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《ネタバレ》 主人公ミチは映画の中盤辺りでプランに申し込むのだけど、その理由、経緯、彼女の心の声は一切言葉として説明されない。これは主人公に限らず、主要な登場人物たちも同様で、誰も語らず、叫んだり、大きな声を上げない。皆が日常を過ごし、そこに現れる違和を噛みしめながら、ラストシーンに至る。
この映画は、社会問題を扱った作品だけど、そういう意味で映画的文学性が高い。問題が社会に広く伝わるというよりも個人の心に深く刺さる。倍賞千恵子の佇まい、その声も感動的です。 このような主題は日本だからこそ切実となる。少子高齢化、同調圧力、希望格差、そこから来るある種の諦め。遠ざかるアカルイミライ。この映画がカンヌで評価された背景には、現代版『楢山節考』という捉え方があったからだと言われる。 カンヌ最優秀作の今村昌平『楢山節考』。私は深沢七郞の原作小説が好きなので土着性に寄り過ぎている今村版映画はそれほど評価していないのだが、何れにしろ現代(近未来)の日本が舞台の『PLAN75』と『楢山節考』は決定的に違う。姥捨という社会のルール、その合理に対する個人の行動、ラストが違う。そこにこそ、社会と個人の関係性における、この作品の現代的な意味と価値があると私は思う。 ちなみに『遠野物語』の中で姥捨て山「デンデラ野」は、老人たちが村落共同体から離れて集団生活する場所として紹介されている。今で言う老人ホームみたいなもの、介護人はいないけど、そこを拠点に老人たちが衣食住を共有し、働けるものは働きにも出ながら、家族から離れて集団生活していた。棄老や姥捨は、口減らしのために、老人を山中などに捨てたという習俗として、日本各地に伝説として残っているが、『遠野物語』の「デンデラ野」のようなケースもあったのではないか。江戸時代の町人が書いた日記に「病気になった者や世の中で不要になった人間を捨てるな」との町触れが幕府から全国的に出たという記事がある。村落共同体から離れて、そういう棄てられた人々が集う場所が実際にあったということは想像に難くない。 棄老と共に、江戸時代の農村では、間引きも普通に行われていたという。赤ん坊は初宮参りという通過儀礼を済ませる事によって産褥が終了し、人間社会の一員になるという一般認識があった。「七歳までは神のうち」という言葉があるように、人間には「正式な人間」と死と繋がっているという意味での神仏の領域があり、その区分は地域によって違いがあった。生の領域と死の領域が人間の一生の内にもあり、死の領域は霊的な世界として神仏に繋がる。生の向こう側の死を生きて家を守る。さらに生まれ変わるという輪廻の考え方もあっただろう。それが祖霊信仰であり、日本人の昔からの宗教でもあったといえる。 そう考えると、生と死の境界がはっきり分かれた人生、生を生きる人間という概念は近代以降に確立したものであることが分かる。母性や父性、風景なども同じ。そこに近代文学の起源もある。 今、私達は近代からのヒューマニズムを当たり前のこととして、それを大前提として社会を構築している。それは素晴らしいこと。しかし、昔から当たり前であったわけではない。だからこそ、歴史を知ることで、生を生きる人間を第一とする今の社会の在り方を捨ててはいけないと思える。 【onomichi】さん [映画館(邦画)] 8点(2025-01-14 23:05:06)(良:1票) 《新規》
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