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《ネタバレ》 「継続されない遺伝子」、「“種”における死」、という言葉がグルグルと頭を駆け巡った。人種差別で全く関わることのなかった男女の人生が、各々の息子の死をキッカケとして、近づき・引かれ合い、そして最後には深く求め合う、というこの映画の構造の中に、プリミティブな意味を妄想してしまった。それは、息子の死によって「己の遺伝子を受け継ぐ存在」を無くしてしまった両性が、その喪失感を互いに埋め、最終的にカラダのスキマを埋めることによって、無自覚的にそして本能的に「遺伝子を継続」させる行為に到達・実行していた、という観点です。両性は息子達が死ぬことによって、生物の根源的な目的である「“種”の保存」を実行できない存在に急落し、「“個”としては生きているが、“種”の存在価値では終焉を迎えた」という状況にいたのです。そんな両性が本能的に、各々を補完できる存在を求め、“人種”という表層的な障害を排除し、“種”における自己の存在意義回復を試みる映画である、と受け取ったのでした。人類は「脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・ヒト科・ヒト属・サピエンス種・ホモサピエンス」と言い、人類学者は「これ以上細かく“人種”なるものに細分する生物学的根拠は何も無い」とし、“コーカソイド”と “ネグロイド”という、言われ無き区分は、意識レベルでの思惟的な差異・差別であり、“ホモサピエンス”という、たった1つの
“種”の前では、黒も白も関係無く、ただ男と女がいるだけのことだったのです。“男であることの存在意義”と“女であることの存在意義”を肉感的にぶつけ合い、「この“黒人女”と関わりたい」という、つき動かされるような自己欲求を認識した時、男は阻害要因となる黒人差別主義の父親を追放することになります。それは父親の主義・存在を否定し、究極的には血縁を断つことを意味し、大袈裟に言うと「遺伝子を受け継がない」と宣告したことに他ならないのです。「八方塞がりだ」と父親は最後のセリフを言う。“種”における死(存在意義の消滅)と、そのすぐ後にやってくるであろう“個”の死を自覚したのだろうか...。 ラスト、女の内なる葛藤が発露され、それをグッと自分の胸に飲み込むことによって、男との関わりを静かに受け入れてゆきます。それぞれに、“秘めた思い”を胸に仕舞い込みながら佇むこの夜から、両性の根源的な復権がきっと、なされていくのでしょう.....。 【マーク・レスター】さん 7点(2004-04-11 23:27:12)
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