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映画の最後に、この「ランボー」シリーズの様々な場面が回想されて、ああシリーズもこれで終わりか、としみじみするべき場面なんでしょうが、いやいやいやいや。この突拍子もないシーンの数々、どう考えたって、一人の人間が一度の人生で経験するワケがないでしょ、と。こうやって一遍に並べちゃうと、もはやギャグですねえ。「ランボー」というキャラはこうやって、スタローンのオモチャにされてきた、という・・・。
2作目あたりからかなり雲行きが怪しくなり、3作目などは完全に黒歴史になってて、そうなるといっそ「無かったこと」にして回想シーンから省きたくなるのも山々、だとは思うのですが、それでも、そういう作品も作っちゃったという暗い過去に目を背けることなく、ギャグみたいであれ何であれ、ちゃんと回想シーンに入れてくる。スタローン、偉いじゃないか。
「ランボー」というキャラをオモチャにしてしまったことへの贖罪の気持ちの表れが、この作品なのか(それとも単にもう一発だけ、ランボーネタで稼いでおこうということなのか)。ランボーとしてのスタローン、最後の挨拶。
なんとなく、結局は「若き日のランボー」みたいな作品がまだまだ作られそうな気もしつつ。それは言わない約束か。
さてこの作品。かのランボーがいまや普通のアメリカ市民の一人として普通の生活を送っている、という、ほぼあり得ない設定で開始され、この時点で、「ツッコミはいくらでも甘んじてお受けいたします」という製作サイドの覚悟が垣間見えるような。ツッコんであげるのも親切、かもしれないけれど、厳しい私はあえてこれ以上ツッコミませぬ。
庭の地下にはわざとらしく、ナゾの坑道みたいなのが作られていて、クライマックスに向けた準備も早々に整えられています。こういうところも、ツッコミが好きな方はどうか、盛大にツッコんであげて欲しい。最後の介錯だと思って。私はツッコミません、悪しからず。本当これで最後かどうか、わからんしなあ。
で、とにかく、この平和な生活がおびやかされ、破壊された時、今やジジイとなった歴戦の強者ランボーが老骨に鞭打ち敵に立ち向かっていく、復讐譚。ゲリラ戦もどき、いや、ゲリラ戦ごっこ、みたいなものが繰り広げられるのですが、そこはそれ、前作から顕著になった残酷描写を容赦なくブチまけて、単なる「ごっこ」とは言わせない「イッちゃった感」が横溢しております。思えば一作目こそ、過去のトラウマと現実とが入り混じった混乱の中で暴走するランボーの危うさ、というものがあったけど、その後のランボーは正常な意識の中、様々な形で暴走を繰り広げてきた訳で、今回も復讐に燃える彼の、残虐行為自体は狂気を感じさせるものながら、意識はいたって冷静に見受けられるのが、また別の危うさを感じさせます。
ここには「赦し」といったものはありません。戦うことを宿命づけられた男が、戦い続ける。それ、あるのみ。
できれば最後に、あの実にウサン臭かったリチャード・クレンナをタコ殴りにし(残念ながらすでに他界しているが)、ブライアン・デネヒーと電撃和解してシリーズを終わってくれれば、キレイに収まったと思うんですが、スタローンの贖罪は、そこには無く、ランボーはあくまで、戦うランボーとして、年老いた自分の肉体でもってその姿を描き切る。なんなら、タコ殴りにされるのはランボーの方であって、その腫れあがった顔には、ロッキーの姿も重なったりしつつ。
それにしても、今回の敵も、メキシコ人ギャングという、「外国人」。アメリカ人以外だったらナンボでも殺してよい、というのがまた、いかにもランボーらしい作品ではありました。