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国家の“隠蔽体質”は、現代社会においてはどうやら世界共通のようで。
冒頭主人公が発する「僕らの世界では紙は法を守るために使うんだ」という台詞が如実に表している通り、権力を行使する者にとって“危うい紙”、即ち「レポート」はそれを具現化することすらあまりにも困難であるという現実を突きつけられた。
それは無論、大国アメリカに限ったことではなく、今現在日本の国内メディアでも賑わっているように、世界中の政府で横行し続けていることなのだろう。(まあ日本のそれはこの映画の題材とくらべるとあまりにも低レベルだが……)
「9.11」を目の当たりにし、強い正義感を携えて政府の要職に“就職”した主人公が、CIAが隠蔽した悪辣な尋問プログラム(詰まるところ「拷問」)の真相を暴くため孤軍奮闘する物語。
上院の情報委員会に所属する主人公は、組織の指令のもと、ひたすらに調査を進める。
この映画がある意味特徴的なのは、主人公の描写は、本当に「調査」と「報告」に終始するということ。
もちろん、実際の調査を担当した職員が主人公であるわけだから、それがリアルなのだが、数多のポリティカルサスペンス映画の様に、主人公の身が何か暴力的な危機や恐怖で脅かされたりすることはなく、主人公の人間的な背景や出自がドラマティックに描かれるわけでもない。
それどころか、この主人公のプライベートは殆ど描かれず、秘密施設の一室に詰め込み、延々と調査を進める描写しか映されない。
「拷問」の真相を追究する主人公自身が、あたかも閉ざされた一室で「拷問」を受け続けているようにすら見えてくる。
この映画が終始一貫して描くことは、「正義」という概念のあまりにもあやふやな定義と脆さだと思う。
主人公はもちろん自身の「正義」を信じて疑わず、自らの職務を何とか全うしようとする。
だがしかし、それでは彼が対峙するCIAや、「強化尋問」という愚かで馬鹿馬鹿しい拷問を延々と繰り広げたエセ科学者たちは、果たして「正義」を掲げていなかったのか?
劇中では敢えてしっかりと、糾弾の対象であるCIAの管理職の面々や、科学者たちにも自らの「正義」を語らせている。
結局、この映画のほぼすべての登場人物たちは、「9.11」で明確に“破壊”された自国の安全に対して、それぞれの「正義」を掲げ、職務を全うしているに過ぎない。
この現実世界において、「正義」と対立し争うものは「悪」ではなく、「別の正義」だという誰かの名言に行き着く。
前述の通り、画面描写的には極めて地味で淡々とした映画に思えるが、現実のこの世界の愚かさに直面した心情的には、決して穏やかではいられなくなる。
「報告書を完成させるだけでなく、公表できる国でありたい」と、主人公のボスである上院議員は発言し、周知の通り「レポート」は公表に至った。
が、そこまでに至るのは、人的にも、タイミング的にも、やはり奇跡的なことなのだろうし、今この瞬間も、無数のレポートがシュレッダーにかけられ続けているのだろう。
そういう現実を、「無力だ」、「空しい」と諦めてしまうことは簡単だ。
たとえ微力であったとしても、この映画の様に、一つ一つの事実を詳らかにしていく姿勢こそが、この世界の最後の砦なのではないかと思う。