1321. ランド・オブ・プレンティ
ヴェンダースにしてはメッセージ色の強い作品。セリフ過多のそのメッセージはヴェンダースがいかにアメリカを愛しているかということの証明でもある。その中で『ミリオンダラー・ホテル』を彷彿させる青みがかった映像がリアルな政治色を排除するかのように美しい虚構性を醸す。さらに、『都市とモードのビデオノート』以降描かれてきた「映像のあり様」がここでも描かれる。ハイテクが作り上げた映像と自らの概念だけで物事を判断し、行動する伯父。一方、ノートパソコンをコミュニケーションツールの一部として利用するものの、何よりもじかに見る、じかに会うということを本能的に重んじる姪。はるかイスラエルからやってきた姪の目的は母の手紙を渡すこと以上に「会う」こと。また、浮浪者の死の謎を解明するよりもまずその屍を親に直接持っていくことを優先する。出会うことで何かが生まれる、出会わなければ何も生まれない、というロードムービーの大原則の意味するものこそがヴェンダースが愛するアメリカに向けたメッセージなのだと思う。 [映画館(字幕)] 7点(2006-01-26 16:37:26)(良:1票) |
1322. エンド・オブ・バイオレンス
合理的に映画制作という名のビジネスをする主人公が衛星画像を利用した非公式の国家プロジェクトにまきこまれる。映像という媒体の手軽さと無限の可能性からなる危険性の提示、と同時に映像がそれを扱う人間によって脅威にも感動にもなりうる実に自由な存在であることを提示している。映像の魔力と魅力、、実にヴェンダースらしい題材だ。ここで描かれる暴力は映像が生み出したものではない。あくまで映像を利用して人間が生み出すのである。だから暴力の終焉もまた人間の手によってでしか為されない。そのとき映像が良識ある人の手によってなにがしかの役割を果たすかもしれない。ヴェンダースは映像に関わる者としての責務をこの映画で宣言しているように感じる。そして映画に出きることを常に考えているのだと思う。 [ビデオ(字幕)] 6点(2006-01-25 16:14:11) |
1323. さすらい(1976)
ワゴン車の窓からの景色が通りすぎてゆく。ガラスに映る景色もミラーに映る景色も時間とともに通りすぎてゆく。誰からも束縛されず、日々淡々と仕事をこなしながら長距離移動していく男と離婚をしてもそこから前へ進めない男。時が止まっているかのような二人の男の行く先々は、時の流れを象徴するものばかり。既に使われていない工場、誰も住まない男の生家、使用済みの国境見張り小屋、そして寂れた映画館、、。二人の男は気づいてゆく。変わらないと思っていたものが変わることを。いつまでも続くと思っていたものが終わることを。ワゴン車と列車にわかれ、去って行く途中、二人は一度交差してまた離れてゆく。心のどこかで長くて退屈だと思っていた映画に対し、終わらないでほしいという想いが込み上げる瞬間。離れてゆく二人から目をそらさないことで自分も少し変われたような気がするのは大袈裟、、、ですよね。 [ビデオ(字幕)] 7点(2006-01-24 15:47:17) |
1324. ミリオンダラー・ホテル
オープニングのホテルの屋上のシーンがスローモーションのせいか、U2のPVみたいな映像になってる、と感じたが、ラストに同じシーンが流れたときは主人公の命を長引かせる唯一の手法であるスローモーションがいとおしくも思えた。屋上からのジャンプは『ベルリン・天使の詩』を思い起こさずにはいられない。そうするとメル・ギブソンの背中の傷が翼をもがれた跡のようにも見えてくる。それぞれが傷を持つ住民たち。罪を背負い傷を癒す天使。全てが浄化されたかのような清清しいエンディングが印象的。罪を描き、その罪を許す。やっぱりこれは「ニューヨーク・天使の詩」だ。 [ビデオ(字幕)] 6点(2006-01-23 14:36:21) |
1325. カンタベリー物語(1972)
文学の世界から映画の世界へ転身してきたパゾリーニは、昨今のストーリーをなぞるだけの「原作の映画化」とは異なり、どの時代の原作においても潜む現代に通ずる普遍的なテーマをあぶり出し、独特の感性において映像化する。この作品は、人間の「欲」の醜さをこれでもかと見せつけた、いかにもパゾリーニな映画にもかかわらず、けしてネガティブな印象を持たせない。それどころか、どす黒い人間の暗部を楽しく拝見できるという凄い作品なのである。「パロディ」の真骨頂!です。パゾリーニ作品の常連、ニネット・ダヴォリがチャップリンの風貌で登場するエピソードはチャップリンの風貌でなければ、とんでもなく後味の悪い悲劇になりかねない。敬愛するチャップリンの最善のパロディと言える。すべてのエピソードがわかりやすいストーリーなのでパゾリーニが苦手な方にも受け入れやすいのでは。 [ビデオ(字幕)] 7点(2006-01-20 13:49:50) |
1326. アラバマ物語
黒人差別の激しいアメリカ南部において、偏見を持たず弁護士という仕事をこなし、二人の子供たちとは常に正面から接し、諍いの避け方をさりげなく見せ(近所のおばあさんとのやりとり)、いざというときには誰よりもたのもしく子供たちを守る(狂犬のシーン)。まさに理想の父親がいる。子供たちが黒人たちの中に違和感なくまぎれて裁判を傍観する姿や、父と黒人被疑者が町の人たちに取り囲まれた際の子供たちの行動は、子供たちの理想的な成長と理想的な親子関係を見せている。そしてそのことによってさらに理想の父親を確固たるものとしている。当時としてはかなり繊細に扱われるべきテーマを含んだ社会派でありながら「理想の父親像」を前面に描くことで受け入れやすい作品となっている。個人的には理想的すぎに感じるけど、当時のアメリカ、ましてやハリウッドにしてみれば、これくらい完璧なヒーローでもいないと作る側も観る側も受け入れられなかったのかもしれない。 異常者として恐れられるブーの逸話は差別の根源を描いていると思われる。話さないからわからない、わからないから怖い、怖いから攻撃する、という人間の持つ弱さゆえの悪循環。「ナントカ(忘れた)という鳥は殺してもいい」、コレも偏見かもしれない、ということか、、。 いい「話し」だし、演出も巧みなんだけど、差別される側の悲壮感というか、人間のおぞましさというか、ダークな部分をあえてオブラートで包んだような描き方にちょっぴりの不満。 [DVD(字幕)] 6点(2006-01-19 15:27:23)(良:1票) |
1327. 下妻物語
うむ、面白い。しかしこの作品の面白さは非常に危険です。映画が映画でなくなる危険をはらんでいます。この作品が映画じゃない、というわけではなく、この作品の魅力が映画とは違うところにあるということ。典型的なのが個人的に一番ウケた尼崎ネタ(めちゃ笑った)。画ではなくネタが強烈に楽しい。 それでも「パチンコはイヤ」の次の場面にパチンコ店にいて、「出るわけない」の次の場面にジャラジャラ出てる、という喜劇における古典的演出は冴えに冴え、アニメを交えたデジタル映像は新しさこそ無いものの、洗練されたイヤミのない奇抜さを演出しているし、個性を過大に表現したキャラクター造形は言うまでもなく素晴らしいの一言、、ということでコレはやっぱり映画であって、なんだかんだ言っても一応私の中ではOKな作品でした。 [DVD(字幕)] 6点(2006-01-18 11:24:50)(良:2票) |
1328. 大阪物語(1999)
「大阪」がぎゅっと凝縮された作品。商店街での会話なんて非常に大阪の空気が出てて良かったです。役者を関西出身者で固めての大阪ロケというのは、「大阪」を画面に映し出すための監督の拘りを感じます。監督は坂本順治でもなく井筒和幸でもない。東京の市川準。東京の人間がよくここまで「大阪」を描けたなぁと思うと同時に、やっぱり東京の人間だなぁとも感じます。中盤からのプチロードムービーは大阪を映し出すことのためだけにあるような無理を感じます。父を探して家を出た少女が南港を拠点にフェスティバルゲート、梅田、新世界、道頓堀、天神橋筋、、とあり得ない距離を瞬間移動しているのはまぁ良しとしよう。でも、あまりにも「大阪」っぽい風景の洪水が「父を探す旅」ではなく「大阪を探す旅」になってしまっている。その風景の選び方が、さすがCMクリエ-ターと感心するくらいポイントを押さえているので余計にそう感じる。物語の設定が芸人家族の修復というコテコテ大阪シチュエーションなのだから、商店街でのお見事な「大阪」の空気だけでじゅうぶん「大阪物語」が出来たのに、と思わずにはいられない。ちょっと残念。 [ビデオ(字幕)] 6点(2006-01-17 13:01:20) |
1329. 東京物語
今、どこであるのかを、例えば煙突からモクモクと煙が出ているカットで「東京」と判らせ、冒頭と同じ画を見せることで「尾道」だと判らせ、旅館と海が当然「熱海」で、「大阪」は大阪城のカットをもってくる。今、どの家にいるのかをその前に差し込まれる美容院や病院の看板が語ってくれる。説明セリフやナレーションが無くても画だけで判らせる。 大半が人物が大写しで映される中、例えば熱海での翌朝の老夫婦の後姿や、半ば追い出されたカタチの二人の道端に腰掛ける姿や、一人で朝焼けを見ていたと言う妻に先立たれた父の姿は小さく小さく映し出すことでその寂しさを表現する。老夫婦の尾道の家での会話に近所のおばさんが割って入る。老夫婦のあいだにおばさんがいる、という構図を、妻亡き後もそのまま同じ構図で映し出す。妻のいた場所がぽっかりと空いた構図が強烈な喪失感を演出する。映画とはまさにこういう作品のことをいうのである。しかしそれだけでは傑作とは言えない。この作品は映画として本来当たり前にすべきことをちゃんとしていて、それをベースに小津流の独特の画と独特の間で小津らしさを出し、さらに老夫婦をメインにした「家族」のストーリーの中から、東京で一人で生きる女の物語をラストで出現させるという構成が素晴らしすぎる。終始見せてきた原節子の意味ありげな視線が本当の「東京物語」の伏線だったのである。傑作です。 [DVD(字幕)] 8点(2006-01-16 12:53:37)(良:4票) |
1330. Mr.BOO!ミスター・ブー
ジャッキー・チェンと共に香港アクション映画の黄金期を作り出したと言っても過言ではないホイ3兄弟の贈るシリーズ1作目。一世を風靡したこのシリーズは、我々の世代ではやはり広川太一郎の声とともに記憶されている。字幕版(すなわち原語バージョン)で観ても、そのバカバカしさの連続は大いに笑わせてくれるものであるが、例えば原語版の、何も言わずにハミガキチューブを踏みつけて中身を出そうとするのに対し、吹き替え版では広川太一郎が「踏みチューブしてくれる」とかいちいちアホらしいダジャレをかましてくれて、バカバカしい作品がさらにそのバカバカしさをグレードアップさせており、やはり広川天晴れという印象におちつく。世代的に広川太一郎の声に居心地の良い懐かしさを感じているだけかもしれないが、この『Mr.BOO!』自体にもその世代のノスタルジー感を拭えないのはたしかで、今さら作品そのものを評価することは不可能かもしれない。よって、今受け入れられるシロモノかどうかは判断しかねる。 [DVD(字幕)] 6点(2006-01-13 13:38:46) |
1331. Mr.レディMr.マダム
初見はテレビで中学生くらいの頃だったと思うんですが、けっこうおバカ映画的なノリで鑑賞して満足していたのを覚えています。ただその頃はミシェル・セローの誇張した感のヒステリック演技自体が面白いということにすぎなかったのが、大人になって観てみるとこのヒステリックぶりがなんとも可愛らしくいじらしいじゃありませんか。いや、べつにそっち方面に目覚めたわけじゃなくって、たぶん女性の可愛い嫉妬というものの存在を知ったとか、そういう私自身の経験値アップや知識力アップがこの映画をより楽しめるものにしているんじゃないだろうか。ということでこれはおバカ映画じゃなくて、やっぱり大人の上質なコメディでした。そしてあらためて、映画を楽しむためにも「日々これ勉強」と思うのでした。 [ビデオ(字幕)] 7点(2006-01-12 14:17:28) |
1332. Mr.インクレディブル
今や、体の伸び縮みだって、あり得ない怪力だって、超高速移動だって、なんでも実写でできちゃう時代。でも実写だとちょっとひいちゃうような場面もアニメだとすんなり受け入られる。この『Mr.インクレディブル』はアニメであることの長所を存分に発揮した作品といえる。様々なスーパーパワーを違和感無く楽しめるのはアニメならではの醍醐味。ただ、なんとなくシコリを感じる。おそらくシンドロームの悪玉への過程の妙なリアルさが原因だと思う。だって、いくら根が歪んでいようが、スーパーヒーローが生み出したも当然の悪玉でしょ、アレって、、。まるで「ビン・ラディンを生み出したアメリカ」ってのは言いすぎにしても、なんだかなぁ、、。過程がどうであろうと悪は潰すべきというのは解かるんですが、わざわざ悪玉への過程を描かなくてもいいのに。『ブラックホーク・ダウン』でも書いたけど、アメリカの正義は悪(敵)がいて初めて意義がある、という構図がチラチラして、楽しむことにブレーキがかかっちゃうんです。考えすぎなのはわかってますが。もしかして『華氏911』へのディズニーの回答? いや、考えすぎですね、これも。 なんともイヤな大人になったもんだ。 [DVD(字幕)] 6点(2006-01-11 15:29:50)(良:1票) |
1333. Mr.&Mrs. スミス
アクションも見応えがあるが、そこかしこに散りばめられた笑いがいい。“5~6年前”でいきなりツボ。ちょっとした二人の表情、二人の会話、二人の間に、緻密に計算された笑いが含まれ、同監督作の『ボーン・アイデンティティー』以上の極上のテンポで見せてゆく。プロの殺し屋という特別なオーラも、そもそもハリウッドスターという特別なオーラをまとう二人が、そのオーラを隠すことなく自然体の余裕の演技で、観ていて楽しくなる。だからこそ初めてアンジェリーナ・ジョリーが可愛いと思った自然でキュートな笑顔も撮れたに違いない。壮絶な殺し合いも基本が夫婦喧嘩なので安心して楽しめる。それから二人とも超が付くプロの殺し屋なもんだから、日常の動きに一切のムダがなく、そのことによっても作品自体のテンポを凄く良くしている。映画を観終わった後、颯爽とムダ無く歩き、エレベーターに乗り込むと同時に駐車券を口にくわえながら車のキーを取りだし、エレガントに車に乗り込むと同時にタバコを取りだし、、、といつにも増してテキパキと行動する自分がいた。そしてその日の晩飯を(映画の夫婦にならって)素直に「おいしくない」と言ってしまったが為に険悪な夜を過ごすはめになった私はアホです。 [映画館(字幕)] 8点(2006-01-10 15:54:34)(笑:1票) (良:2票) |
1334. 永遠<とわ>の語らい
《ネタバレ》 博物館での足元を映したシーンと船内で歌手が歌うシーン以外は全く動かないカメラが静かに文明の歴史を語ってゆく。前半は、船、港、遺跡、という一定のリズムの中で文明の創造と崩壊の歴史を永遠に語られるべくして生まれた伝説と共に母から娘へと語り継がれる。古代文明から人は何を学ぶのか。後半はその問いに答えるかのように国籍の異なる人物たちが語り合う。そして博物館が以前はモスクで、その前は聖堂だったという歴史が語るように、ひとつの文明を終わらせる何かが暗躍する。文明が生み出したであろうテロリズムである。暴力が文明を終わらせたようにこの映画もまた唐突に終わりを告げる。その非情さは、映画自体をも破壊してしまう驚愕のラストで表現される。 私たちは「9.11」を語るとき、その非人道性を頭ではわかっていても政治的な意見へと変貌しがちである。しかしこの映画は純粋にテロに対する怒りや悲しみや悔しさという気持ちを奮い立たせる。この映画を観た直後は呆然とするしかない。しかしその夜は怒りと悲しみと悔しさで眠れなかった。この映画は永遠に語り継がれるべき映画です。 [DVD(字幕)] 9点(2006-01-06 14:22:33)(良:3票) |
1335. 家路(2001)
何度も何度も映される薄暗い家の中に眩いばかりの光が凝縮された窓。その美しさにいちいち感動していたら、あっというまに映画は終わる。印象的なエンディングをもって。子供の視線がおじいちゃんを見上げる視線からゆっくりとス-ッと下りてゆく。妻と娘を同時に亡くした老俳優の孤独が描かれる全編の中から、両親を同時に亡くした少年の孤独がブワッと浮き上がる瞬間。何度観てもこのエンディングにやられる。途中、退屈だったかもしれない。でもたまに観たくなるし、いつも観て良かったと思う。音楽の入るタイミングがまた絶妙。 [DVD(字幕)] 8点(2006-01-05 16:19:05)(良:1票) |
1336. 丹下左膳餘話 百萬兩の壺
やくざもびびる剣豪左膳がお藤の前では尻に敷かれっぱなし。ってだけでも可笑しいのに、唯一の抵抗がマネキネコを後向きに置くというのがさらに可笑しい。「イヤでい、イヤでい」って、、子供じゃないんだから(笑)。この夫婦漫才のような会話の妙。そして「絶対やらねえ」の次に絶対やってるお約束。お約束ですから次に映し出されるシーンはわかってるんです。それでも可笑しくてしょうがないのはそのシーンを見せるまでの絶妙な間のせいでしょう。完璧な間と言ったほうが的確か。とにかく何度も何度も繰り返されても絶対笑ってしまう。柳生の次男、源三郎のホントに柳生?というキャラといい、これまたお約束となるセリフといい、百万両よりもカワイコちゃんという展開といい、全てがうまく絡み合って傑作を超えた傑作喜劇となっている。だれるところ無く、キメルところはしっかりとキメ、すぐに笑いへと、ホロリとさせてもすぐに笑いへと。巧すぎる。面白すぎる。 [映画館(字幕)] 10点(2005-12-28 11:20:48)(良:3票) |
1337. 河内山宗俊
すべての登場人物たちが物語を把握することなくすれ違ってゆく。我々観客だけが把握する。終盤にかけて大筋は把握してゆくのだが、細かいところは把握していない。よって娘を助けるという一致した終焉に向かってゆくクライマックスは、けして全てを理解した者同士ではなく、人間味を持ちにくい世の中にあって、汚れを知らぬ光を消し去りたくないという想いであったり、女の意地であったりというそれぞれの想いが交錯しながら進行していく。真相を知らなくても人間としての尊厳や情というものがたったひとつのエンディングへと誘う。人間らしく生きることを選択し散ってゆく者たちに涙せずにはいられない。悲劇でありながら、快活な演出と怒涛のクライマックスが娯楽に富んだ名作へと昇華させている。原節子が身売りを決心するシーンの画面に立ち込める重い空気を今でもはっきりと覚えています。 [映画館(字幕)] 8点(2005-12-27 13:12:35)(良:2票) |
1338. 人情紙風船
《ネタバレ》 黒澤明率いる黒澤組の合言葉が「山中に追いつけ追い越せ」。今の映画環境では誰も真似のできない(雲待ち3日とか)完全主義を貫いた山中貞雄の早すぎる遺作は、なんとも暗くて悲しい物語。しかし長屋の住民たちの日々の暮らしの描写は、幸福とはいったいなんなのかを提示してくれているようだ。隣人をからかい、ふざけ合う、そして怒ったり笑ったりしながら生きてゆく。何かにかこつけては皆で飲んで大いに笑う。お金の使い方もよく知っている。いつもよりもっと笑う。女はあきれる。そこに幸福がある。冒頭で首をくくった住民は元武士。そして主人公も元武士。要らぬプライドのせいでこの幸福に気づかず、やっと気づいたとき、そのことに気づくはずもない妻によって無理心中、、。やるせない悲しみを完璧な紙風船の動きがさらに増幅させて終わる。ただ、この暗さ、この悲しさの中に、たしかに幸福感が存在している。だから傑作なんだと思う。ただ完璧なだけではなく、ただ巧いだけでもない。映画の中にただならぬ人生の喜びと哀れみが存在する。 [映画館(字幕)] 8点(2005-12-26 18:01:58)(良:1票) |
1339. 殺しの烙印
安っぽいアメリカのハードボイルドの雰囲気を醸すも主人公はハードボイルドとはほど遠いご飯の匂いフェチ。とことんウラをかいてくる。さらに日活解雇の逸話からも想像できる美しい映画文法の破綻がそそる。生活感を一切感じさせないモダンな部屋のカットがセックス描写の合間に挿入され、そのセックス描写も後の『陽炎座』において芸術の域にまで達した感のあるデフォルメされたカタチを映すのみで性的な臭いは一切ない。唯一性的な臭いを感じるのが、本来生活感を感じさせるはずの炊飯器という観客のイメージをも混乱させるつくりに驚きと喜びがこみ上げる。イメージといえば、主人公の中で雨とともにイメージ化された女を、常にそのイメージのまま(雨とともに)登場させることにも驚いた。実体感の無い女を見事に演出していた。つくづく思った。鈴木清順は凄い! きっとこの人は我々を驚かすことだけを考えてこんなことをやっているのではないと思う。ただ映画が、テレビや演劇でもない、ましてや小説でもないということを誰よりもよく知っているだけなんだと思う。 [DVD(字幕)] 8点(2005-12-22 14:00:10)(良:2票) |
1340. 肉体の門(1964)
オープニングとエンディングにはためく星条旗が敗戦を象徴する。目的を失った人たちは、ただ生きぬくことだけを考え、己の肉体をも生きぬくための道具にする。人間の強さとしぶとさ、ずるさとしたたかさがこれでもかと露わにされる。そんな人間の本能ともいえる野蛮な世界で、人を愛するという純粋な気持ちだけが人生の勝利者となりうるという、言いかえれば負け犬としてではなく、人間として生きることの条件として「愛」があるということのようだ。しかし鈴木清順にとってはそんなことはこの野蛮な世界をどう料理し、どう表現するかという具材にしかすぎないかのように様々な方法で敗戦後の日本の背景と心情を映像化してゆく。身体を売る女たちはそれぞれのイメージカラーを身にまとい昭和初期の日本の風景に飛び出してゆく。舞台のような女たちの住処のセットとともに独特の虚構の世界を作り上げている。女にスポットライトを堂々と当てるシーンはたまげた。既存の映画作りをひっくりかえすようなことを簡単にやっちゃう。そういうところが清順の凄いところだと思う。斬新さが目をひくが、リンチのシーンのそれぞれの立ち位置とか構図とか、野蛮な世界の中で見せる女の可愛さを象徴するパイナップル缶などの小道具の使い方とかという正攻法がきっちりときまっているからまた凄い。 [DVD(字幕)] 7点(2005-12-21 14:04:04) |