「馬鹿映画」、「クソ映画」、本作を観始める前に用意していた、 .. >(続きを読む)
「馬鹿映画」、「クソ映画」、本作を観始める前に用意していた、そういう安直なレッテルを問答無用にぶち破り、突き抜けたカタルシスに気がつくと包みこまれていた。
前作「ゴジラVSコング」は、その馬鹿馬鹿しさに辟易してしまい、個人的には酷評を禁じ得なかったのだけれど、確実に、その前作以上に超馬鹿馬鹿しい本作で、湧き上がる高揚感を抑えることができなかった。
「一線を超える」というキャッチコピーに相応しい、ゴジラとコングのあの“猛ダッシュ”に対して予告編の段階で「唖然」としてしまい、つい劇場鑑賞をスルーしてしまった。
が、今はそれを激しく後悔している。こんな文字通りの“お祭り映画”は、大スクリーンで観なければ始まらないという話。結果的に酷評となろうとも、やっぱり映画館で鑑賞すべきだったのだ。
“モンスター・ヴァース”と称される当シリーズ作は勿論、東宝のゴジラ映画シリーズを含めて、全ゴジラ映画を鑑賞してきた一ファンだからこそ、本作に対して「こんなのは“ゴジラ映画”じゃない」なんてことは決して言うことはできない。
本作のすべての創作物とその根底に敷かれた精神は、東宝が生み出した昭和ゴジラ映画シリーズの、「純血」とも言える系譜であり、その世界観を純粋に愛し、多大なリスペクトを持って踏襲しているからに他ならない。
前作は、1962年の東宝特撮映画「キングコング対ゴジラ」を、その“駄作ぶり”も含めて充実に汲み取り、世界最高峰の「物量」でリメイクした作品だったと言える。
故に、その出来栄えも必然的に“駄作”であり、ある種の“ゴジラ映画らしさ”を大いに感じると共に、落胆を禁じ得なかった。
が、この最新作においては、その昭和ゴジラ映画シリーズの伝統的なチープさや荒唐無稽をしっかりと受け継ぎつつも、更に圧倒的な「物量」と、娯楽性の追求で、大エンターテイメントを築き上げている。
個人的には、ストーリーの基軸に存在するキャラクターを、ゴジラではなく、コングに据えたことが、最も功を奏していた要因だったのではないかと思える。
やはりゴジラは、日本が生み出した崇高な大怪獣でもあり、「核」にまつわるその誕生の背景も含めて、アメリカ映画の“主人公”として描くことに難しさがあるように感じる。
当シリーズに登場する“怪獣王ゴジラ”に対して、その強大さに高揚感を覚えつつも、最終的に一抹の違和感や雑音を感じてしまったのも、その要因が大きかった。
一方で、“キングコング”は逆にアメリカ映画が生み出した歴史ある大怪獣であり、その描き方が熟成されていることを改めて感じた。
コングを主人公に据えて、深淵な地下世界における彼の闘いをストーリー展開の主軸として描き、ゴジラはあくまでも強力なライバル&助っ人として絡ませていたことが、余計な雑音無く、シンプルに大仰な娯楽を堪能できたポイントだったと思う。
あの予告編時点で開いた口が塞がらなかった日米が誇る大怪獣たちの“猛ダッシュ”に対して、手放しで歓声を送れる状態になるとは思わなかった。
畏怖の象徴としてのゴジラ映画は、「ゴジラ -1.0」に続き山崎貴監督ら日本のつくり手たちに任せてもらい、ハリウッドには引き続き昭和ゴジラシリーズのリブートに挑み続けてほしい。
個人的には、前作であまりにも中途半端だった“メカゴジラ”の「逆襲」に再トライしてほしいものだ。