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Qfwfqさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 170
性別 男性
年齢 43歳
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61.  グレースと公爵
フランス革命の時代が舞台になっている。今までのロメール作品を考えると驚きかもしれない。といってもこの映画で初めてエリック・ロメールの映画に触れたので、そんな事情はわからず、鑑賞中なんだか奇妙な感覚だったのを覚えている。というのも、この映画は当時のフランスの様子を全部CGで再現しているのだが、ただのCGではなくてまるで油絵のような質感で表されている。室内の場面ではうまく照明が使われていて素晴らしい出来だが、室外だと人物が背景からかなり浮いてしまっていた。この映画ではCGが全然「売り」になっていないのである。「CGでここまでやった」がなく、あくまでも「映画」を見ただけだった。そしてそのことに少なからず驚いた。ちなみにここで括弧をつけた「映画」と、例えば「私は今日○○というCG技術を駆使した映画をみた」という時に使う映画はまったく等しくない気がする。ロメールが位置づける映画という概念の中ではCGだって添え物にすぎないのだろう。大体CGはCG以上のことをやってはくれない。そういう意味でCGが映画のレベルを下げたという主旨の批判はおかしい。サイレントからトーキーへ、モノクロからカラーへ、という変化があってもいい映画は必ず出てきたし。この映画にはそういう点への警告的な意図も含まれているのかもしれない。が、やっぱりまず映画である。元恋人同士であるグレースと公爵の微妙な関係性が革命というダイナミックな変化の中で、もうとにかく揺れる揺れる。グレース役の女優、ナカナカよい。それにしても、「クレールの膝」とかもそうだけど、ロメールの映画の登場人物は「マジで!?」と思うぐらいの行動を突然やっちゃう危うさがあって、そういう意味じゃ彼の映画はキューブリックの映画よりも難解なのかもしれない。そしてそれ故にハマる。
[映画館(字幕)] 9点(2006-06-02 21:09:38)(良:1票)
62.  サマリア
3つの章仕立てになっていて、その中ではあの笑顔の子が死ぬまでの最初の章が一番素晴らしかったと思う。サマリア、ソナタという残り2つの章ではうまく地に足が着いちゃったというか、いってみれば映画祭が好みそうな展開になっていた気がする。象徴としての石が持つ意味が次第に変化していったりする部分や水の使い方とか評論家が好みそうだもん。美術が優れているのも分かる。後半があまり気に食わなかったのは結局美術に走りすぎたあまり、映画がどっかにいってしまったように感じたからだろう。ただし第1章「バスミルダ」は見事としか言いようがない。豚足を食べるシーン、公園で遊ぶシーン(柱から二人がヒョコっと出てきたときは鳥肌が立った)、そして銭湯のシーン。聖女というイメージを植えつけるに十分な場所の感覚をこの人は持っていると確信した。そして二人の会話の危うさが感覚をさらに鋭くさせる。セックスの話や相手の職業の話。ヨーロッパ旅行という願望がこの映画の世界では何の現実感も持たせない。ところでチェヨンとは一体何者なのだろう。家族の影を少しも見せずただ微笑むチェヨンは、ことによるとヨジンが創り出した架空の友だちだったのではないか、と話すのはチェヨンを演じたハン・ヨルム自身である。彼女の存在を何とかして支える笑顔が、この映画を物凄い所へと連れて行くのではと思ったが、彼女はそれこそ聖母のような表情であっけなく死んでしまう。この役にハン・ヨルムという子以外がありえるかどうか。それぐらいに忘れられないあの表情。結局ヨジンはチェヨンのイノセントな残虐に苦しめられ、ヨジンの父はそんな娘の自傷行為に絶望の底まで叩きのめされる。作品はやがてそっちのリアルに向かっていってしまった。が、何度も言うが前半は素晴らしい。「あやしさ」とか「こわれやすさ」が毒のように体を回った気分だ。これぞまさに「ギ毒」
[映画館(字幕)] 8点(2006-06-02 20:58:29)(良:2票)
63.  永遠<とわ>の語らい
「永遠の語らい」はその上映時間の約9割がヨーロッパ文明の賛美に費やしている。それが母と娘の対話でもあれば、知性ある熟女たち(なんだかいやらしいね)と船長マルコヴィッチとの多言語コミュニケーションの中でも繰り広げられる。最初の10分ぐらいの様子からして奇妙、ストーリー性はまったくゼロ、観客はひたすらに観光ガイドになりすました登場人物たちの説明に耳を傾ける。眠くなるのは当然だろうが、この映画に関しては眠るのがなんだか怖くて、つまり何かが起こることが前提になるような箇所が何気なくあらわれてくるのである。そして大抵は目を丸くするであろうラストは、そのラストが前提なのだとすれば9割を占めた会話は全部壮大な皮肉、ということになる。ってそんなことは見ればすぐわかるのだが、これだけ徹底的に説明風紀行がなされると、文明の衝突の構図が明確に見えてくる。そして、テロはもはや大昔から行われてきた戦争の文法では解くことが出来ない新たな破壊の形として浮き彫りになる。その意味で衝撃度は抜群にあるが、大きい音も静かに聞こえてしまうぐらいの静けさに独特の雰囲気をも感じた。なんにしても不思議な作品である。
[映画館(字幕)] 10点(2006-06-02 20:56:35)(良:2票)
64.  カナリア
過剰な言葉。ハンディカメラを多用して疾走する子どもを追う。現実には口に出さないような弁論的な言葉を発し続ける人物たちが現実とは違うもう一つの世界へと連れて行く。それはどこなのか、と聞かれたら「別の世界」と言うしかない。もう少し具体的に言うなら、「もっともらしい場所で、もっともらしいことを喋り、もっともらしい行動を取る世界」つまり非現実の世界だろう。映画が虚構であるという事実は、ここまでしないともはや伝えることができないのかもしれない。塩田監督が創り出した世界はラストの向井秀徳の自問自答に至るまで素晴らしかった。それは新興宗教に顕著にみられる組織と教条とを、国家の相似形として表現した世界だ。宗教集団の白のイメージやとめどない緑色の流出といった色彩感覚がその世界をさらに極端にする。徹底してフィクションを作ることに努めた彼の方向性こそ大正解だと思いたい。過剰な言葉の森を抜けるのに必要なものは言葉にはならない「何か」だろう。この「何か」は、「繋がれた手」と「疾走」が全てを表している。主人公の光一がバットで車を壊す。由希が男に手錠をかけて車から出る。二人は殴りあう。後ろからクラクションが聞こえたと同時に二人は手をつなぎ走って画面から消える。このシーンこそ「カナリア」をよく象徴している。手が繋がれた瞬間だけ、異様でグロテスクな教義に包まれた世界は消失する。それでもまた離れて・・・・でも最後は繋がる。あらゆる悲しみを受け入れて劇的な変化をした少年を前に、もはや言葉も言葉をなくす。全ては「生きてく」に辿りつく為。
[映画館(字幕)] 8点(2006-06-02 20:52:03)(良:1票)
65.  オールド・ボーイ(2003)
映画は理解するのではなく感じる事が大事だ、と言ったときの映画には抽象的な難解映画しか指定されていないようだが、どんな映画にでもこれは言える。もしウジンの復讐のモチベーションが誰にでも納得できるものだったなら、この映画は失敗していたはず。観る側はそれによって安心して楽しむ事ができ、それはつまり何の毒も持たないつまらない映画に違いないからだ。わからないからこそ面白い。75日も経てば消えるはずの噂がもたらした悲劇と15年という死刑にも等しい悲劇を比較することに果たして意味はあるだろうか。ミドも映画を観る側と同じように、セリフの中で「それだけで15年も?」と言っているが、こういう一般論が崩されるのを目の当たりにする事こそ映画の醍醐味では、と思う。そのミドが一番残酷な運命を背負わされ、しかも本人がそれを知らないという重すぎるラストは全てを一周してリアルでさえある。結局オ・デスとウジンという「ありえない存在」がこの映画の根幹にあるということだ。この映画のモチベーションは「ありえなさ」に全て注がれている。監督や役者の想像力はそれだからこそ凄いとしか言いようがない。復讐という意味ではこの監督の前作「復讐者に憐れみを」の方が強烈だろう。だが、この映画では想像力が圧倒的なのだ。そして想像の先にあるリアリティ。これぞ映画。最近発売されたDVDで鑑賞するのもいいが、この映画の音は映画館でしか味わえないだろうから、是非映画館へ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-06-02 20:51:12)
66.  ミュンヘン
実に暗くて冷たくて重たい映画だった。9.11が世界と映画のあいだにもたらしている歪みと、スピルバーグの内なる悪意(というか、なんか黒いもの)の肥大化が、20年以上前に起こったショッキングな事件をさらに不気味なものへとチューニングしてしまったような、そんな感じ。でもだからといって映画がグニャリとしているわけではなくて、映画自体は非常に洗練されているので見ごたえは十分。罪悪感ではない、エネルギーの消費としての殺人の重量みたいなものを感じられる映画だと思う。その最たる場面が、誰の印象にも残るであろうオランダ女の登場する部分。彼女の存在感はそのまま死を喚起させる。確か、彼女がらみで直接ではなくても仲間の3人が死んだはず。それが事実に基づくか基づかないかは置いても、イメージの喚起力が現実を凌駕してしまうような凄みがここにはあった。それにしても「映画のような」という形容詞すらついたあの同時多発テロだが、映画はこのミュンヘンのラストのように再びタワーを甦らせる事だって出来るということを忘れてはいけないと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2006-05-17 12:56:39)
67.  ニュー・ワールド 《ネタバレ》 
この映画の凄い所は、新世界側の人間が旧世界を新世界として認識するドラマを前半のコリン・ファレルが新世界に触れる部分と等しく描いたことにあると思う。片方を描いた映画は沢山あるが、両方の視点をくっつけた映画はそう無いはず。ただでさえ自然光を生かした贅沢な映像や幾層にも積み重なるような編集が縦横無尽に駆け回るのに、加えて後半はポカホンタスがいっぱしのメロドラマばりに真実の愛を追究する展開が待っているのでクラクラしてしまう。この映画は前半よりも後半の方が、面白くそして新しいと思う。全てを理解したポカホンタスが最後に見せるパフォーマンスは必見必見。
[映画館(字幕)] 8点(2006-05-07 00:18:12)
68.  エリ・エリ・レマ・サバクタニ 《ネタバレ》 
冒頭から「ジェリー」のような横移動。この雰囲気で一気に引き込まれる(でも本当は「風の谷のナウシカ」の冒頭っぽいと思った。ガスマスクもしてるし)。レミング病という死の病、それを薄っぺらく語るラジオの声、何気ない風景に突然出てくる死体など、終末観の語り方が魅力的である。「レミング病という人類に絶滅をもたらす病気が蔓延していて、この病気を防止する為にはある音楽を聴かなければならない。そして、レミング病に感染してしまったある少女がその音楽を演奏するミュージシャンのもとへと向かう」という、この図式も興味深い。主人公が世界を救うという、物語が世界の中心にあるような感覚がこの映画にはある。いや、もちろん正確には違っていて、浅野忠信と中原昌也の音楽は病気を防止するだけで治す事も出来ないし、彼らは救世主というよりは隠遁者で、音を奏でる事だけしか興味がない。でもそういう所が逆に救世主的だったりする。使い古され枯渇したはずのこの構図を再び作り直すようにして、さらにこの映画では爆音という飛び道具を用いる。あの爆音の強度があるから、この映画で規定した中心は揺るがないのだと思った。そしてこの強度と対をなすような中原昌也の微笑や探偵役の戸田昌弘の陰、これがとてもいい。冒頭の砂嵐と対照的な雪のラストシーンも良かった。
[映画館(字幕)] 9点(2006-04-20 12:52:25)
69.  立喰師列伝
激動の戦後昭和(偽)史の中で異彩を放った伝説のゴト師たちの系譜を、その方法論から考察を進めながら同時に昭和史を批評的に語るという離れ業をドキュメント番組のような構成で、しかもパタパタ絵(スーパーライヴメーションというらしい)に実写を取り入れるという極めて特殊な方法で実践している。この、「昭和(偽)史」と「ドキュメンタリー構成」と「パタパタ絵」そして「押井守」というキーワードが、全部キャラとして立っていることがまず凄いのだが、そのことによる居心地の悪さも相当のものだ。まあ、はっきり言うと面白くない。それでも、これだけ野心的な作品を世に出したプロダクションIGの創作意欲には、本当に驚かされるし触発される。この作品はアニメでも出来ない実写映画でも出来ない、その間でしか出来ないことをやっているんだと思う。特に、イノセンスでもそうだったが押井監督の身体に対する感覚は、ここでも快速で突っ走ってる感がある。そうでなくてもこの映画は開始からしてすでに暴走モードで、吉本隆明の詩からディズニーランドまで、映像と言葉を駆使して何でも出す。その頂点がファーストフード業界と集団テロリスト化した立喰師たちとの仁義なき戦いだろう。ここはかなり面白かったのだけど、この映画の持つ「全部想定内」的な空間から抜け出せてたわけでもない。バカになるんだったら もっと徹底しなければ。いや、バカであることを演出した時点でもうダメなのかも。んー。
[映画館(吹替)] 7点(2006-04-14 18:28:25)
70.  ウォーク・ザ・ライン/君につづく道
非常に良い映画だった。ていうかジョニー・キャッシュという人もジューン・カーターという人も全く知らず、さらにボブ・ディランにもエルヴィスにもあまり縁がないのだが、全然問題なかった。だって映画自体が素晴らしい。ウェルメイドという枠では収まらない音響の臨場感だったりライブの光景だったり両主演の存在感だったりが心に響く。監獄コンサートのシーンは音だけで泣けてしまうし、ホアキン・フェニックスが会場入りする前のリーズ・ウィザースプーンとの距離感もすごく良い。釣りのシーンも印象深く、この映画のキーポイントとしてうまく機能している。ていうか、単にあの静かな時間の流れがとても好き。そしてなんといってもこの映画はアメリカの物語で、非常に映画映えするのである。
[映画館(字幕)] 8点(2006-04-07 19:24:34)(良:1票)
71.  アワーミュージック
2回見たが、むしろわからないこと(色んな事をやっているのはわかったが、なんでそれをやっているのかという事)が増えただけという感じ。パンフレットで絶賛されていた音響について集中して鑑賞してみたが、改めてびっくり。地獄編でのピアノの音と映像の関係は、あれは何だろう。映像が音に追従してる様だし、その反対ともいえる。あるいは印象的だった川のせせらぎの音もよく聞いてみると色んな音が加わっているように感じた。音を気にしすぎた結果、他の部分は川の流れと共にどこかへ行ってしまったが、こんなに心地良かった映画体験もなかなか無い。上映時間の短さも良い。ところで「ヒズ・ガール・フライデー」の切り返しショットをゴダールが説明する部分があったが、この二つの写真で組み合わされる切り返しは映画の中で一度も無いという情報を知り、実際に見てみたが「ヒズ・ガール・フライデー」が面白すぎて確認できなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2005-12-07 11:20:23)
72.  ランド・オブ・プレンティ
グラウンド・ゼロから次第にカメラが上昇し、夜になりかけた空を映し出す。その空は、以前では見ることが出来なかったものだ。それを虚空と名づけるには思いが込められ過ぎている。それでも撮る。正しいとかそういう以前に、このシーンを入れなければならないという義務みたいなものが働いている気がした。だがヴェンダースとアメリカという、多くの人を困惑させ幻滅させたであろう組み合わせがこの映画ではもっと接近し、それゆえに離れてしまったような感じもまた、このラストシーンで抱いた。この感覚は矛盾しているようだが、この映画自体アメリカという矛盾で成り立っている事にも気がつく。イスラエルから母の手紙を持ってアメリカに帰った一人の少女と、その伯父(つまり少女の母の兄)――ベトナム戦争の後遺症を引きずりながら、アメリカの理想へと盲進する――との出会い。対話の不可能性を示しながらも、両者の体験を共有してゆくことで新しい何かが生じる。そしてその何かを、まずはあの空に求めてみる。真摯な姿勢だと思う。だが見終わったときは、それだけか、とも思った。そもそも短期間で、しかもビデオで撮るという機動性は、正面から取り組みすぎたこの作品のテーマとは相反しているような気がする。だからといって、しっかりと腰をすえて撮ったところで何がしかの獲得があるかどうかは、わからない。だが、ドイツ生まれのヴェンダースがこのテーマを撮ったのにアメリカの映画監督はまだほとんど、この映画のラストシーンに正面からぶつかっていないようだ。ランド・オブ・プレンティのラストは「始まり」でもある。必見。
[映画館(字幕)] 8点(2005-11-05 01:13:40)
73.  シン・シティ
アメコミ風世界観は結構だが、映画館ではやっぱりアメシネが観たい。この作品は映画的な想像力とはほとんど無縁の場所に存在していると思った。これは映画というよりも「画」である。面白いことは面白い。話が進むごとにシンシティという街の全貌が見えてくるようなストーリー展開は結構好きだし豪華な出演陣が持ち前の魅力を出しているとも思った。だけど、何かが足りない。というよりも不純物が多いのかもしれない。それは逆に言うと監督の原作に対する思い入れの深さゆえか。でも、映画は算数ではないので足し算しても結果は必ずしもアップしない。逆に引き算したほうがアップしたりする。B級映画的世界をA級映画風にする必要があったのか。シンシティは、「これは、~な映画である」といった時の「~」が多すぎる。実際の所「これは映画である」と単純に言うことは難しい。
[映画館(字幕)] 6点(2005-11-02 00:23:28)
74.  誰も知らない(2004)
ものすごーく出鱈目な事が書いてあったので書き直します。社会派という自負がこの人にはあるのだろう。映画が社会に対するご意見番になりうると信じているのだろうか。映画はどんなに人気があってもやがてスクリーンから姿を消す。だから歴史に残る映画でさえ、何が(フィルム?壁に映る光?ビデオ?)残っていることで歴史性を誇示しているのかよくわからないのだから映画って儚いと思う。儚いものが社会と対峙してもいい結果は得られなさそうなのに、この映画は社会を語るためのただの媒介になってしまったように思う。暖めていた企画ということで執念はあったと思う。でもその執念は本当の映画を作ることだったかどうか。
[映画館(字幕)] 4点(2005-10-27 02:58:19)
75.  子猫をお願い
例えば静かな電車に女子高生5人が乗り込んだとする。その瞬間まわりの空間が一変するのは誰もが想像のつくことだろう(単純に「うるせえなあ」っていうのもあるけどそれは別・・・エネルギーの問題です)。サラリーマンが5人乗っても混むだけだ。この映画は要するにそういう映画である。なんでもない場所を、あるいは映像的に美しい場所ですら、彼女達が画面の中にいるだけで彼女達の世界に変えてしまうようなとんでもない映画だ。5人が集合している時はもちろんの事、1人になった時でもその強度は消えない。上司に雑用扱いされゲーセンで一人ふてくされてDDRに熱中していても、冴えないサウナの受付嬢として老人に甘酒をサーブしていても、「こんな孫は知らん」と家の中に入れてもらえない時でも、そして家の修理代のために借りた金で機種変更した携帯で着メロを選んでいても、である。要するに場所は人によって染まる。だが時間が経てばその染めるのに用いた染料はやがて色あせる。のだけど、ごくわずかの人間に限り、映画の神様からどれだけの時間が経っても色あせない染料を与えられることがある。この映画から発散するエネルギーの無尽蔵さを目の当たりにすると、上記のような人間に当て嵌めたくなるわけです。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-27 01:50:06)(良:2票)
76.  チャーリーとチョコレート工場
面白い映画ではあったが、そこまでは・・・という感じもある。ビッグフィッシュもそうだったけど、なんか薄い。彩度は高いけど明度に欠けるというか。まあ、無邪気じゃないということかもしれない。一番痛かったのは、工場内の見学が保護者同伴になってしまったせいで、工場内に漂うべきだったと思う不穏な空気(極端に言えば、一度工場に入ったら二度と戻れない、みたいな空気)が、ただのバカ家族ショーを披露する舞台にしか感じられなかった点。というか、ファンタジーという要素から一番かけ離れているものは、実は家族なんじゃないかと思うのだが。
[映画館(字幕)] 6点(2005-10-18 23:28:38)(良:2票)
77.  ジェリー
ある「意図」を映画に放り込む、ということを先端まで突き詰めていくと結局こういう形になるんじゃないかと思う。それこそシネマスコープで撮ったということにも意味を感じてしまうぐらい。で、そこから「そういえば「エレファント」はスタンダードだったな」みたいな。こういう、どんな解釈も可能な、含みだらけ(実は何もないかもしれないという含みも入れて)の映画はあんまり好きじゃないが、この映画は、作った監督自体が可能性以上に不可能性をジェリーという同じ名前の人物に感じているみたいで、この作品に正面から付き合うには自分も「ジェリって」みるしかないな、という気分にさせる。感情移入じゃなくて自分を砂漠に置くという感じ。で、こういう感覚って映画館の中でないと生じにくいし、最初に書いたようにシネスコだからテレビだとめっちゃ画面が小さくなる。鑑賞という方法では多分死ぬほど退屈に違いない。真っ暗な映画館の中で、幾人かの観客と一緒にこの映画を共有する。そのことの重要性を想起させるだけでもこの映画は貴重な存在なのだが、この映画の配給会社(アメリカの)はつぶれたそうだ。で、日本でも実際に映画館で上映するにしてもどうせ大きいところではやんないから単館上映の小さな小屋で掛かるのがせいぜい(しかもレイトショー)。そりゃあ儲かんないだろうし、だからソフト化して回収できる分は、とか思ってるんだろうけど、これ、儲ける為の映画じゃないし。いやほんとに、環境映画のコーナーに置いてあげるべきだと思う。今度この映画が日本で上映されるのはガス・バン・サントが死んだ時かな・・・あーあ。まあ、「商売」としては完全に間違えた映画です。堪らなく良い映画だと思うんだけども。
[映画館(字幕)] 10点(2005-08-31 13:30:28)
78.  ヴェラ・ドレイク
イギリス映画で、20世紀の悪しき慣習がテーマで、ベネチア映画祭グランプリと三拍子揃えば、そりゃあこういう映画になるのは必然というもので、そういえばちょっと前に「マグダレンの祈り」という中途半端な映画があったが、方向性は違えど陰湿な空気はどちらも非常に類似している。この陰湿な暗さに完璧な正攻法で立ち向かった、無邪気なまでの創作意欲には敬意を表するが、この映画自体がまず古い慣習から抜け出ていないようにも感じた。古臭いという意味でなく、1世紀以上積み上げられてきた映画という集積物をなるべく崩さないようにと、つとめて優等生的に、もちろんその姿勢に対しての何らかの意図的姿勢を持つことなく、である。さらに苛立たしいのは社会とか戦後といった背景が、見え隠れどころか全く安易に映画の中でのさばっていること。一家をめぐる悲喜劇をもっと見せたかったに違いないが、その肝心なドラマは社会によって相殺されてしまった。主人公のおばあちゃんやその旦那たちはがんばったが、映画としての躍動感を感じ取ることができずそれにより演ずる側も演技を超えることができなかった。
[映画館(字幕)] 5点(2005-08-23 02:19:31)
79.  気まぐれな唇
ダメ男のロードムービー。でもこの男は、なんか憎めない。そして女にモテる。映画は、韓国の田舎や街中をなにげなく切り取ったような構図の中で、人物がなにげない会話をなにげなく交わす。あるいはなにげなく体を交える。話が面白いとか映像が綺麗とか、そういう評価よりも人物の間の距離感とか空気あるいは仕草、そういう所を見つめるとこの監督がいかに周到な人かがわかる。エリック・ロメールという人物の名前が出てくるのも頷ける。しかしロメールの映画が極めて映画的なのに対し、このホン・サンスの「気まぐれな唇」は何となく文学的だ。そう感じた。いわく「顕微鏡のような」観察眼がこの人の映画の特徴なのだが、その視線は、というよりも彼の頭の中では、映像の連鎖というよりもむしろ高度な言葉の引き伸ばしによって映像に落とし込んでいるような印象を受ける。だからなのか、先ほど連打した「なにげなさ」が説明的な感じを持ってしまったような感じがしてしまう。とはいってもこの映画の質はかなり高い。役者が生き生きしている点は特に良かった。雨に始まり雨に終わる、思いっきり斜に構えた「韓流」である。
[DVD(字幕)] 8点(2005-08-21 02:56:29)
80.  ソウ
アイディアは面白いと思う。糸鋸というアイテムが個人的には好き。そして謎解き案内人の二人は観客の興味を減退させない、良い語り部だったように思う。この手の不条理サスペンスはまず第一に謎解きの快感を映画の人物とともに共感していく過程をどう描くか、というのがあると思うがそれは時間の制限というオプションも相まって結構成功していると思う。しかし、第二の点。ここがヒド過ぎた。つまり犯人である殺人鬼をどう描くか。アメリカという、殺人者のバリエーションが世界でもっとも多様であると思われる国で作られた映画にもかかわらず、その人物の造形があまりにも貧弱で、見る側を平気で置いてけぼりにするような突き抜けた想像力も持ち合わせていない。緩慢な死に対する大衆の圧倒的な無視だなんてあまりにも・・・。医者の蒼白の顔色ともう一人の男の最後の悲鳴が煽るのは10分もすれば忘れる表層的な恐怖に過ぎない。シチュエーションの異常さを装いつつも、そのアイディアに人物が勝てなかった残念な作品。
[DVD(字幕)] 4点(2005-08-20 03:12:23)(良:1票)
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