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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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161.  鞍馬天狗 天狗廻状
ひばりの杉作は3作しかないそうで、その最後の作品。監督は同じ大曾根辰夫だが、どうも前2作とタッチの違うところが見受けられる。顔アップの多用、カメラが塀を越えたり屋根を這ったりする移動撮影、ラストの立ち回りでも3階までワンカットで天狗を追って上っていく、など若々しく、新人助監督に撮らせた部分も多いのでは。フィルムの状態が3本の中では一番いい。面白いのは配役の使い回しで、たとえば前作で倒幕派の公家だった高田浩吉が今回は桂小五郎、前々作で新撰組の配下の目明かしだった加藤嘉が今回は正規の隊員になれて青山さんと呼ばれていた。まあ、彼らは役柄そのものには大きな違いがないからいいが、前々作で西郷どんを演じ豪傑笑いをしていた三島雅夫が、今回は佐幕派に寝返ってフフフと陰気に笑っていたのには驚いた。新劇俳優は時代劇では悪役になることのほうが多い。アラカンが仏像を彫っているお堂での立ち回りが見せ場か。天狗がアッという逃げ方をする。ラストもちゃんと3階までセットを組んでて、もっと盛り上がってもいいんだけど、家族愛の話が絡んでしまって湿りがち。そう、全体にこの宗像さんの娘の話が活劇にとっては邪魔で、つまんない。ひばりは前作よりは登場時間が増えたが、男の子を演じるのは難しくなってきたよう。それより、もう脇役のギャラじゃやってらんないわ、ってことで、杉作役から下りたんだろう。追記:調べたら次の作品からシリーズは松竹でなくなっているのだった。
[DVD(邦画)] 5点(2009-10-27 12:01:52)
162.  鞍馬天狗 鞍馬の火祭 《ネタバレ》 
前作のラストで江戸へ走っていった鞍馬天狗が、舞台を変えてどんな活躍をするのか、と思って観たら、長州から帰ってきたところだ、って言って京都にいるの。そうか、そういう世界なのか。毎回完結で前作を引きずって観てはいけないのだった。ひばりは冒頭で天狗のおじちゃんを探しに長州へ歌いながら旅立ち、ラスト近くなって歌いながら戻ってくる、と出番は少ない。いろいろ仕事が忙しかったのだろう。それでもタイトルではアラカンの次に並んでいるのだから、当時の人気の凄さが分かるというものだ。ひばりファンは出番の少なさに、金返せ、と怒ったであろうな。そのかわり別の子役が歌を歌って人気を取ろうとしていたが、全然華のない子だった。でも活劇としては、前作のような山田五十鈴との恋模様がない分、良かったのではないか。行列を崖上から見下ろして登場するあたり、西部劇のノリで、馬が走るとそれだけでワクワクする。能楽堂での対決もリアリズムを離れてファンタジックな面白さ(順々に襖が閉まっていく)、庭での乱戦に移って、最後は川の流れから子どもを救うと盛りだくさん。恩師の牢獄からの救出、親王派公家の処刑寸前の救出と続き、悪玉から岸恵子を救い出す火祭のラストへと雪崩れ込む(火祭は10月22日の今日)。そりゃ、斬り捨てようとしていたひばりを次のシーンでは丁寧に縛ってて、行方を天狗に教えられちゃう、といった悪漢の側のトンマぶりには脱力させられるものの、まあこの悪玉、屈折したキャラクターだったから、それもいいではないか。
[DVD(邦画)] 6点(2009-10-22 12:11:40)
163.  鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951) 《ネタバレ》 
鞍馬天狗のセキュリティーの甘さには困ったものだ。新撰組の配下の加藤嘉や、誤解で付け狙う山田五十鈴などに、しょっちゅう簡単に踏み込まれてる。あれじゃ普通だったら幕末まで命が持たない。彼が生き延びられてるのは敵役(というか佐幕派)のルーズさのおかげで、掴まえてもすぐ斬り捨てず、面倒な水責めで殺そうとしたりするから、たかが子どもに救出されちゃう。この大阪城のセキュリティーがまた甘く、お互いのルーズさが、活劇の興を削ぐ。馬が疾駆するところのみ痛快であった。この映画はひばりの杉作登場の記録として価値のある作品であろう。もうすでに幾つかのヒットを飛ばしていたとは言え、14歳の小娘が戦前から続くシリーズで主役を食い、ストーリー上でも、ただ脇で歌を歌うだけでなく山田五十鈴と同格の重さを持たされている。後世の私らは、ふてぶてしくすらあった貫禄十分の晩年の大スターからどうしても逆方向に眺めてしまう訳だが、当時の新鮮に輝いていたひばりが当時の観客に与えたショックは計り知れないものがあったのだろう。彼女が演じ続けた“肉親とはぐれた子ども”への共感の強さだろうか。その他大勢の役者をふんだんに使った街の雑踏の俯瞰から、徐々に角兵衛獅子に焦点が絞られていく杉作登場のシーン、これは戦後の廃墟の雑踏でつい最近まで目にしていた戦災孤児の光景そのものだったのだな。
[DVD(邦画)] 5点(2009-10-20 12:05:40)
164.  野火(1959)
戦場を描いていながら、ドローンとした無気力感が全編を覆っている。善玉であれ悪玉であれ、今まで描かれてきた日本軍兵士のイメージとはまったくかけ離れた、だらしのない・みっともない人たち。船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチスといった配役の妙。人肉喰いという苛烈な状況を描いても、この監督はユーモア感覚を忘れない。要領の悪さなどを笑わせていく。まあこれがだらしのなさにも通じていくんだけれども。とにかく思想性を抜きにした戦場を描いたということで価値がある。そこから戦争という状況がいかに異様なものであるか、さらにこういう軍隊が必要とされる近代国家がいかに不気味なものであるかが、見えてくる。
[映画館(邦画)] 7点(2009-10-05 11:56:06)
165.  真空地帯
たしかに軍隊生活はやりきれないし、軍隊批判そのものは正しく、とくに昨今、まるで軍隊が平等な世界だったとか、戦争指導者も戦争の被害者だったなんて言説が出てくるのは我慢ならないんだけど、それとは別に、戦後の軍隊批判の型にインテリの傲慢が見えてくるのも、また引っかかる。「インテリ=左翼=反戦」と「小学校出=古年兵=のべつ威張り暴力三昧」という図式。これをやや露悪的に言えば「小学校出が柄にもなく人の上に立つと無茶を言う、だから人の上に立つのは我々のような理性的なインテリでなければ」ってな意識がうかがえる。非人間的な軍隊システムを作り上げたのは、帝大出のインテリどもの方だったのに。もちろんこの映画の価値は十分に認めた上で言うんだけど、見ていてだんだんと真の悪の代理にされている古年兵の方にも同情がいって、状況への詠嘆ばかりが募ってしまう、ってところがあるんだ。これは日本の反戦映画や反戦文学の一番弱い部分だと思う。『拝啓天皇陛下様』が、このパターンの硬直を微妙に突いてはいたが。
[映画館(邦画)] 7点(2009-10-01 12:04:33)
166.  また逢う日まで
主人公をナイーブな学生にしたのはきわどいところで、下手すると嫌なヤツになっちゃうのだが、学生仲間などを丁寧に描いていたから良かったんだろう。大事なことは何一つしゃべり合えない仲間たち。軍人になった次兄ともう一度昔のように語り合えたら、なんてのも、この主人公像のおかげで不自然でない。ナイーブな作品に登場人物を合わせてしまったわけだ。「弟的」なるものを見る目で主人公を眺めるわけ。しかし無邪気さがそのまま戦争の対極にあったかって言うとそうでもなく、無邪気さは戦争協力に使われていた部分もあったと思う。でも少なくとも軍隊的なものとは相容れなかったことは確かだ。この作品としてのナイーブさは現代では通用しないだろうなあ。こっちが照れてしまう。
[映画館(邦画)] 7点(2009-09-26 11:50:33)
167.  黒いオルフェ
真の愛とは一種の災難である、って話だ。だからここでは死神も愛の一部分なの。オルフェは災難のようにユリディウスに出会ってしまう。それがなければ彼も婚約者とそこそこの幸福な家庭を築いたはず。でも真の愛に出会ってしまう。最初観たときは死神を“宿命”って感じで捉えてみたが、ユリディウスとセットになってるんだよな。愛の二面性の片割れと捉えたほうがいい。サンバという音楽にそもそも二面性が感じられる。溢れかえる生命力があるのだが、そのなかにやがてボサノバへと変質していくなにかヒヤッとする神経細胞のようなものも潜んでいる。ユリディウスを探す死神が身を乗り出すところのヒヤッとした感じね。もちろん仮面をはずしながらむこうを向くシーンが最高。役所の建物が地獄堕ちのイメージに重なっていた。南米文化ってのがもともと日常と神話が隣り合わせになってる文化だから、全然展開に無理が感じられない。ラスト、少女のユリディウスが踊り出すときは涙ぐんでしまう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-23 11:58:43)
168.  最高殊勲夫人
ストーリーとしての結婚話よりも、その周辺のサラリーマンスケッチに“らしさ”があって楽しめる。この監督、なんか赤電話が好きだね。混みあってるとこが好きなんだな。エレベーターに通勤電車、若尾文子の噂が順次横に伝わっていく。店の中の混雑もある。アンミツ屋、トンカツ屋、ロカビリー喫茶。周辺でのコントとしてはテレビの本番直前にしゃっくりが始まってしまう主役、前衛書道のおっさん、ワッハッハと笑う、いつ死ぬかも知れないじゃない、と言われた直後に車に轢かれそうになったり。この映画全体がスピード感全開で走り抜けていくなか、若尾文子の本質的なおっとりしたスローなところが対比の妙味。お茶の水の脇を都電がゆっくり滑っていった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-09-12 11:54:59)
169.  夏の嵐(1956)
原作は芥川賞にノミネートされた女子大生(深井迪子って人)の小説だそうで、つまり“女の太陽族もの”ってとこで中平にまわってきたのかも知れない。だから映画としてもわざと青臭さを残しているのかも。北原三枝がアップで「いくじなし」と叫んで海に走り、カメラは横に這いつつ波打ち寄せるストップモーション、となかなかいい導入。長回しが多く、北原と三橋達也が外で話し合ってて(街灯の脇で待ち伏せてる北原のカットも美しい)緊張が高まり、と二人の間のシグナルが矢印光らせて点滅し、列車が通過していく。こういうのはワンカットでないとずいぶん気が抜けてしまうものだ。ラスト近く、北原がベッドの向こうの床に横たわり、津川雅彦が右側に立っているのを、ベッド越しに捉えた構図。嵐の接近でカーテンが揺らぎ、書類が一枚一枚散っていく。こぼれたビールに点滅するネオン。話はつまらないが、当時の“クール”へ憧れる気分が横溢していた。爪を噛む少年は、もしや未来の唐十郎ですか?
[映画館(邦画)] 6点(2009-09-04 12:02:39)
170.  狙われた男(1956)
中平の初監督作として気合いが感じられる(『狂った果実』が急企画で割り込んだが、先に製作されたのはこっちらしい)。主人公が路地を歩いていくと、闇の中からヌッと襲撃者が歩き出すあたりのサスペンス。市村俊幸が犬を蹴るとこでも、カメラが変な動きをするし、その後の出ていくブーちゃんに主人公が声を掛けるとこのカメラの回り込みも面白い。それ以上に思ったことは、このころ若手監督に量産してた脚本家としての新藤兼人の重要さ。社会派としての新藤さんは前科者に対する仕打ちというようなところにメッセージを置いたんだろうけど、映画人としての新藤さんもキッチリとした仕事をしていて、大した話でもないものをソツなく展開している。こういうソツのなさが日本映画の黄金時代ということなのだ。何人もの噂話場面を並列していくようなところに、この人の趣味があるような。ロケでは東銀座の風景にうっとりさせられる。人が暮らす人情小路がまだ銀座にも存在してたんだ。ちょっと『裏窓』の気分があり、あと殺人の直後の美容院の渦巻きを強調したりとか、殺された女がカーテンつかんだりしてたけど、まだ『めまい』も『サイコ』も作られていない。
[映画館(邦画)] 7点(2009-09-03 12:08:00)
171.  街燈
旗照夫のシャンソンが流れて始まる。落とした定期券から、銀座のブティックをめぐる人間模様の話へ広がり、合い間に学生小沢昭一が笑いをとっていく。銀座の記録としては、火の見やぐらから火事を発見するシーンがあった(火事のシーンは、特殊技術がなかったせいか消防法がうるさくなかったのか、結構迫力)。まだ靴みがきの子どもがいた(みがくシャッシャッという音がドラムの、あれ何て言うの、さきっぽが金属の小さなほうきみたいになってるヤツ、あの音になっていく)。中原早苗のことを子どもたちがパン助みたいな格好だと言った。昭和30年代前半はまだまだ濃く“戦後”であったのだ。そして銀座という街が、単なる背景でなく、こういう人間模様を織りなすのに適した場所であったのだなあ。
[映画館(邦画)] 6点(2009-09-02 11:57:38)
172.  殺したのは誰だ
“玉突き事故”って言葉があるくらいで、車とビリヤードはイメージの世界では接近している。この映画、保険金詐欺の話なんだけど、車の事故とビリヤードが実際に重ねられるところがミソ。どっちも金を賭けてのぶつけっこ。ロータリーへぶつけようとして逸れるところ、あるいはぐるっとまわってもう一度迫るあたりは、完全にビリヤードと対比されている。中央に据えたカメラの回転にあわせて幾多の車が走っていくのなんかも、ビリヤード的。車が夢や憧れだった時代、犯罪と遊びがどっちも日常からの解放を夢として差し出してくれた時代だ。当時のちょっとシャレた“イカす”感じが伝わってくる。この監督作品は銀座界隈をよく記録しておいてくれてるのが嬉しく、アタマには並木座が映った。小林旭が若々しい青年だったが、デビューしたてのころだな。
[映画館(邦画)] 6点(2009-09-01 11:56:42)
173.  暖流(1957)
ジメジメしてなくて、でもドライっていうパサパサしてる感じでもなく、どちらかというと個々の人物は脂ぎっている。しかしベトつかないのだ。とにかくクルクルと走り回る左幸子が圧巻で、駅へ根上淳を送りにサーッとまわり込んで駆け込んでくるところなど。愛はスレッカラシになることよ、なんてセリフ、戦前版にあったかな。石渡ぎんが水戸光子のひたすら純情なのとは違って、仲間内から見れば嫌な女に見えるのが納得できるように描かれているのが、1950年代のポイント。戦前と戦後の女性の変化が、こう見事に表われた例も珍しい。このたくましさを左幸子は60年代の『にっぽん昆虫記』や『飢餓海峡』で、さらに極めていくことになるわけだ。この監督は野添ひとみのちょっと気味悪いところをつかんでいて、手の手術を受けながら、パッチリ天井を見ているところなど。
[映画館(邦画)] 7点(2009-08-23 11:49:05)
174.  青空娘
シンデレラ物語を日本に移した、まあどってことない話なんだけど、そういう物語を借りてある生き生きとした瞬間を描きたかったってことなんだろう。随所に増村タッチが見られ、湿っぽくなっても仕方のないところでも、しっかり除湿されている。この人らしさを感じたのは、たとえば東京駅に着いた若尾文子の周囲の喧騒を、あおり気味に捉えたスケッチ。あるいはピンポン大会でのワンカット、顔つき合わせて、しかし無感情に人々がしゃべるとこ。セリフの内容がそれほどストーリーにとって重要なわけじゃなく、画面の中に顔が詰まり、言葉が詰まっている、そのギューギューしている感じの楽しさが眼目。先生の菅原謙ニが赤電話かけてくるカット、ぎっしり赤電話を詰めて、手前のおばさんにも思いっきりしゃべらせる。この過剰に詰まって沸き立つ感じが、もうデビュー2作目で完全に独自のものになっている。靴を絡めたのは、やはりシンデレラを意識してのことなんだろうなあ。
[映画館(邦画)] 7点(2009-08-19 11:59:05)(良:3票)
175.  あにいもうと(1953)
京マチ子という非成瀬的な女優を起用し、ドラマとしても感情をあらわにする場面が多く、しかしそれでも登場人物がゴロリと横になっていると、なんとなく成瀬の空気が満ちてくるから不思議なものだ(小津の登場人物はまずゴロリとならない)。ケンカをしつつ別れきれない不貞腐れた男女ってとこが、たとえそれが恋愛関係のない兄妹であっても、やっぱり成瀬のモチーフだからだろう。ラストで京が怒るのも、外の人船越英二に対して、身内の兄がみっともないことをしてくれた、と家の側に立っているから怒るのであって、兄と別れきれていない証拠。つまり、兄妹ゲンカは仲良しの証拠ってやつだ。兄にとって成長する妹ってのは、それだけでもう堕落と見えてしまうのだろうなあ。帰りのバスで学生がまんじゅうをパクつくのは、原作のものか水木洋子のものか知らないけど、実に辛辣。帰省の久我美子が堀雄二の家を避け遠回りしてくるような描写の細やかさ。なぜかドラマにおいて理想とされる姿は常に末娘によって象徴されるってのが、古今東西を通じ定型になっている。あの駅は登戸なのか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-08-15 11:56:43)(良:1票)
176.  山椒大夫
立派な作品です。水辺のシーンは、誘拐の場、入水の場、母との再会の場(ラストのパンより厨子王が駆け寄るところ)と、どれも素晴らしいし、セットも重厚、厨子王を探して松明かざした追っ手が寺の境内に詰めかけるあたりの空間処理は見事の一語。でもそれがどこか、クラシック歌手がスマして童謡歌ってる時のような、ピタリと合ってない違和感もある。テーマとしても、社会的に固まってしまっているシステムへ反抗することの困難さ、つまり革命の難しさをけっこう詰めて描いている一方、主人公周辺は“昔話”のトーンで進められる。溝口作品では珍しく、男女の恋愛が描かれない。女っけのない、母と妹しか頭にない主人公って、これやっぱり昔話の登場人物だよね。だから彼がやったことは昔話としては納得いくんだけど、社会変革者としてみると、自己満足というか単に意趣がえしでしかなく、あの解放された下人らの未来もあんまり明るそうではない。そこらへんのトーンのブレが気にかかる。ただ人さらいの毛利菊枝の怖さは別格で、この監督は悪い女を描くと変に染み入って記憶に残るんだ。『夜の女たち』って、作品自体は部分的にしか記憶に残ってないんだけど、転落のきっかけになる古着屋のおかみさんの、親切ごかした悪意の描写は染み入った。関西人ならではのねっとり感があって、いやーな薄暗い感じが滲んでくる。そうか、どっとも親切めかして田中絹代を“遊女”に落としたわけか。この種の酷薄さを描くと、凄い監督だった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-07-18 12:01:25)(良:2票)
177.  この広い空のどこかに
小林正樹の代表作リストを眺めていると、最初松竹の監督だったとはとても思えないんだけど、ちゃんとこういうホームドラマも作っているのだ。シナリオは木下恵介の妹の楠田芳子。川崎の酒屋。かわいい嫁さんが似合う久我美子。高峰秀子は松竹の明るい木下系の役でなく、東宝成瀬系の陰気を引きずっている。ここらへん監督が後年東宝でいくつか映画を撮ることになる予感か。まさか。商店街と土手が一緒にある場所を日本映画はとくに好んだ。戦災で脚を傷めた高峰がしばしば訪れる。とても絵になる。商店街という人間関係の濃密な場と、土手というそこからの息抜きの逃げ場があることで、ダイアローグ的な展開とモノローグ的な展開とを整理しやすいのかも知れない。ホームドラマのテーマは、「一人一人はいい人なんだけど、うまくいかないのよね家庭って」ってところに集約され、それがやがて時の流れとともに溶け合っていくのを肯定的に捉えるのが定番、もひとつ掘り下げがないのがもどかしい。二階では若夫婦がラ・クンパルシータを踊り、階下では陰気に姑と妹、それぞれにお菓子の缶がある、なんて描写。脚の悪い高峰が、手の指のなくなった男の縁談が来て傷つくところなんかは、ハッとさせる。後年の小林監督の社会性も、ちゃんとこうした庶民生活のささやかな残酷のスケッチという基礎があるからしっかりしていたのだ(なのになぜか場内で笑いが起こったのが分からない)。またこの映画、かつての酒屋の店先というものの記録にもなっている。屋根の上の物干し場とか。当時の多摩川のボート場も記録されている。
[映画館(邦画)] 6点(2009-07-04 12:08:14)
178.  巨人と玩具
昭和30年代、焼け跡の頑張りの時代に、さらに笑顔の時代の層が加わった。無表情で顔つき合わせてしゃべりまくる、ってのを増村の一つの型とするなら、その対極にモデルの笑顔がある。特定の何者にも向かっていない、漠然とした大衆に向けられたコマーシャル用の笑顔。その笑顔を裏打ちするのは、甘いキャラメル、子ども向けという姿勢、夢の宇宙服といった“やさしさ”で、それが宣伝合戦の苛酷を際立たせる。ただがむしゃらな姿勢だけで頑張れた戦後が、さらに複雑ながむしゃらさを要求してきた。高松英郎のモーレツ課長は、ちょっと“日本”を強調しすぎていたようにも思ったが、あの時代あんな感じだったのだろうか。ザラリとしたユーモアがよく、ストーリーの上ではこの喧騒をマスコミぐるみ批判しているわけだけれども、作者は半ばここに溢れているエネルギーに感嘆しているようでもある。野添ひとみの気味悪さが圧倒的。この空疎な笑顔の時代は、現在に至るまで続いているわけだ。この頃の映画はしばしば途中に歌がはいるが、そういう約束事があったのか。
[映画館(邦画)] 7点(2009-07-01 12:10:12)
179.  猫と庄造と二人のをんな
浪花千栄子のスットボケたおかあちゃんぶりが絶品で、この演技は“上方的なもの”を煮詰めた国宝級であろう。テキパキした嫁を追い出してグータラな娘を入れ、ダメ息子を支配している。追い出された嫁、山田五十鈴のひきつった笑いももちろんすさまじいが、浪花のネットリしたおかあちゃんの凄さに圧倒される。彼女は、小津の『彼岸花』ではおしゃべりオバサンのユーモア、溝口の『祇園囃子』では女将の冷酷と、上方人の明と暗をクッキリと見せており、またその能面顔の造作は黒澤の『蜘蛛巣城』で忘れ難い不気味な印象を残した。本当にすごい役者だった。カイショなしの男をやらせると森繁がこれまたツボに入り、ややこしいことを避けて猫に没入している庄造を、こういう役はまかしとけ、という感じで自在に演じている。映画における俳優はしょせん監督の素材という見方もあるが、こういう作品を見ると、役者の力も絶対無視できないと思う。仲人をはじめ脇の面々もよかった。この浪花・森繁・山田三人との共演で、しかも慣れない役柄とあっては、香川京子もプレッシャーきつかったであろう。意外と長回しが多く、海岸で森繁と香川がいちゃつくとことか、家での猫との三角関係の場とか、ネチネチした感じがカットを割るとあっさりしてしまうからだろう。ただ庄造に、まとめのような賢げなセリフを言わせるのはどうか。あくまで猫のことしか頭にない“愚か”に徹することで、彼は輝かねばならないはずだ。猫との再会の場、ああこの匂いこの匂い、というあたりで見せた愚かの骨頂が、女たちに対する庄造の返答でなければならない。
[映画館(邦画)] 9点(2009-06-25 12:12:22)
180.  野獣死すべし(1959)
気分としては『太陽がいっぱい』に近いが、こっちのほうが早いのか。完全犯罪志向の青年。一番画面が緊張するのは、バーで花売り婆さんの三好栄子に、主人公の仲代達矢が金で歌わせ踊らせる場。この三好栄子の痛々しいみじめさがうまくて。センチメンタルを憎むってことを、眼をギラギラさせ渾身の力を込めて描かなければならない時代だった。仲代のクールもどこか必死、血圧の高めなクールなの。それだけ世間に蔓延しているセンチメンタルへ、新しい世代が苛立ってたってことなんだろう。映画のなかで警官が「目つきが気にくわなかったからと人を殺す時代になった」と言っていたが、でもまだクールになるためには若者も必死にならなければならなかったのだ。主人公にも、父親の自殺や貧困といった経歴が必要とされていた。犯罪者も、現代のようにノッペリとしていなかった。科学捜査とカンの捜査の対立ってようなことも描かれていて、犯罪も捜査も、質が転換しつつある時代だった。そんな時代の感触がよく分かる作品。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-01 11:57:21)
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