3.《ネタバレ》 二人の黒人の若者が、闇夜を逃げ惑うように疾走するオープニング。
そのシーンが彷彿とさせるのは、言わずもがな、逃亡奴隷の悲壮感。
しかし、そんな観客の思惑を裏切るかのように、彼らがたどり着いたのは、ブルースの女王のライブだった。
多幸感に包まれながら、多くの黒人たちが、彼女の歌に魅了されている。
ブルースの起源は、奴隷時代に自由を奪われた黒人たちが労働中に歌っていた音楽らしい。
時代は1920年代。そこには、「人種差別」などという表現ではまだ生ぬるい、「奴隷制度」の名残がくっきりと残っていた。
人類史上に、闇よりも深い黒で塗りつぶされた怒りと、悲しみと、憎しみ。
登場人物たちの心の中に色濃く残るその「黒色」が、全編通して、ブルースのリズムに乗るような台詞回しの中で表現されていく。
その「表現」は、まさに黒人奴隷たちの悲痛の中から生まれた音楽のルーツそのものだった。
テーマが明確な一方で、この映画が織りなす語り口はとても特徴的だった。
前述の通り、時にまるでブルースの一節のように、熱く、強く、発される台詞回しも含め、人物たちの感情表現が音楽の抑揚のように激しく揺れ動く。
あるシークエンスを経て、登場人物たちの感情が一旦収まったかと思えば、次のシーンでは再び抑えきれない激情がほとばしる。
そしてその激しい感情の揺れの様が、ほぼ小さな録音スタジオ内だけで展開される。
今作は、舞台作品の映画化ということで、監督を務めたのも演劇界の巨匠であることが、このような映画作品としては特徴的で、直情的な表現に至ったのだろう。
特徴的ではあったが、その演出方法こそが、“彼ら”の抑えきれない怒りと悲しみを如実に表現していたと思う。
主人公となるのは、“ブルースの母”と称される伝説的歌手と野心溢れる若手トランペッター。
二人の思惑とスタンスは一見正反対で、終始対立しているように見える。ただし、彼らが白人とその社会に対して抱いている感情は共通しており、その中で闘い生き抜いていこうとするアプローチの仕方が異なっているに過ぎない。
そこから見えてくるのは、白人に対して根源的な怒りと憎しみを抱えつつも、それを直接的にぶつけることすらできない彼らの精神の奥底に刷り込まれた抑圧の様だ。
行き場を見いだせない怒りと憎しみの矛先は、本来結束すべき“仲間”に向けられ、物語は取り返しのつかない悲劇へと帰着する。
ようやく開いた開かずの扉の先にあったもの。将来に向けた希望の象徴として購入した新しい靴。
若きトランペッターが抱き、必死につかもうとした“光”は、無残に、あっけなく潰える。
そして、もっとも愚かしいことは、この映画で描きつけられている描写の一つ一つが、決して遠い昔の時代性によるものではないということだ。
交通事故処理に伴う警官とのトラブルも、白人プロデューサーによって奪われる機会損失も、収入格差と貧困も、彼らに向けられる“視線”すらも、今現在も明確に存在する「差別」の実態そのものだ。
アメリカの黒人奴隷制度が生み出した250年に渡る「闇」。時を経てもなお、憎しみの螺旋は連なり、悲劇と虚しさを生み出し続けている。
この映画が本当に描き出したかったものは、100年前の悲劇ではなく、今この瞬間の「現実」だった。
最後に、今作が遺作となってしまったチャドウィック・ボーズマンの功績を讃えたい。
この物語が表現する怒りとそれに伴う虚しさを、その身一つで体現した演技は圧倒的だった。
がん治療の闘病の間で見せたその表現は、文字通り「命」を燃やすかのような熱量が満ち溢れていた。
この世界が、若く偉大な俳優を失ってしまったことを改めて思い知った。