1.演技法はやはり映画黎明期特有の大振りで、顔を手で覆って回顧したりする。本作は「低俗娯楽でない芸術映画を創るんだ」という意気込みで製作されたフィルムだから、とりわけ新劇臭が濃いのかもしれない(クリスマスのシーンなんかがある)。しかし姪にバイオリンを聞かせている樹に寄りかかっているカットの美しさ、なぞは普遍的な映画の「美しさ」に至っている。運命の分かれ道のカット、八木節の兄妹が去っていこうとしている道、伝明ら親子の帰郷の丘の上から見た道など、画面の奥に伸びていくカットに映画ならではの新鮮さが感じられる。あのお爺さんが小山内薫だそうで、太郎がこの監督の村田実、じいやの役がシナリオを担当した牛原虚彦とのこと。関係者一同がスタッフキャストを兼ねワイワイやっている自主制作的な手作り感に時代の息吹が感じられ、現在の我々には歴史的人物を動画で見られる興奮がある。オバサンでしか知らない英百合子が令嬢役。テーマは寛容と非寛容の対比で『イントレランス』の線。大正10年とはそういう時代だったんだろう。関東大震災より前だ。令嬢の想いが駅の太郎のとこに現われ、父のとこに息子(?)が、また落ちぶれた主人公のとこに若き主人公がバイオリン持って現われ、なんてトリック映像が当時の観客にはびっくりだったんだろうね。いやそうでもないか、目玉の松っちゃんの忍術映画など、彼らが目の仇にした「低俗娯楽映画」でもうその手の映像はさんざん見て、観客の目は新劇人より肥えていたはずだ。