1. 地雷を踏んだらサヨウナラ
《ネタバレ》 浅野忠信主演作。浅野自身が語っている様に、浅野には珍しいタイプの明るい役柄となっている。だが、率直に言って、当時の浅野には荷が重過ぎたと思う。写真家の一ノ瀬泰造が、アンコール・ワットに理由なく飛び込むことができるための、役者の身振りができていない。浅野は泰造を客観的に見る役柄を演じているかのようだ。それでいて、役柄は一ノ瀬泰造なのだから、どうしても違和感が残るのだ。 戦争シーンもどうにもならない位に退屈である。悲惨さを訴える必要はないけれども、リアルさは訴えなければならない。戦争がそこにあるような、ヴァーチャル・リアリティの感覚。それを紡ぎ出せない映画は、精神分析的な映画でない限り、瞠目されることはない。それと、戦争が個人的であるとする映画側の姿勢も感心しない。現代の戦争は、無名の兵士達が、数値に置き換えられて行く戦争であるという。個人のなした戦争での功績など、兵器一つで吹っ飛ぶ時代だ。そこでは、誰が功名を立てたかではなく、何人死んだかが目的となっている。文字通りの意味での無名の兵士しか存在しない。現代の社会一般のように、戦争も「匿名性」の顔をあらわにしてきているのだ。 一つ良かったと言えるのは、一ノ瀬が地雷で死んだ子供の写真を撮っているシーンである。その子供は、カンボジア人で、一ノ瀬が世話になった村の子供だった。その子供はついさっきまで生きていたが、死んだ。しかし、一ノ瀬はこの子供の死体を撮る。そこには、レンズを通して現実を創作する芸術家の指がある。だからそこを村のおばさんがついてくる。なぜ撮るのか、非常識だと。一ノ瀬は現実をこれだと思いこんでいるが、それは抽象に過ぎない。おばさんは、非常識を責めるが、ここでは一ノ瀬が現実を「共有する」人物として、同じ土地に立つことを要求されているのだ。 一ノ瀬は、レンズに映されたフィルム写真を見て現実を見た気になっている、ヴァーチャル感覚の人間の姿とも言える。それを映画の中でやることが、またシニカルな響きを持っていて、おばさんも所詮はフィクショナルな存在でしかない。フィクショナルな存在が、フィクションの中で「現実に戻れ」と諭す。これは私たちの誰をシンボライズしているのか?メディアに浸っている人間の群集がいるが、その中で蒙をひらかれた人間であろう。 5点(2004-10-13 11:40:41) |
2. 鮫肌男と桃尻女
冒頭のCGがカッコ良かったが、徐々につまらなくなり幻滅。『PARTY7』の時もそうだが、石井監督は、オープニングムービーの面白さを持続してもらいたい。期待させておいて裏切る作り。キャラクターが大量に出てくる割には、構成力がなく複雑な関係を見て楽しむ作りになっていない。役者は浅野忠信を筆頭に岸部一徳、寺島進など優れた役者ばかりだが、浅野は今回良くない。静かに演じ、最後にキレる若者ばかりを演じていたために、不器用さが目立つ。一貫してキレ続ける役はまだ似合っていない。どこかで対称を作らないとダメなのだろう。他の役者は個々に演じる分には割と良いが、まとめあげる位置にある石井監督に構成力がないのでダラダラと銀幕に映っているに過ぎない。 Q.タランティーノが好きだという石井監督だが、まずは暴力描写や無意味な台詞を模倣せずに、構成力を模倣していただきたい。『パルプフィクション』の複雑な構成力を見て、普通はそこに感嘆するのではないかな?だがそれには石井監督自身の計算高さが要求される。またタランティーノといえば、特筆できるものの一つに音楽の選択があるのだが、これも真似できないところであり、監督の能力が試される。そして、石井監督には、それができていなかった。膨大な音楽作品の中からいくつかを抽出するには相応の耳と自作への理解能力が必要になる。このことから、見てくれだけはタランティーノでも、中身はまるで別物であることが理解されるはずであり、石井監督は見た目の演出だけはタランティーノだが、実力を試される部分ではまるで力を発揮できなかったということになる。後発のガイ・リッチーだって遥かに上を行くぜ? 2点(2004-06-07 11:43:22)(良:2票) |
3. コン・エアー
《ネタバレ》 前半の囚人大暴れに期待したのですが、後半以降爆発が連続し過ぎて鬱陶しい。興奮し難いことこの上ない。こういう爆発が連続する映画は、観客を楽しませるためにあるのでしょうが、なんとなく米国の戦争観を表しているように思えてなりません。この映画でも、ニックという仲間がいるために、ジョン・キューザックは飛行機を撃ち落さないようにしますが、そのおかげでラスベガスの街では死人が続出。お前さえいなければ・・・何でも戦争に口出しする米国=ニックとジョンといった印象を受けますね。 囚人たちのキャラは良かった。主演のニックもムキムキ男が似合ってます(アクションスターとして演じていますが、どことなくコメディの匂いがする感じが上手いと思います)。 3点(2004-06-07 11:29:45) |
4. フェイス/オフ
ジョン・ウーの映画ってこれしか観た事ないんですが・・・合わないかもしれない。センスのある映像ではあると思うのですが、アクションシーンがいかんせん退屈過ぎる。もっと痛い暴力を観たいし、駄目ならもう少しありえそうな路線でアクションを描いて欲しいです。爆発爆発続きで、銃と銃を向け合うシーンのシークェンスも見ていて醒める一因になっています。この劇的な演出を作るために、色々セッティングしてる感じが画面が匂ってくる。いや~、いつになったら闘い終わるんだろって感じで、見せつけるために延々と長く物語をさらしているあざとさが何とも嫌です。あと、俳優陣にも難癖。安部公房の『他人の顔』にヒントを得た、人間と人間が逆になる発想はいいのですが、これを描きたいがために、最良の悪役たるニコラス・ケイジが善人を演るという失策をしてしまっています。ケイジは上手いので、善人もできるのですが、相手が何をやっても「ジョンになる」というトラヴォルタなので、彼を悪役にするならケイジを悪役にしてくれ・・・と思ったので残念でした。特にケイジは、序盤、教会で女のケツをさわりながら絶叫するシーンを演じていて、コミカルな悪役でカッコイイなあと思っていただけに落胆。トラヴォルタも悪くないのですが、『パルプ~』の頃の汚さがとれちゃって普通のおっちゃんになってしまっています。 5点(2004-06-02 19:32:07) |
5. ジャッキー・ブラウン
タランティーノが普通の映画を撮った。タランティーノ監督による普通の映画は余り観たくないので、前二作と比較すると興味を逸しますし、雑感も劣る。とはいえいつも通りのオタクらしさをぷんぷん匂わせるところは好きです。主演女優パム・グリアーが、今回のシネフィルたるタランティーノを教えてくれるのですが、DVDの特典映像で語っているように、彼女は一昔前のタランティーノにとっての超女優だったらしい。そのために、映画はグリアーを中心に一昔前にタイムスリップしているようなノスタルジーがあります。タランティーノのオタクぶりは、『パルプフィクション』で再び光を浴びたJ.トラヴォルタのように、昔に戻るのではなくて、タランティーノ流に役者を料理する了見の狭さに生かされていたと思います(誉めてるんですよw)。しかし今回の『ジャッキー・ブラウン』では、逆にパム・グリアーに仕えているような違いがあります。それは今回デ・ニーロやフォンダのような、タランティーノから見たら正統派をタランティーノ流に料理する代わりに、パム・グリアーを昔のままに活かすという対比によって、面白さを出すための効果だと思います。デ・ニーロたちは最近落ち目ですが、消えてはいなし、タランティーノのオタクぶりを示すほど発掘し甲斐のある人たちでもない。そんな人たちを、自分のオタク的な流儀で描かせて、その対比で今度は発掘し甲斐のある人=グリアーを昔のままに描くのは、これまでのタランティーノにはなかった手法ではないでしょうか?『パルプ~』でも、ブルース・ウィリスの設定に感心しましたが、今作のように、対比で描いたことはなかったと思います。そういう意味であいかわらずタランティーノ作品って面白いなと思いました。 8点(2004-06-02 19:14:24)(良:1票) |