛にまんまと侵食されてしまったようだ。
[映画館(字幕)] 9点(2023-02-19 06:51:10)
60.  トムとジェリー
テレビ放映を子どもたちが観ていたので、一緒に鑑賞。“金曜ロードショー”をまともに観るのも何年ぶりだろうか。 「トムとジェリー」は、自分の幼少時はもちろん、子どもたちが生まれた頃からよく観ていた。 言葉がわからなくとも、言語がわからなくとも、映し出されるコメディがただただひたすらに面白い。 それが、このアニメが世紀を越えて愛され続ける要因であることは明らかで、僕も子どもたちも、破茶滅茶で愛くるしいネコのネズミの狂騒劇に大笑いし続けてきた。  アニメーションと実写が融合して映画化された本作も、その狂騒劇の真髄はいかんなく発揮されており、真っ当に面白かったと思う。 実写映像の中にアニメのキャラクターが登場する作品は幾つも制作されてきたと思うが、よく考えれば「トムとジェリー」ほどその手法に相応しい作品も無いように思う。 マンハッタンの一流ホテルを舞台にして、ビル群と人間世界の中で、所狭しと大騒動を繰り広げる様は、言わずもがな娯楽性に溢れていた。  ストーリー展開自体はベタすぎるほどベタだったが、主演のクロエ・グレース・モレッツの愛嬌も手伝って、愛すべきファミリームービーに仕上がっていたと思える。  これからもいくつもの時代を越えて、彼らが仲良くケンカする様を見続けたい。
[インターネット(吹替)] 7点(2023-02-11 22:31:29)
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