1021. 女が階段を上る時
《ネタバレ》 『流れる』の現代版みたいな感じ。タイトルにある階段を上る時の音楽が独特で高峰秀子の心の声と共に印象に残る。外の疲れた開放感と店の作られた開放感、その間にある階段だけはいつも薄暗く、薄暗いけど階段を上る高峰の背中だけは光が当てられ、その階段だけが別の世界であるかのように映される。出てくる男どもが意識無意識にかかわらずみんな高峰を食い物にする展開の中で、女であることが常に彼女を苦しめる。強がってはいるけれど実は弱い、でも好きな男を見送って株券を返すことでスッパリと切って、その後店で見せる商売用の笑顔に女の強さを思い知る。結局苦労するだけして何も残らない。なくしたものは多くとも得たものは厳しい現実を身をもって経験したということぐらい。けしてハッピーエンドとは言い難い。それでも前を見ているから出る笑顔に救われる。 [CS・衛星(邦画)] 7点(2007-04-24 16:39:50) |
1022. 女の中にいる他人
《ネタバレ》 人を殺した人間がそのことを隠すことに我慢出来ずに告白してしまう、ということに腹が立つってのもよくよく考えたらおかしな話なんですけど、コイツの場合は罪の大きさを解かってはいるけども、告白も自首しようとすることも罪を償う気持ちからではなく、とにかく楽になりたい、ただそれだけが行動規範となっているので腹が立つ。成瀬監督の男どもはたいていが身勝手で情けない奴なんですが、この作品は設定を男にとっての極限状況にすることでもう見るも無残な情けなさを露呈させてしまう。その情けなさがあまりにあからさますぎて楽しくありません。そう思うってことは自分の中にもそんな情けない部分があって、それを見せつけられていると感じているからかもしれません。そう考えるとさらに楽しくないぞ、この作品。でも映像は、とくに室内のソレは成瀬作品の中でも随一の美しさ。映像と女だけは白黒はっきりしとります。 [DVD(邦画)] 6点(2007-04-23 18:54:53)(良:1票) |
1023. マリヤのお雪
人の業が露にされる乗り合い馬車のシーンにフォードの『駅馬車』を思い出しましたが、どちらも原作がモーパッサンの「脂肪の塊」を元に書かれたらしく納得。ここでただ座っているだけの山田五十鈴の落ち着きぶりというか何もかもを悟った風な雰囲気に驚く。だってまだ17歳か18歳くらいでしょ、このとき。で、めちゃくちゃ綺麗です。銃撃戦という溝口映画にはめずらしいアクションシーンがありますが、なかなかどうして、林の上に、そして林の遠く下にいる被写体にとっての敵が被写体とともに映されることで臨場感ありありのドキドキシーンになってます。彦馬さんも書いておられる揺れる船から残された二人を映した画ですが、この二人を並列に並ばせないんです。その画のにくいほどの美しく完璧な構図!はっきり言ってお話なんてどうでもいいです。いや、どうでもいいことないけど、どうでもいいと思わせるほどの美しい画でいっぱい。その美しい画が次に映される美しい画と、そしてその美しい画がまた次の美しい画と繋がって映画となる。何度もため息をこぼしました。 [映画館(邦画)] 9点(2007-04-20 16:50:14) |
1024. 元禄忠臣蔵 後編
《ネタバレ》 「前篇」で見せた松の廊下シーンと切腹へと向かうシーンを合わせた様な、横へ上へと自在に移動するカメラワークに圧倒されるという最適なオープニングがまず目に飛び込んでくる。衣装から建築物まで本物に拘ったリアリズムはそのままに、史実に忠実であっただろう「前篇」に対し、この「後篇」では大きく3つのエピソードを差し込むことでドラマチックさを出している。はやる義士の一人を将軍自ら涙ながらに嗜めるというちょいと説明調な人情劇、亡き浅野の妻、瑶泉院にけして本心を告げない大石の細心さを見て取れるエピソード、そして義士の一人の許婚との死を目前とした恋愛劇の3つ。「忠臣蔵」という溝口には不似合いな題材において、この3つのエピソードが溝口らしさを出したとは思わないが、誰もが知る「忠臣蔵」を新鮮な気持ちで楽しむには面白いエピソードだと思いました。公の場の会話が多かった「前篇」に比べ「後篇」は感情のこもった会話が多く、物語に入り込みやすくて好きです。 [映画館(邦画)] 7点(2007-04-19 12:04:49) |
1025. 元禄忠臣蔵 前篇
「ことば」が難しい。私的な会話はともかく公の場での会話に使われる「ことば」が難しい。歌舞伎に慣れ親しんだ人なら問題ないのだろうが、私のようなその時代の「ことば」に慣れていない者には、長回しで語られるその難解な「ことば」は、それを追うことにかなりの集中を要してしまって疲れる。もちろんリアリズムに徹したからなのだろうし、徹した結果の世界観は、その時代の封建的社会や武士の忠義、幕府の絶対君主制を見事に再現していたのだろうが、もう少しセリフを少なくしてくれたほうが助かったような。それでも退屈させずに見せてしまうのは巧いということなんだろうなぁ。↓のお二人もご指摘されている冒頭の松の廊下のシーンで城内をじっくりゆっくりじわーっと見せる長回しと浅野内匠頭が切腹へと向かう、塀の外から塀の中へと見せてゆくシーンは圧巻。単純に「城内は広い」ということを思い知らされたのですが、そう思わせた時代劇はこの『元禄忠臣蔵 前篇・後篇』だけである。 [映画館(邦画)] 7点(2007-04-18 11:25:13) |
1026. 愛怨峡
前年の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』と比べるとかなりおとなしい印象がありますが、たぶんヒロインのキャラからくるのでしょう。女が弱者である社会というのは変わりませんが、山田五十鈴がそのことに憤り反発し強がるのに対し、この作品の山路ふみ子は強がるのではなく本当に強くなってゆくのだ。溝口は女を描くのが巧いとか言われるが、その多くは女を通して社会を描いているところがある。もちろんその中で女優を輝かせ、その仕草や眼差しをしっかりと映し出しているからそう言われているわけですが、本当に女を描いているのはむしろちょっとインパクトに欠けるこの『愛怨峡』なのだと思う。私は2年か3年ほど前に映画館で観たのですが、【小菊】さんのおっしゃるようにフィルムの状態は最悪でした。物語の把握にはなんの問題もありませんでしたが、やっぱり美しく撮られているはずの女の顔に線が入ったりぼやけたりというのは残念でしかたないです。それでも紛失されたフィルムも多々あることを思えば、今この作品に出会え、美しい画面を想像しながら観ることが出来ることを素直に喜びたい。 [映画館(邦画)] 7点(2007-04-17 13:23:57) |
1027. 折鶴お千
《ネタバレ》 邦画サイレントを3本立て続けに観た中の1本。どれも面白かったのですが、これは格が違うという印象。格が違うという漠然とした印象をなぜ持ったのかがよくわからないのが疎ましいのですが、まずモノクロだからこそその違いがはっきりする夜のシーンの美しさ。これは他の同時代の作品を立て続けに見ていなければ気づかなかったかもしれない。そして回想で語る構成の斬新さと物語そのものが持つ質のせいかもしれませんが、さらにサウンド版ということで音楽の効果もあったのかもしれませんが、最後まで物語に没頭させる力は並々ならぬもの。『カリガリ博士』の日本公開によってこの作品もドイツ表現主義の影響を受けているということを先にチラシで読んでいて、『カリガリ博士』のような摩訶不思議な背景があるのかとドキドキしましたがさすがにそれはなかったと、ちょっとホッとしました。狂人となったヒロインの幻想シーンがその影響されたというところのシーンなのでしょうか。とにかく、今となっては古臭いお話を全く古臭く感じさせずに見せてしまう、これが溝口健二の溝口健二たるところでしょうか。 [映画館(邦画)] 8点(2007-04-16 11:24:21) |
1028. カナリア
《ネタバレ》 太鼓の音とともに走り出す。これだけでこの映画が只者じゃないことがわかる。『害虫』でも思ったが「走る」シーン、そしてそこにかぶされる音楽が絶妙です。私は『害虫』のレビューで主人公の家庭を『どこまでもいこう』のプラモ少年と同じと書いた。この『カナリア』の主人公の家庭環境も『どこまでもいこう』の主人公の親友にそっくりである。父の不在、そして親に代わって小さな妹の面倒をみる兄。つまり『害虫』も『カナリア』も監督のデビュー作『どこまでもいこう』から派生した作品と捉えることが出来る。『どこまでもいこう』は子供の健全な成長が描かれていたと言っていいと思う。『害虫』は健全な成長をし損なった母に育てられた子供の、成長できない姿を描いていたのだと思う。そして『カナリア』は成長に必要な様々な経験を特殊なカタチで通過しイビツな成長を遂げようとする少年が、自らの、そして道連れの少女の、あるいは少年を想う大人たちの作り出す新たな経験によって、超越した成長を遂げる物語。ラストは所謂「解脱」の領域にまで達したということでしょう。スーパーサイヤ人みたいなもんです。この超越した成長をもって「成長3部作」(勝手に命名)は完結する。 [DVD(邦画)] 7点(2007-04-13 14:20:49) |
1029. 害虫
《ネタバレ》 まるで『どこまでもいこう』のプラモデル少年の家庭。母は全然母ではなく、それ以前に大人でもない。目の前の問題から常に目を背けている。それゆえに子供もまた成長を止めている。大人になることを拒んでいる。だから少女は無防備で浅はかな行動しか出来ない。堕ちるべくして堕ちてゆく。この作品、塩田監督の同年作品『黄泉がえり』や新作『どろろ』のその多用される「言葉による説明」がおもいっきり排除されている。しかし画そのものに説明を不要とするだけの説得力が無い。例えば、蒼井優の何度も繰り返される登校シーンはめげずに宮崎あおいを学校に誘っていることを意味しているわけですが、どのシーンも道が同じように濡れており、まるで夢か妄想のようなシーンになってしまっている。家を燃やすシーンも唐突で、どちらの家なのかも分かりづらい。主人公である宮崎あおいにほとんどしゃべらせなかったのはむしろ正解で、静けさの中の小さな闇のようなものがうまく表現されているようでもあったのですが、もう少し各シーンに丁寧さというか親切であっても良かったと思う。 [DVD(邦画)] 5点(2007-04-12 11:17:05) |
1030. ギプス
エロチックというよりも、女のいい匂いが充満した映画という感じ。実際、さほどエロチックなシーンはない。その代わり、極端に妖しげな佐伯日菜子も、ものすごく普通っぽい尾野真千子も、どちらも同じくらいに女の匂いをプンプンさせていて、もうそれだけでこの作品は評価されても良いくらいの雰囲気を持っている。『月光の囁き』にも似た二人の関係をサスペンスで推し進めるというだけのストーリーが、この充満する女の匂いによってエロスにもホラーにも、はたまたラブストーリーにも不条理劇にもなり得る可能性を秘めながら進んでゆく。『月光の囁き』ほどのインパクトは無いものの、「女を撮る」ことに対する塩田監督の可能性を見た気がした。 [ビデオ(邦画)] 6点(2007-04-11 12:15:17) |
1031. 月光の囁き
《ネタバレ》 SだのMだのといったものが誇張されているように見えて、実はどこにでもある恋愛の中のちょっと複雑で異端で、それでいてものすごく単純で真理ともいえる恋愛を描いている。とくに女はSとは言い難い。男を犬のように扱ったり、他の男との性行為を見せつけたりというS的な行動があるが、そこに快感らしきものが見えない。一方で男はかなり異質な性癖を持っている。でも純愛の極致とも言える。なぜならその相手は一人だから。女は言う。「普通の恋愛がしたい」と。「普通」ってなんだろう。彼女の言う「普通」とは皆と同じということだろう。自分を隠して、その偽りの自分を好きになってもらう。でも男は自分の全てをさらけだしてくる。女はこの男を好きだから、さらけ出されたものに困惑しているだけ。彼女は答えを出す。感動的なエンディングと同時に感動的な主題歌が流れる。昨今のタイアップ曲でしかない主題歌ではなく、まさに主題を歌った歌が流れるのだ。「運命の人」という歌が。 [DVD(邦画)] 7点(2007-04-10 17:36:42) |
1032. どこまでもいこう
どこか懐かしい少年時代の些細な出来事が描かれているはずなのに、まるで人生の悲喜交々、喜怒哀楽のほとんどがこの時期に集中しているかのように、そしておそらくソレは本当にそうなんだと思わずにはいられない超現実感がある。だから「史上最大の作戦のマーチ」がまるでこの映画のためにあるかのようにはまる。悪ガキ転校生の登場の際の怪しげな音楽が主人公にとっての最悪な事件を予感させ、その予感は親友の「裏切り」という大事件をもって的中する。大人からみれば「裏切り」でもなんでもないものでも主人公にとっては「裏切り」以外のなにものでもない。でも親友だからぎこちなく仲直りする。大好きだからとか必要だからではなく親友だから。精巧なプラモデルに「凄い」と言う。クラスメイトだからでも友達になりたいからでも、ましてや憐れみからでもなく「凄い」から「凄い」と言う。毒されていないから戸惑い、傷つき、悲しむ。そうやって大人へと成長する。リアルすぎるのが唯一の欠点。 [ビデオ(邦画)] 6点(2007-04-09 12:48:22)(良:1票) |
1033. ジャバウォッキー
《ネタバレ》 シュヴァンクマイエルの短編はどれも好きですが、コレと『家での静かな一週間』は別格です。多くの作品にみられる擬人化された無機物の動きと音楽のコラボレーションも、「繰り返し」を軸に展開させ最後にきっちりとオチをつける構成の妙もいつもどうりに完璧で、尚且つ余分なものが無い。内容はあいかわらずの不思議ワールドであるが、鳥篭に行き着くエンディングを見る限り、新作『ルナシー』同様に「抑圧」がひとつのテーマにあると思われる。女の子の人形に課せられる通過儀礼。試行錯誤の迷路は悪意無き黒猫になんども邪魔されながら(このときの「ア~ア~ア~・・」って音楽、最高!笑える!)成長した人形に待ち受けるのは社会の檻。抑圧の時代を生きたシュヴァンクマイエルにとってはこれもまたシュールレアリズム。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2007-04-06 13:25:35) |
1034. 肉片の恋
《ネタバレ》 生まれて初めて肉片に感情移入してしまった。あっという間に終わる短い作品ですが、監督のほかの作品同様にかなりの手間と時間を費やしているのは間違いなく、だからこそこの肉片には心が宿っている。「CGの映像は死んでいる」というシュヴァンクマイエルの言葉を実証するように。肉片は肉片らしく動き、肉片らしく踊り、肉片らしく抱擁する。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2007-04-05 13:36:49)(良:1票) |
1035. アリス(1988)
シュヴァンクマイエルの作るコマ撮りアニメーションにはいつも不気味さとコミカルさが共存する。でもこの「不気味」な部分、「グロテスク」な部分こそが実は子供の視点としてリアルなものであって、「コミカル」な部分というのはシュヴァンクマイエルの中の大人の視点によって作品に作品らしさを吹き込んでいるだけにすぎないような気がする。そういう意味ではやっぱりこれは大人のための作品である。さらに「不気味」「グロテスク」を消し去ったディズニーの『不思議の国のアリス』も「子供に見せたい大人」のための作品であって、大人が不気味と感じるものを子供も不気味に感じるという妄想かもしれない概念によって作られているのだと思う。今度、機会があったらこの『アリス』を子供に見せてみようか。意外と「不気味」「グロテスク」と感じずに普通に楽しむかもしれない。気持ち悪いと言って触れない虫やナメクジを子供のときは平気で触って遊んでいたように。ちょっと勇気がいりますが。 [DVD(字幕)] 7点(2007-04-04 11:59:27) |
1036. 庭園
《ネタバレ》 いつもの「モノ」を擬人化するのとは反対に「ヒト」を「モノ」として描く。そこにはチェコ全体主義が揶揄されているわけですが、チェコの人たちにとっては揶揄というには解かりやすすぎるくらいの描写らしく、だからこそ長きに亘っての上映禁止処分となったのでしょう。家(国家)を守る人垣。人垣となる人の面々にはおじいさんもいれば妊婦さんもいる。服装も様々でそれぞれの人垣に至る経緯に興味を抱いてしまいます。この世界に存在する音の強調と共にシュールレアリズム全開!(ネタバレもなにもあったもんじゃないと思うけど一応ネタバレに) [CS・衛星(字幕)] 7点(2007-04-03 16:09:58) |
1037. ルナシー
《ネタバレ》 精神病院を舞台にした管理する者と管理される者の、抑圧と自由のせめぎ合い、という簡単なお話ではない。『まぼろしの市街戦』は正常と異常があって主人公は二者択一に迫られる。『カッコーの巣の上で』は抑圧と自由があって主人公は戦う。この『ルナシー』は結果的には病院を仕切る二つの方法が描かれるがそれだけで終わらない。二つの方法とは「完全な自由」と「徹底した監視と体罰」。冒頭に監督自身が言ったもう一つのやり方が描かれない。でも実は描かれていた。以前シュヴァンクマイエルについて書かれた物を読んだことがあるのですが、そこでたしか「完全なる管理」について語ったものがありましたがそれが描かれていました。この作品はストーリーは実写で描かれ、その合間にいつものシュヴァンクマイエルらしいグロテスクな舌や肉がストーリーの進行とは関係なく映される。でもストーリーには繋がらなくてもこの舌や肉は確実に話をなぞっている事に気づきます。ラストカットはラップで包装された肉。透明なラップ。管理されていることに気づかない管理。冒頭で監督がもう一つのやり方について言う。「それが使われているのが我々の住む狂った世界」。 哲学的ホラーとはよく言ったもので、ここで書ききれるほどの浅い作品ではありません。侯爵のあきらかなモデルとなっているサド侯爵について知りたくなりました。知ることによってこの作品のもっと深いところに行き着きたい。そんな欲望を奮い起こさせる刺激的な作品です。 [映画館(字幕)] 8点(2007-04-02 17:39:22)(良:1票) |
1038. 叫
傑作『アカルイミライ』以降、黒沢清はホラー以外のジャンルを撮るだろうと思ったし期待してたのですが、またホラーかよ!と思いつつもそもそも黒沢清の映画は「ホラー」だとか「ミステリー」だとかというより「クロサワキヨシ」というジャンルの映画と言っても過言ではなく、この『叫』もまたとびっきりの「クロサワキヨシ」だったので結局のところ予想どおりたいへん満足できました。「アカルイミライ」のために埋め立てられ、途中で放置された場所を舞台に、まるで『CURE』の殺人のように人は何かに誘導されて殺人を犯す。殺人現場に残る自分の痕跡(偶然にも同時期に公開中のトニー・スコット『デジャヴ』と酷似!)に『ドッペルゲンガー』を彷彿させ、多くの黒沢映画に登場する「幽霊」と「終末」が描かれる。『ニンゲン合格』や『大いなる幻影』がこの世界に存在することの意味を問いただしたように幽霊は人間であったときの存在を無にしようとする人々を許さない。どこを切っても「クロサワキヨシ」でありながら常に進化し続けるクロサワ映画。同じようで同じじゃない。切り口を変えるだけで全く新しい映画にしてしまう。「見なかったことに」がもたらす恐怖。この映画、けして「見なかったことに」なんてできません。 [映画館(邦画)] 7点(2007-03-30 12:14:27) |
1039. 河(1997)
《ネタバレ》 汚い河で死体の役をした翌日から首に痛みを感じ、いろいろな治療を試みる、という上辺のストーリーはことごとく要点だけが映され間がスッポリと抜け落ちている。心情までもが省かれる。しかし上辺のストーリーとは一見関係のない、例えば雨漏れのシーンだとか、父の一人での食事だとか、家の中でのただトイレに行くときの家族のすれ違いだとか、母とその愛人らしき男との何をするでもないシーンだとかは長すぎるくらいの長回しで映される。映画は息子に襲った奇病という「事件」を描かずにそれぞれの孤独を描き出す。その徹底ぶりが独特の作風を作り出す。そして「事件」を描かないからこそ見えてくるものを提示し、「事件」を描かずとも映画が成り立つことを証明している。ホテルの窓から這い出してゆく主人公の行く末は映されない。しかし常にどんよりとした暗さを見せてきた画面が最後に光を映している。実に映画的なエンディング。 [ビデオ(字幕)] 7点(2007-03-29 11:23:57) |
1040. 侍(1965)
ストーリーが実に良く出来ている。面白いと思う。でもよく出来たストーリーゆえに全編が説明で支配されている。とは言ってもその説明もまた実にうまくこなしている。退屈になりがちな説明をテンポをつくるクローズアップの画を差し込みながらの早いカット割りで見せることで間延び感を出来るだけ廃し、怒りや悲しみといった内面の描写を極力排除し物語をシンプルに進行させることで活劇たらしめている。それでも東野英治郎が説明する回想シーンはややくどい。 [ビデオ(邦画)] 6点(2007-03-28 14:07:06) |