1. ありふれた愛のストーリー
《ネタバレ》 ちょっと変わったお話です。 …本当をいうと、かなり違和感を感じる話です。 39歳のバツイチ子持ち女を中心に、男女関係のあれこれを描いています。 私はかなり考えました。…いったい何が言いたいのかと。 「Aの子供なら中絶するけれど、Bの子供ならこちらから迫ってでも産む」というわけです。AやBには特定の男性の名前が入るのです。 このへん、とうてい誰にでも共感できるなどというレベルの話ではありません。 そして、私はマリーと同じ女ですけれど、妊娠したことがないのでその気持ちが〝アリ〟なのかどうかすら判定できない。 まあこういうことです。マリーは若い頃に離婚したジョルジュとの間に16歳の息子がいて同居しているが、あと2年もすれば彼は巣立って出て行く。そうなると淋しくなるに違いないので不安になり、大人のつきあいのセルジュに腹を決めさせようと妊娠してみた。しかし、妊娠してみたら、実は自分はセルジュの子供を産みたくないということがわかった。で、中絶しセルジュとも別れた。そこにたまたま前夫のジョルジュが現れ、同棲中の若い彼女がいることを知りながら積極的に迫り、避妊をしないでヤリまくって見事妊娠する。しかし結局若い彼女に負け、ジョルジュに捨てられるが、子供をゲットしたマリーには男は不要で、再びシングルマザー生活へ…。 なんかこう、ドロドロした話ですがたいへんドライに描かれているのでかえってコワい感じがしますね。 見終えた結論は、何度止めても自殺してしまった友人も含めて、「生死は本人に決定権があり、誰にも奪えない」ちゅーことなんでしょうかね。その場合、胎児については母体に決定権がある、ということですね。これはもう、キリスト教とは全然関係ないところの話です。まあアメリカの一部の地域では上映できないでしょう。 …不思議な作品です。殺伐とした洗練、または〝ブキミ〟というのが合っています。私はマリーみたいな女性とは友達になりたくないです。ブキミだから。 [地上波(字幕)] 7点(2010-08-27 21:39:38) |
2. ネットワーク
《ネタバレ》 脚本演出編集どこをとっても古さを感じさせず、シャープでエッジーでかっこいい。 35年前の話だということが面白さを全然損なわない。 TV業界、ひいては資本主義経済、マネーメイクスセンスの世界を鋭く批判した作品です。 あえていうなら、ウィリアム・ホールデンとフェイ・ダナウェイのロマンスが…分別ある愛妻家のマックスが、妻を捨ててイカれたギョーカイ女に走るところのへんが…ちょっと説得力に欠けるかなあ。 ダイアナの魅力に逆らえず自ら誘いをかけていくマックスが、己の矛盾に髪をかきむしってもだえる場面とか、必要ないでしょうかね。そんなんヤボというものかな。 でもなんか飛躍しすぎ…キミの書いた脚本に乗っかっているというふうに説明してますけども、私には具体的にいつどこで何がマックスに一線を越えさせたのかがよくわからない。 とこだわるのは、この話は誰が主人公なのかはっきりしない(もちろん、意図的にですが)ようになっているわけで、その中で強いていうなら最もマトモな人物であるマックスが観客のよりどころになるからです。このイカれた登場人物たちの中で、百歩譲って誰にならなれるかといったら男も女もマックス・シューマカーしかいないですよね。 ともあれ、50年後にも見てもらえる、価値のある一品。 *クレジットにジョン・カーペンターの名前があったけど…別人? [地上波(字幕)] 9点(2010-06-11 22:15:49) |
3. 恐怖のメロディ
《ネタバレ》 イーストウッドのもみあげの立派さに絶句。あのもみあげのついた顔で、堂々の色男なのだから顔のバランスって不思議なものです。 イブリンがどこまでやってくれるのかと期待していましたが、まだまだ物足りないうちに終わってしまった。捕らわれたトビーが無傷なのは変だし、イーストウッドと相打ちになって倒れたところで生死の境をさまよっている状態で終わって欲しかったです(レザボアドッグスのラストみたいな感じで)。 結局、しつこい女を男の腕力で追い払ったようなことになってなにか興ざめ。 コンサートとか砂浜を歩いたりする無駄なシーンも(本人にとっては深い意味があるのだろうが)よくわかりませんでした。40年近く前の作品としては、ストーカーについてかなり勉強しているとは思う。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2010-05-24 15:16:43) |
4. フレンチ・コネクション
《ネタバレ》 ウィリアム・〝サディスト〟・フリードキンが「エクソシスト」より前に撮った作品。 究極のナンセンス、ナンセンスを究めた怪作・奇作です。 なにがナンセンスかというともちろん、数々の犠牲を引き起こしたドイルの執念がほとんど実っていないまま終わるということ。意味なし。無駄の極地。無意味を追求することでシュールな美を目指します。 ドイルの執念がつのればつのるほど、文化的な生活からは遠ざかり(一方の悪党はレストランで豪華ディナー)、周囲の者が犠牲になり、そして成果はほとんど出ない。なんてナンセンス。 なにかフランス人の悪党のほうがマトモであって、ブルドーザーのように周囲を巻き込むドイルのほうがおかしいように思えてきてフリードキンの狙いどおり。 〝追うこと〟そのものが目的と化したドイルの異常さが、最終的に同僚を射殺しても動じず追い続けるドイルに示されています。 クレジットに「現実の人物に似ているところがあったとしてもそれは完全に偶然であります。」という断り書きが、や~けに重々しい英語を使って書かれているのですが、そのわざとらしさに笑っちゃいます。こんなにドイルを異常者にしておいて、そんなことちびっと書いといたからって許されるのかなあ。ははは。 でも続編が作られたということは、ドイルのモデルとなった刑事さんは怒ってないってことよね。有名になれたら御の字ってとこかなあ。 ハックマンってあのアゴに傲慢さや暴力的なものを感じるのですが、そのへんがドイルにぴったりでした。 大スターたちすんごい走らされていますね。寒いとこで何テイクもさせたんでしょうね。サディスト・フリードキンここにあり。役者さんたちはご苦労さまでした。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2010-05-11 14:07:50) |
5. ミーン・ストリート
《ネタバレ》 スコセッシの原点がよくわかる〝ヤバい街〟です。 なかなか笑えます。おもしろいです。70年ごろのNYイタリア人街を見られるのが貴重で興味深深です。これがスコセッシの血となり肉となった街なんですね~。感動~。 それでまた、カイテルかっこいいわあ~。この顔がイタリア系というのも無理がありますけど、そんなことには目をつぶれるほどかっこいいわあ~。ついでに身長の低さも気がつかないふりをしてあげちゃう。 借金の取立て屋のチンピラのくせに、ちゃんとタイを締めちゃってさ、着ているものがやけに上等なところもリアルで笑っちゃいます。大暴れしてもシワになってないし、高いお洋服ですわ。イタリア人の男は洋服に金がかかって大変だなと思います。 あっち行ってはケンカ、こっち行ってはケンカ、でも狭いとこで顔を突き合わせて暮らしているから次に会えば友好的にあいさつするという、なんかアニマルな世界。虚弱体質のスコセッシ少年は、うま~く頭を使って泳いでいたんでしょうね。 見どころを言います。「カイテルの超高速往復ビンタ連発」です!!いいわ~。これ以上素晴らしい往復ビンタは見たことがない。もちろん殴られているのはデニーロさんでした。私はデニーロさんには興味がないのでした。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2010-05-08 18:39:56) |
6. ジョン・カーペンターの要塞警察
《ネタバレ》 リメイクのひどさにさんざ悪態をついたのち、ちゃんと全部見ました。 オモロイわ~。 「要塞警察」の正当なリメイクは「ゴースト・オブ・マーズ」だったというべきですね。 カーペンターは、「要塞警察」では逃がせなかったウィルソンを、アイス・Tを逃がすことで逃がしてやったということです。 低予算短期間でこんなオモロイものを作れるとは、今さらしつこいけどカーペンターはスゴい。 このカーペンター独特の音楽、ベンベベベベン、ベンベベベベン、ちゅうお約束のベースノートがイカしているぞ(なんとなく笑えるけど)!カレ独特の「間」もこの時から健在だ。いきなり子供は死なす、黒人警官が主人公、掟破りとはカレのことさっ。 カーペンターの「間」って、いったいなんなのかと考えるに、現実の出来事ではマヌケな間って必ずありますよね。フツーにドラマや映画を作るときには「間」を摘んでドラマティックにしますけど、そのほうが見やすいですけども、リアリティを損ねるには違いないです。「間」を摘むほど、「舞台」に近くなります。カレはドラマに照れているうえ、「舞台」も嫌いなんだと思う。なおかつこの「間」は笑いも狙っています。 さて、「要塞警察」鑑賞中、私はゲラゲラ笑いました。登場人物の全員がシリアスであるにもかかわらず、いや超シリアスであるほど笑いを誘うようにちゃんと設計されています。 たとえばウィルソンですけど、こんな状況でも女に色目を使いつづけるという、もう「救いようがないほどバカなアメリカ男の生きざま」とかね。まるでそれが「義務」であるかのように、女を口説き続ける姿は、笑えるしなんだか憎めなくなってくる。「この期にいたってまだ口説いてるよ」あ~あ。あと、この状況でいきなり「シリアスじゃんけん」とかね。ほかにも笑いどころ満載。 ゲラゲラ笑ってください。カーペンターもそうしてほしいと思ってます。きっと絶対。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2010-03-14 18:00:53) |
7. こわれゆく女
《ネタバレ》 ものすごい緊張感です。こちらの神経に悪いです。 主婦のメンタル病は重篤化するまで発見されにくいと聞いたことがありますが、その理由をずばりニックの口から言わせていて、「ウチのニョーボは家事だってちゃんとやってる(から病気じゃない)」なので、亭主の多くは「女房が皿を洗わなくなって初めて病院に連れて行く」ということになるらしい。 ニックにとって、家事をやって育児をして姑の機嫌をとって仕事仲間をもてなして性的にも応じてくれる女性が「ニョーボ」として必要なわけで、ニックという人は優しいけれどガサツな男なのでそれをはっきり態度に出します。「悩みがあるなら勝手に悩め。でもするべきことはちゃんとしろ。」というのがニックのスタンスで、するべきことをし続けている限りは、メイベルの話は永遠に聞いてもらえなかったということでしょう。 入院する前にメイベルが5つの優先順位を言いますが、「愛」「友情」「夫婦の時間」「マザーシップ」「妻であること」の順でした。…この一つだけでも維持するのは大変なのに、彼女には、しなければいけないことがなんてたくさんあるのでしょう。もしかしたらメイベルのようなタイプは、一つのことだけやっていたならこうならなかったのかもしれない。 メイベルの病の原因も、ここらへんと関係があるのだと作り手は言っているのだと思います。 それならもっと「進んだ男」と結婚すればよかったじゃないかということになるのですが、人生はそうそううまくはいかず、メイベルが好きになったのはガサツな男だったのだし、できちゃった結婚でもあったのです。そして、何年か後にはこういうことになっていました。 メイベルの父親がどういう「役割」を果たしたのか、明らかにはされませんが、まあいわゆるよくあるそういうことなんでしょう。メイベルの病気の原因について虐待をほのめかせるなどはしなくてよかったのにと私は思います。そういうことが無かったとしても、充分だと私は思う。 さて狂気と正気がまだらの状態を生きるメイベルの夫ニックは生きた心地もしないでしょう。地獄のようです。しかし、ラストがこの夫婦の今後を示唆していて、たぶん二人は共犯者のように生きていくのです。狂気が出たら仕方がないから殴ったりして、正気の時には普通の夫婦のようにして、世間から狂気の部分を隠しながら、そうして共犯者のように。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2008-12-22 14:21:16)(良:2票) |
8. 秋のソナタ
《ネタバレ》 自らも娘を捨てた過去をもつバーグマンが、あえて挑んだ母親役なのだと思う。バーグマンが見て欲しかった相手は、捨てた娘だけであろう。 娘役のウルマンはどこまでも母を責め、母のバーグマンは一応は許しを乞うがまた元の生活に戻っていく。接近した惑星どうしが、また遠ざかっていくような感じがある。 娘というのは母親に完璧を求めるもので、特に母親が「女」を発揮すると一生許さない。娘にとって、母親は「女」であってはならないのだ。 娘は「あんたはこんなにひどかった」と言いつづけてネタに事欠かないが、それは「こうであってほしかった、ああであってほしかった」という際限の無い要求の裏返しで、ヨソのお母さんと比べたらひどいということではなく結局のところは「母親として完璧でなければ許せない」なのだ…けれど、完璧な母親が存在しないということはいくらなんでも娘もわかっているだろう。どこの世界でも、娘は妥協して生きている。 けれど、エヴァにはヘレーナが居た。かつてヘレーナが母親の恋人に恋したとき、母親はあてつけに4日も早く旅立って恋人を取り戻した。意地悪をして、ヘレーナの恋心を踏みにじったのだ。それが原因でヘレーナの病状が悪化したとエヴァはいう。もともと母の恋人だろうが、母は娘であるヘレーナに対し「成熟した女」としてまともに威力を発揮してしまった。これは大マチガイだ。母親が娘と張り合ってはいけない。母が女を発揮するだけで娘は許せないというのに、これは最悪だ。だから、許せない。幼少の頃から構ってもらえなかったとかいうことだけなら、たぶんエヴァもヘレーナも母を許せたのだと思う。 そんな情けない母親でも、エヴァは過去を直視してほしい、少しでも母親らしくなってほしいという希望を捨てられない。無視しきれないのだ。けれど、作り手ベルイマンも、演じ手バーグマンも、こう思っているのではないかと思う。「母親に何かを期待するのは無駄である。」と。 完璧な母親はいない、すべての母親はシャルロッテほどひどくはなくとも足りないところがある、そして母親であろうとも一人の女として好き勝手に生きていく。娘は母親の人生に対して干渉しようにも完全に無力であり、それを傍観せざるを得ないのですよ、という意味のエンディングだと思う。 それにしても、リブ・ウルマンという女優さんは首が太くて肩もガッシリしてごついなあと思った。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2007-12-13 19:42:45)(良:1票) |
9. ブラジルから来た少年
《ネタバレ》 サーのつくイギリス人俳優ローレンス・オリヴィエ。ヴィヴィアン・リーの元夫。それが、ホロコーストを生き伸びた老ユダヤ人を演じるとは。私にはもうそのことだけで充分なような気もする。 「ブラジルから来た少年」というタイトルが絶妙で、何も知らず題名だけを見れば「母国で貧乏してアメリカかヨーロッパに移住してきたブラジル人というイミ?」くらいにしか思われない。ところがどっこいだ。 ほとんど「オデッサ・ファイル」の向こうを張った作品といっていいと思う。「オデッサ」に比べれば、これはどうしてもサイエンスフィクションということになるが、テーマは同じといっていいと思う。 編集・演出は冗長なところがあるとはいえなかなか見ごたえがあるし、「少年」の子役もブキミな感じがかなり出ている。なんで65歳の男性ばかり殺すのかというそのオチも効いている。が、なんといってもヨボヨボのオリヴィエがローゼンタールのような元ナチの追っかけ仕置き人を演じるところを見て欲しい。どうですか、イギリス人に見えますか。私には、生き残ったユダヤ人のじーさんにしか見えんかった。老いたりといえどオリヴィエ恐るべし。 が、映画としてはやはり「オデッサ・ファイル」に軍配を上げざるを得ない。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2007-12-09 20:24:30) |
10. コンドル(1975)
《ネタバレ》 特に期待もせず衛星に合わせたが、30年前の作品としては大変洗練されているのでつい見入ってしまった。 インタープリターでは全く感心しなかったポラック監督だが、若い時の作品のほうが優れているんじゃないだろうか。 このストーリーだったら説明を省かないと茶番になってしまうので、主人公がCIAで働いていることや、内部に敵がいることなどを、小出し小出しにセリフ以外のもので見せていく。玄関に監視カメラとか、受付の女性の引き出しに銃とか。クールな演出だ。 レッドフォードだけでも充分画面がもつのにマックス・フォン・シドーにフェイ・ダナウェイと豪華キャストだ。なんといっても見どころは、レッドフォード演じるコンドルの得体の知れなさを、舐めるようなカメラで撮りまくっているところ。ほとんどストーカーみたいに。 「コンドル」を見ると、「ボーンアイデンティティ」と似ているなーと思う。いや、逆だけれども。 ヒロインに色気のない女優を使うところまで同じだなあ。が、やはりスパイならば、レッドフォードのコンドルが正解だと思った。コンドルを見ていると、ジェイソン・ボーンの人物造型は〝いい人すぎる〟ように感じられる。コンドルというキャラを生み出した脚本も、善玉・悪玉の枠を超えた演出を加えたポラックも、なかなかいけている。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2007-09-30 15:43:14) |
11. マンハッタン
《ネタバレ》 残念ながら、衛星で受信したソレは、デジタルリマスターでもなんでもなく、めっちゃ汚い映像だったのだった。もしかして単なる劣化したビデオ録画をそのまま流したのではとまで疑わせる。 だから、絶賛される白黒映像美だったのかどうかが全然わからなかった。 それで、ストーリーの流れだけを一所懸命追うしかなかった。 「セレブリティ」の時はそんなに気にならなかった白黒映像が、妙にカンに障った。 なぜなら、私はNYという街の美化された姿について、「ユーガットメール」で散々刷り込まれていたもので。 エピソードの中で印象に残ったのはメリル・ストリープの冷たい前妻ぶりかなあ。〝メリル・ストリープなのに〟妙にセクシーだ。 私も、永遠さんの言われるように、「マンハッタン」でのウッディ・アレンはファニーじゃないと思う。マンハッタンのアイザックをペットにして飼う気にはなれない。よって、マンハッタンは何度も見たい映画ではない。 それにしてもダイアン・キートンは不思議な女優さんだ。彼女が出てくると、俄然画面に見入ってしまう。映画の面白さが違ってくる。吸引力がありすぎる。 字幕についてはやはり不満が残る。誰の訳だったかなあ。また例の人だったかな。 「アイムナッタセイント」を、「俺も男だから」って、そこまで訳すかなあ。この調子では、他の部分も意訳しまくりだったと思われる。 ひとつ気付いたこと。アイザックの新しい部屋はトラブルだらけで、神経質な彼はグズりまくり。 トレイシーは茶色い水にも騒音にもあまり動じず、グズるアイザックを受け流す。 反対に、メアリーは、部屋に入った途端「音がうるさい」「水が茶色くておかしい」など、即座に反応する。…二人は同じタイプ。 が、アイザックがラストで真実の愛(と思い込んでいるもの)に気付くのは、トレイシー。 カップルは、性格が反対のほうがいいみたいですね。アレンもそう思っているらしい。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2007-09-16 13:39:42) |
12. セルピコ
《ネタバレ》 10人中9人が「カラスは白い」と言っている場合、自分だけが「いや、カラスは黒い」と言えるだろうか。どうですか。 セルピコのやっていた事は、そういう事だったので、私はそこに日本人の想像する「正義感」とかいう物件とは別の背景を感じる。宗教だ。 映画「セルピコ」を見て、誰もが「よくそこまでできるよなあ。よっぽど正義感が強いのだろうなあ。」という感想を抱く。…でもセルピコは本当は、「内なる神」に対して誠実たらんと務めたのではないかと思われてならない。キリスト教の神というのは、「ウォッチング アス」だからだ。 恋人にも去られ、すべてを捨て、残った己の命さえも危険に晒すことができるほどの勇気というのは、「他人に見せるための正義や勇気」ではないのだと私は思う。彼が評価を求める相手は「神様」だけだったのだ。…だからたぶん、日本人が「正義感」とか「正義漢」という言葉でセルピコを語るのは、微妙に、というか根本的に違うのかもしれない。 さて個人が組織の内にあって、諸事情によりその組織と闘わなければならない場合、最も障害となるものは何かというと、私の場合は「妻子」という得体の知れない言葉であった。「自分の」ではないけれど。 洋の東西を問わず、「妻子」というのは、組織悪と闘う人間にとって、最大の障害となっているに違いないと思う。セルピコの闘いも、例外ではない。そして、「カラスは白い」と言って恥じない人間も、見ないふりをしている人間も、その動機に少しも「妻子」が関わっていないなどということは有り得ない。 最終的にセルピコに残ったものは、「命」と「犬」。私はセルピコの相手は「神様」だけだったと思うので、そういう意味では「悪い結果」ではない。…が、いかにセルピコでもやはり人間で、人間だから「欲」というのはあったのだな、孤独で嬉しかったわけではないし、自分が可愛いというのもあったのだな、というもろもろの言葉にならない感情が…あのベッドの上での一瞬の嘆きに現れた。「セルピコ」でのパチーノの演技は神がかった熱演だ。なんというか、血と肉を持ったセルピコその人の存在を強く感じた。これはパチーノによって単なる「社会派」を超えた名作となった。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2007-09-06 14:32:59) |
13. ポセイドン・アドベンチャー(1972)
《ネタバレ》 ご本家はこんなすんばらしい作品だったとは。 古い映画らしくテンポがゆっくりしているところが、昨今の映画ズレしたガサツな私などには「なにをモタモタやっとるんじゃ!早く逃げろよ!」とハッパをかけたくなる場面が多かったですが。まあ、それを差し引いてもすばらしい出来です。貫禄勝ち。 問題の転覆場面も大迫力で、新しい映画にも全く引けを取っていないし、私程度の観客はこのぐらいで充分満足だ。やっぱり映画は技術なんかじゃない!こりゃあ、劇場で見たかったなあ。とめずらしく思うのだった。 ジーン・ハックマン。このすんばらしい神業のようなセリフまわしの妙よ。そう、役者さんとは早口でもあくまで割舌良く、ほれぼれするしゃべりができる人のことなのですね。この人を見ていると、「ああー、私はいま、プロ中のプロの演技を鑑賞しているのだ」とありがたーい気持ちにすらなってくる。 これはやっぱりすごく宗教色の濃い映画でしたね。のっけから、カソリックの神父とプロテスタントの牧師のつばぜり合い。デッキにはユダヤ人の夫婦がなごんでいるし。パニック映画だというのに、最初から宗教前面押し。そして驚愕のラスト。プロテスタントの名(異を唱える人々)のとおり、牧師は運命に「抗い」、他人の意見に異を唱え、道を切り開く。そしてまた彼は、牧師でありながら「苦しい時こそ神頼みをせず」「自力で闘う」という独自の思想を持っている人物である。彼は〝己の思想〟に殉じたのである。実は殉教ではないのだ。…という意味では本当は著しく革新的なストーリーなんである。 ツリーの上から溺れる愚かな民を見下ろすスコットは、箱舟に避難したノアのようにも思え、己に従う人々を率いて道なき道を進むスコットの姿は、エクソダスのモーゼをも彷彿とさせる。が、しかしノアもモーゼもただ「神様がそういったから」言うとおりにしたというのみである。「ポセイドン」のスコットの行動はすべて彼の「内なる神」から出たもので、その「内なる神」とは「自力で闘う」という思想なのであった。 最後には自己犠牲までして「自力で闘う」を全うしていくスコットという人間が、「牧師」であるということ、この設定には深ーい意味がこめられていると感じます。もしかして、神父→牧師→自力という「進化」の過程といいたいのか。 なんにしても、映画史に残る傑作であります。ジーン・ハックマンは超グレイト。大拍手。 [DVD(字幕)] 9点(2006-10-20 22:42:31)(良:2票) |
14. オーメン(1976)
《ネタバレ》 「信じられる事柄以外は除外する」という方針の勝利と思う。ダミアンは超常現象も起こさなければ、乳母も魔術を使うこともなくただ「ドアを開ける」とか「肉弾戦で闘う」というひたすら人間的な活躍に終始する。悪魔崇拝していたと思われる神父たちの儀式場面など全く見せないところも洗練されている。それらは観客の想像力に任されている。 世の中には時々信じられない悲惨な事件が起きるが、通常人々はことが済んだあとで新聞の活字や、TVのニュースキャスターの口からその事を知るだけだ。たとえば「オーメン」のストーリーが実際の事件だったとしたら、「駐英アメリカ大使は妻子を伴ってイギリスにやってきた。妻のキャサリンは慣れない土地で育児ノイローゼになり、自宅で偶然の事故にあったことにより、錯乱して病院の窓から飛び降り自殺。妻の死にショックを受けた大使は精神に異常を来たし、妄想を抱いて子供を殺そうとしたが駆けつけた警察に射殺された」という3行記事に成り得る。これに対する普通の感想は、「まあー、なんて悲惨な事件でしょう。エリートなのにそんな妄想を抱くなんていったいどうしたことでしょう。」というものだ。その3行記事をある方向に膨らませて肉付けし、「もしかするとその3行記事の内幕はこういうことだったかもしれませんよー」というのがこの映画で、観客は「暴露話」を見ているような錯覚に陥るのであった。巧みである。 また、「死」の場面の挿入の仕方もうまい。「これ撮るの大変だったんだよ、うまく撮れたよなー。せめてここも入れちゃえ」という気持ちをあくまで抑えたみごとな編集。低予算とは思えない丁寧な作風である。 [DVD(字幕)] 8点(2006-09-09 11:59:56) |
15. 太陽を盗んだ男
ジュリー(演じる教師)は全くやる気がなくなってやさぐれた精神状態の中年男である。それはなぜでしょう。答えは「資本主義」の毒にやられてしまったからです。 そういった視点から見ると、これは個人的な問題なのに、実は個人的な問題でない。 「PINK」という岡崎京子の漫画を思い出す。 それは確か「資本主義に負けてしまった女の子の話」と作者が言っていた。深く納得。 この作品のジュリーも「資本主義」の毒と闘っていた男なのだ。そして刀折れ矢尽きる寸前に天啓のようにある方法を思いついた。 そして彼の見つけた「個人VS資本主義」の闘いに勝つ究極の方法は、「オカネ」を用いずして他人より優位に立ち、己の要求を通すという方向性のものであった。と、私は思っている。いっぽう「PINK」の女の子は、「自分の持ち駒のうち、需要があるものを売る(普通の人はそれを売らないが)」という最も「資本主義」を全うする道を自ら選び歩んでいるのだが、ここに、「資本主義に何の疑問も抱かずこれを全うするあまりに、人間性や尊厳を失う」という問題が当然生じてしまったわけだ。作者の岡崎はもちろんこの「純粋すぎる資本主義」を肯定せず、「PINK」の主人公には思いもよらぬ不幸が突然訪れるが、本人がそれを知らぬうちに幕は閉じる。 「お金があればなんでも買えて楽しい」と「お金が(充分に)ないからなんでも買えるわけじゃなくてみじめで不幸」の間にある広い川の途中のどこかで、資本主義国に生きる誰もが「資本主義」と闘っている。 たいていの人は「資本主義」と折り合いをつけて(またはあきらめて)老いて死んでゆくが、時には特異な闘い方を発見する者たちがいて、それが「太陽を盗んだ男」でもあり、一方には「PINK」の主人公が存在する。両者は同じ戦争を別の方法で闘っていただけなのだ。 私とて、できることならお金の事を考えないで一生暮らしたい。 野球中継がいいとこで終わるとき、この映画を思い出すなあ。 [ビデオ(吹替)] 6点(2006-07-18 23:48:35) |
16. ゴッドファーザー
《ネタバレ》 コルレオーネ家は、ケネディ家を模していると言われているが、日本人の私は「田中角栄」を連想してしまうのだった。 「フィクサー」とは、「もめ事の調停が得意な人」と私は解釈している。 では、どうすれば「もめ事調停分野」において他人より秀でることができるのだろうか。 角栄の事を書いた本をいろいろ読んでいくと、その道の常道はまずは「懐柔」そして「脅し」であるらしい。角栄の場合は、「懐柔」のほうに力を入れていて、「相手に法外(相場の2倍以上の)に有利な条件を提示する」ところから始めたらしい。これは当然「自分が持ち出す」ことが必須となる。そうすると、「常に自分が豊富なコネや資産を有する」が絶対条件である。そのために金策が欠かせないから無理に無理を重ねていくことになってしまう。しかしこうしてひとつ「貸し」をつくると、次の別件のときに「そうだあいつに貸しがあったから今回利用しよう」となり、「貸し」が増えるほどフィクサー本人はどんどん「ラク」になっていくという構造になっているらしい。 そしてわがドン・コルレオーネ。彼もまた無一文からのスタートであるから角栄とあまり変わらない。 元手となるものがない彼が「元手」とした最初のものが、街のダニであるドン殺しであったことは「Ⅱ」で判明する。彼が仲間に「貸し」を作り、優位に立つための「元手」、それは「人殺し」だった。そして「フィクサー」としての彼の手法は、「金を取らず」「貸し」を無限に積み重ねていくことで営まれてゆく。上記の「どんどんラクになる」の方程式に従って。このへんが、「Ⅱ」でのコロンボ夫人問題の時に如実に描かれていて、ヴィトの「手法」を鮮やかに見せる。しかし、ヴィトはあくまで「古い時代の町の相談者」に甘んじて、それ以上に「儲け」ようなどと思っていない。 ところが、大学出のマイケルは、単なる「もめ事調停人」から脱することを望み、そして「親父の時代のヤクザな仕事」から徐々に手を引いて、まっとうな「ファミリー」へ脱皮しようとしていくのだが…。 ちなみに、マイケルにヴィト譲りの並々ならぬ「ネゴシエーション」能力が引き継がれていることがはっきりと描かれている場面が「Ⅰ」にあります。皆さん、一瞬考えて見てください。 それは、シシリアでアポロニアに一目ぼれした彼が、拒絶する彼女の親父さんを口説いて面会にこぎつける場面です。 [DVD(字幕)] 10点(2006-06-25 22:03:47)(良:2票) |
17. ゴッドファーザー PART Ⅱ
《ネタバレ》 本当に何度見てもすばらしい。 今回見直してみて感じたこと、2点述べたいと思う。 まず「人生の収支」について。 ヴィトはコソ泥仲間に先駆けて、いちはやく人殺しを行った。しかも誰に強制されるでもなく。普通に考えたら、ヴィトは仲間よりもダントツにひどい人間だ。 ところがヴィトのその後といったら、町の住民には尊敬され、商売もうまくいき、仲間にも慕われ、妻にも愛され、多くの子供を授かり、あげくのはてに両親の復讐まで成し遂げる。そして彼に倒された多くの敵と違って穏やかに死ぬことができた。 彼の才能と努力のたまものといってしまえばそれまでのことだが、私はここに(コッポラの考えるところの)「人生の収支」の存在を感じる。 つまり、ヴィトの前半生は、後半の大成功を補ってあまりある悲惨極まりないものだったわけだ。ほとんどこれ以上の悲惨な少年時代はない、といえるほどに。私はヴィトの人生は源頼朝と似ていると思うのだが。(前半生悲惨、後半バカツキ) そして対照的に限りなく重苦しいマイケルの人生とはなんなのか。 私に言わせれば、マイケルに次々に降りかかる災難や、失われてゆくものこそ彼の「人生の収支」の「支」であるのだ。つまり彼は父から多くを与えられすぎているのだから。 2点目はドンの力が文字どおり「GOD」を超えたところで「Ⅱ」が終了していること。 フランクが自殺したこと、これはすごいことなのだ。シシリア生まれのイタリア人=ゴリゴリのカトリックの彼が、神に背いてまでドンの力に屈したのだ。そしてフレドはマリア様を讃える歌を歌っているというのに殺される。そしてエンディング。なんてことだ。マイケルはついに神様より強くなってしまったのだった。 しかしそんな全能のマイケルですら思い通りにすることができないもの。それが「金目当てでない女」である。生きるのがせいいっぱいの時代には、共に苦労したヴィトの妻なら、夫のすることを肯定し愛し続けたわけだが、マイケルの言う「時代が違う」=「女が変わった」。それなら「金で転ぶ」女にすればいいじゃん、といっても、肝心のマイケル本人は「金で転ばない女」が好みなわけで、どうしたってうまくいくわけがないという完璧なパラドックス(コッポラの作った)なのであった。 [DVD(字幕)] 10点(2006-06-23 22:45:18)(良:5票) |
18. サスペリアPART2
昔つきあってた人に当時イチオシと思っていた「ジェイコブズラダー」を貸したら、「オチもありがちだしどってことないよな」と言われ、かわりに「最も怖い映画」だと言ってこれを貸してくれた。 それで昔見てたけどまた見た。 分からなかった。 ほどなく別れました。 [DVD(字幕)] 5点(2006-06-12 21:43:44) |
19. 未来惑星ザルドス
ショーン・コネリーがふんどしいっちょで走り回る、それだけでもう笑ってしまう。娘のジェニファーは、父の赤ふん姿を見て何を思ったであろう。それにしてもなんて濃ゆい顔なんだ。なんか舞台ぽい演出には辟易した。グラディエーターの仮面はこれと似ているなと思った。あとストーリーは途中からどうでもよくなった。もともと好きじゃないランプリングは無視して(胸が貧弱すぎる)、やっぱ「獣」扱いされてロクにしゃべらず赤ふん姿で動き回るショーン・コネリー、これが見どころだった。(セリフ回しがやけに朗々としているとこが変だけど) [DVD(字幕)] 5点(2006-03-08 18:25:40) |
20. インテリア
たぶん去年見た。とにかくしゃべる。そしてもめる。もめてもめてもめまくる。ああうっとうしい。常に誰かが気分を害し、もめまくるのだ。世の中は利害関係に満ちている。たとえ家族であっても。みんながこんなに自己主張しなくてもちょっとだまってればいいじゃないかあ。彼らはわが国のように「隠す」ことを美徳とする文化がないのであろう。日本人の私の感覚でいうと、家族とすらこんなにもめまくる人生は疲れすぎる。体力負け(肉食にはかなわん)。 [DVD(字幕)] 7点(2006-02-18 23:29:26) |